My last 改稿版
願い 15

1

 塔頭の庭のもみじが黄色く染まり出してきた。もう二、三週間ほどで紅葉を迎えるだろう。澪は縁側で座り込み、涼しい風の音に耳を傾ける。けれど、その心の内は少しも穏やかではなかった。
 真希の話を聞き、禪院……否、伏黒甚爾の甦生は諦めた。それなのに、同じことばかりを頭の中で反芻する毎日が続いていた。

(真希先輩が言うには、恵先輩は渋谷で戦った人が自分の父親だとは知らなかったみたい)
(二〇〇六年に死別、当時恵先輩は三、四歳。覚えていなくても無理はない)
(……何故亡くなったんだろう。任務で? それとも病?)
(そもそも、彼は呪術師だったのかな。……どうだろう。呪力が無い者を呪術師とするなんて、禪院家や総監部が認めなさそう……)
(それに禪院家がいなかったことにしたかった、というのは、何故?)
(……呪力を一切持たない人間が名門に生まれた事実を隠したかったから?)
(それとも、呪詛師との繋がりや、非人道的な罪を犯した過去があるとか?)
(ああ、そうだ。彼を降ろした呪詛師の方は、どこで彼の強さを知ったんだろう?)
(彼を誰より知っている人は誰? 恵先輩のお母様?……呪術師なのかな。……今どこで何をされているのかな。会って話してみたい、けど……それはさすがに難しいか……)

 一度考えだせば、引き摺り出された巨木の根のように、知りたいことが広がっていく。
 しかし、澪が強い関心を向けるその相手は、自分の先輩である伏黒恵の実父だ。

(そうだ……。恵先輩のお父様を利用するなんて、出来ない。……諦めるって決めたんだから、もう考えるのはやめよう)
 ふと想起したのは、自分がどれだけ恵に救われたか、だ。任務中の身の危険は勿論、心までもを救われたことだってある。自分が恨まれるのは構わないが、恵を悲しませるようなことはしたくない。
 こうして何度も甚爾のことを考えるのを……、彼を甦生させたいと考えるのをやめようと己に言い聞かせた。
 しかしふと気づくと、肯定的な思考が廻り出す。

(でも、私がやろうとしていることは、誰にとっても同じこと。……誰かの大切だった人を利用しようとすることなのは変わらない。それなら、悩む必要なんてない筈)
(だって、自分が言ったんだから……“手段は選ばない。誰に恨まれても許しは乞わない”って。それなら、諦める必要なんてないんじゃ……?)

 自分で自分を嗜めても、迷いは右往左往とするばかり。正しいと思った判断を身内の別の自分が否定する。その繰り返しが苦しかった。

(……ここに来れば、冷静になってちゃんと自分の目的に向き合えると思ったけれど……、全然だめだった)

 深い息をついて立ち上がる。ふらふらとした頼りない足取りで外に出ると、二つ隣の塔頭の門扉から全く同じタイミングで人が出てきたのが見えた。その人の方を向けば、やはり同じタイミングで相手もこちらを向く。

  彼はあからさまに「しまった」と言いたげな表情をしたが、澪は驚きよりも嬉しさに目を見開き、考える間もなく駆け寄った。
「先生! こんなところにいらっしゃるなんて、珍しいですね!」
「うん。ちょっとね」
 そう言って五条は歩き出そうとする。しかし、澪は彼が出てきた一院の中に興味津々だ。
「この塔頭……はじめて見る門構えですね……。もしかして、先生も坐禅や精神統一をなさるのですか!」
「そんなところかなぁ」

 彼の返答を聞いた瞬間、澪の胸懐に晴れ間がさす。尊敬する恩師も修行するのだという感動と、その場で自分も気を集中させれば、何かしらの恩恵にあやかれるかも。そんな期待が膨らんでいった。
「では私もそこで修行します!」

 善は急げの精神で駆け出そうとするが、思いがけず腕を掴まれた。
「それよりさ。昨日の任務で行った長野のお土産があるんだよね。……澪だけに」
「お土産……! お菓子ですか?…………って、流石に食べ物では誤魔化されませんよ! 私にあの中に入って欲しくない理由があるんですね?」
「いや別に。なんにも誤魔化してないよ」
「ふふん。ご存知ないでしょう。先生が何かを隠している時、口を開く前に口角がちょっとだけ下がることを!」
 胸を張って五条を指刺すと、彼は長く深い息をついた。
「澪だけには会いたくなかったんだよなー」
「そんなに隠したいことがあるのですか?」
 彼が隠したいほどのこととなると、この先には高専の根幹に関わる施設や場所……例えば忌庫や天元の元へ行ける通路があるのかも知れない。澪の興味は益々増して、瞳の輝きも強くなる。対する五条は実に気乗りしなさそうな声を返した。
「…………一時的にだけど、そこに呪詛師を収監してるんだ。だから近づいて欲しくないだけ」
「じ、呪詛師……!?」
「そう呼ばれてる連中がどれだけ危険かは知ってるよね?」
「はい……」

 澪は未だに呪詛師と呼ばれる人間に会ったことはない。けれど彼らが呪術師と異なる存在として定義される所以は知っている。それは「己の欲望の為に呪殺を生業としているから」である。あけすけに言えば犯罪者……人殺しだ。

「先生、……お怪我はありませんでしたか……?」
「ありがとう。大丈夫だよ。偶然敷地の外でうろうろしてんのを憂太が見つけてくれてね。捕まえて報告上げたら、総監部からこっちで詰問と処分をするように言われて、収監だけ済ませたところ」
 彼にしては珍しく、声音に不満がありありと乗せられていた。理由は窺い知れなかったが、捕らえた呪詛師を高専に留めておくの良く思っていないのは確かだ。
「処分」という言葉も不穏だ。つまり殺生ということだろうか。その呪詛師は命を奪われるほどの大罪を犯してきた人物なのだろうか。
 澪が緊張して口を閉ざすと、五条はぽすんとその手を頭の上に置いてきた。

「……あの寺の中には細工が施されてるから、間違って学生が入ることもないし呪詛師が脱走することもないよ。だから心配する必要はないけど、……絶対に近づかないでね」
「……はい」
 素直に返事をしたつもりの澪だったが、その関心は一直線に呪詛師が収監されている塔頭に移っていた。

(呪詛師……。そうだ。呪詛師なら、渋谷のこと、彼を降ろした降霊術師のこと……、彼のこと。訊けばなにか知ってる……かも?)
「取り敢えず、色々吐かせるのには時間がかかりそうだから、一旦撤収。澪もおいで」
 上の空のまま、澪は頷きだけを返した。しかし反射的に頷いただけで、何を言われたのかは全く理解していない。頭の中はどうやって誰にも気づかれずに呪詛師に会いに行くかという作戦会議の真っ只中だ。

「……ダメだよ」
「んむ!?」
 思わず思考を止めて目を見開いた。自分の口唇に彼の指先がぴたりと添えられていた。考えることに没頭していて触れられるまで気が付かなかった。
「知らないでしょ。君が何か悪いことを企んでる時、ちょっとだけ口がへの字になること」
「へ……、あっ……!?」
 慌てて一歩下がり、口元を手で覆う。もしや、呪詛師に会いに行こうとしている思考まで読み取られてはいないかと焦りが生じた。
「嘘」
「え?…………。……騙しましたね!?」
「澪は考えてること全部顔と態度に出るからね。表情の機微を読み取るまでもないんだよ」
「んぬぐぅ……」
「おいで。…………いうこと聞かないと、抱っこして連れてくよ」
「行きます! どこにでもついていきますっ!」
「……言ったね。丁度手伝って欲しいことがあったんだ。じゃ、早速任務に行こうか」
「え゛っ」

2

(結局、本当に任務に付き合わされた……)
 しかし、果たしてそれは五条が請け負う予定の任務だったのか疑問が残る。思い返せば、澪の関心を削ぐためだったようにも思えるからだ。
 任務中、彼は澪に指示するだけで、何もせず見守っていただけだった。高専に帰ってくる時にはすっかり疲れ果てるほどにこき使われた。けれど、もしもこの任務が五条の担当案件だったのなら、二級術師の澪が一人で対処できるはずがない。

(……とは言っても、先生の思惑を考えても仕方がないか。……ひとまず今日はもう寝よう……)
 寝支度を済ませてベッドに横になると、疲れが真上からのしかかってくるようだった。しかし、睡魔が彼女の瞼に触れようとした瞬間、焦燥に似た感情が弾き返す。
(明日まで、捕まえられた呪詛師は高専にいるのかな……。もしかしたら……)
 処分、または移送される可能性は大いにある。そうすれば、新たな情報は手に入れられなくなるかもしれない。
 高専に発覚すれば大事になりかねないことは分かっている。けれどどうしても甚爾の情報を手に入れたい。学生の身分では出来ることも行動範囲も限度があるから、これが最初で最後のチャンスかも知れない。
 澪は完全に覚醒し切ってしまった身体を跳ねるように起こす。
……彼女の無謀は誰にも止められなかった。

 父の呪符を携え、呪詛師が収監されているという塔頭へとやってきた。
 この中には細工がされていると五条は言っていたが、攻撃性の罠である可能性は低いだろう。ここが敵地やどちらにも属さない場所ならまだしも、味方しかいない敷地内で侵入者を害する仕掛けを置くのはリスクが高い。
 だとしたら、施されているのは天元の結界が由来した細工――例えば認められた呪力の持ち主以外の出入りが出来ない、またはアラートの発動が妥当だ。

(父様の呪符で入れなければ諦める……。見つかって怒られたら、素直に謝る……)
 壁に背をつけ、周囲の気配を確認しながら中に入った。小院の中は灯りがついておらず、真っ暗で人気は感じられない。外で秋虫が鳴く声だけが、かすかに聞こえていた。
 澪は息をひそめ、その場でしばらく目を閉ざす。
 そっと瞼を持ち上げると、障子から薄らと透ける月明かりだけで周囲が見渡せるようになった。体重移動にも気を巡らせながら奥へと進んでいくと、にわかに突き当たりの壁に違和感を覚えた。

(今……少しだけ、壁が歪んだような……?)
 近づいて行ってそっと手を添えると、指先がすっと壁の中に沈み込む。けれど皮膚には物に触れている感覚はない。もう少し腕を伸ばすと、手首まですんなりと壁の中に吸い込まれていった。

(この奥だ……!)
 こういう時の彼女の直感は大概当たる。澪は一度手を抜いて、もう一度周囲を見回した。誰もいないのを入念に確認し、半身だけ壁の中に滑り込ませる。
 中を目探しすれば、黒々とした石壁で覆われた廊下が短く続いており、地下へ降りる階段があった。壁に埋め込まれるようにして等間隔に灯りがともっている。
……行くしかない。残る半身を引き込んで、澪は隠し通路の奥へと進んでいった。

3

 階段を降りた先は、映画で見るような地下牢そのものだった。鋼鉄製の野太い格子が左右の空洞を囲っている。随分と古風な牢獄だが、感じたことのない呪力を強く檻から感じる。何らかの術式が付与されているらしかった。簡単に破壊することも脱出することもできないようになっていそうだ。……これには迂闊に触らないほうがいいだろう。
 並ぶ牢のどれもが無人のようだが、右側の手前から三番目の檻……そこだけ明らかな気配があった。
 相手はこちらに気づいているだろうか。澪は息をのみ、それからゆっくりとはいた。足音を最小限に抑え、檻に歩み寄る。

「こんばんは」
 覗き込むように体を真横に傾け、笑みを湛えながら檻の中を窺う。そこには拘束衣をつけられて床に転がされた初老の男がいた。無骨な相貌で、体格は中肉中背。見た目は何ら普通の人間と変わらなさそうだが、視線だけは猛禽類に似た獰猛さが感じられる。
「…………拷問に来た呪術師じゃなさそうだな」
 男は不吉な笑みを浮かべてこちらを見上げた。……相手は仰いでいるのに、見下されているような感覚が不快だった。けれど、澪は相手の態度を意に介さない振りで、明るい声音を返す。

「ここに呪詛師が捕まっていると聞いて、ちょっと見てみたくなったんです。その拘束衣で呪力を抑制されているんですか?」
 まるで興味津々といった表情で物珍しそうに眺めると、男は舌打ちをして関わりたくなさそうに澪から視線を外す。
「転がっているだけでつまらないです。本当に呪詛師なのですか? いつもとっても悪いことをしているんですか?」
 男は嘲るように笑った。
「温室育ちのバカガキ。とっとと帰って寝ろ」
「いやです。貴方が本当に呪詛師なら、聞いてみたいことがあるんです」
 すると、男はこちらを一瞥した。どうやら会話をする気は残してくれたらしい。躊躇いなく口を開いた。

「貴方の知り合いに、降霊術を生業にしていた方はいましたか?」
「降霊術? いねぇな。俺らは基本、単独で動くから知り合いなんてほとんどいない。他の術師はみんな競合相手みたいなもんだからな」
 言い終えて、男は下卑た片笑みを浮かべてみせる。
「なあ。回りくどい聞き方はいけねぇな。腹の探り合いなんかしないでよ、アンタが聞きたいことを単刀直入に話してくれや」
 底意地の悪そうな笑いに対抗するように、澪も口角を釣り上げながら、けれど視線は鋭く男を見下ろした。

「禪院甚爾という方のこと、知っていたら教えて下さい」
「……ほお。そいつのことを教えたら開放してくれるか?」
「…………」
 ぎゅっと黙り込んで、澪は口を尖らせた。まるで子供が突然遊びに飽きたような表情で、あからさまなため息をついて踵を返そうとする。男はもぞもぞと芋虫のように格子の方へ這い寄って、澪を呼び止める。
「ああ。待て待て、交換条件はなしだ。ちょっとばかりなら、その名前を聞いたことがあるぜ」
「本当ですかっ」
 ありったけの期待を込めた瞳を向ければ、男は目を細めて頷く。
「もう十五年以上前になるけどよ。『術師殺し』って言って、俺らの界隈で名の知れた奴がいたよ」
「術師殺し……」
「会ったことはないけどな。噂では禪院家で落ちこぼれ扱いだったとか。なんでも呪力がこれっぽっちもねぇんだと。確かそいつがそんな名前だった気がするなぁ」
「……他にその方について知っていることは」
「さてなぁ。どうしてもそいつの情報が知りたいなら、俺らが使ってるサイトで依頼をかけてみるといい。金さえ払えば情報提供者が現れると思うぞ」
「サイト? 依頼? それはどうやって探せばいいんですか?」
「焦るな、焦るな。特別に教えてやろう。ただし、他の奴らには秘密にしてくれよ。俺もアンタがここに来たことは黙っておいてやるからよ……」

…………当然この男に親切心など皆無なのは分かりきっている。無知で好奇心旺盛な子供を陥れたいだけだ。呪詛師の世界に手を出して大事になるのを目論んでいるのだろう。
「はい。約束です」
 けれどこの男の思い通りにはならない。彼女は幼い頃から得意としている白痴の笑みを返した。

 それから牢屋を後にした澪は、翌日から連日休む間もなく任務をこなし続けた。甚爾の情報を買うための資金が必要だからだ。
 元々溜め込んでいた金額では足りない。ああいう世界では何百、何千……下手をすれば億の金が動く。試しにネットカフェで裏サイトを覗き込んだが、情報提供の依頼だけでも数百万、人物によっては数千万の金が要るらしい。
 甚爾の情報にいくらの価格を付ければいいのか分からないが、高ければ高いほど有益な情報を得られると考えた澪は、二級以下の任務を一日およそ十件以上請け、三ヶ月を掛けて何とか五百万の資金を用意した。これで足りるかどうかは全くわからない。
 とはいえ今の澪にとってこれが限界だ。金が見合わなければ提供者は現れない。ひとまず裏サイトで情報提供を募り始めることにした。
 位置や素性が特定される場所を避け、街中のネットカフェを転々と利用し、慎重に何日も提供者を待った。
 名乗り出る者は何名かあったが、簡単に信用してはならない。
 正確な情報を有しているかどうかを慎重に選定し、一週間後、最も確実な情報を持っているであろう男に辿り着いたのである。

4

 激しく雨が降りしきっている。反響する雨音に紛れ、冬の吐息を孕んだ空気が素肌に突き刺さる。
 都心の大通りから横道に入り、閑散とした道を進んだ先にある建設途中の廃ビル。全ての階層はドアや床、壁紙も施工されておらず、コンクリートが剥き出しだ。
 四階の一室の入り口間近で、澪は張り詰めた顔付きで立っていた。
(…………定刻通り)
 長方形の空洞の奥、薄暗い室内。間違いなくそこに相手はいる。
 中には入らず、入り口横の壁に背を預けた。極力低い声音を出そうと喉の奥底に力を込める。

「お待たせ致しました」
「……アンタ、依頼者本人か?」
 部屋の中から水音に乗って返って来たのは低い男の声だ。老いてはいないが若くもなさそうだ。
「勿論です。何か不都合でも?」
「いや。文面の印象より随分若いと思っただけだ」
「まあ、それは嬉しいお言葉ですね」
 笑いを含んだ返答に反し、澪は背筋に冷や水を垂らされている心地だった。
(やっぱり、直接会って話を聞こうとしたのは間違いだったかも……。この人に素性を隠し通せる自信がなくなってきた……)

 澪が冷や汗をかきながら対話を試みる相手は、甚爾に暗殺の依頼を斡旋していたという仲介役だ。この人物は、他の情報提供者たちが答えられなかった事を知っていた。
 甚爾の実子の有無、人数、そして名前だ。だからこそ自分が知り得ない多くの事を話してくれるだろうと信用し、文面ではなく口頭で情報を伝えたいという申し出を承諾したのだが、断るべきだったかという後悔が胸中に滲む。
 だが両者の間には縛りが設けられているので、そう簡単には澪を裏切ることはできない。着金の期日遵守と引き換えに、彼女は七つの条件を相手に課しているのだ。

……まず、取引場所には必ず一人で来る事。
 取引最中に相手の顔を見てはならない。
 いかなる媒体での撮影及び録音、記録行為を禁じる。
 黙秘は認めるが嘘を吐いてはならない。
 定刻前に必ず到着し、取引終了となるまでは他者への連絡をしてはならない。
 取引の終了は、依頼人が対話の終了を告知してから三十分後であり、情報提供者は取引終了後の退出を厳守すること。

 裏側に属する人間とはいえ、縛りも交わし手付金も支払っている以上、破談や契約以上の利益を得ようなどと画策はしないはずだ。しかし、澪が高専の学生だと感付かれた場合、話は変わってくる。
 呪詛師の間では高専の情報は殆ど出回っておらず、わずかな情報でも高値で取引されるらしい。だからこそ、高専の付近を嗅ぎ回っていた呪詛師は特に危険視され、情報の出所を探るために高専へと収監されたのだろう。

 五条との約束を破ってしまった事、仲間達を危険に晒しかねない行動である事、高専関係者に発覚すれば厳しい処分が下されるであろう事は、十分理解している。
 それでも、迷いが生じる間もなく澪は行動を起こしてしまっていた。
(もう今更後には引けない。取引を始めてしまった以上、情報漏洩には最大限注意して、この人から情報を引き出すだけだ……)

 軽い挨拶は早々に切り上げ、仲介役の男は「術師殺し」として暗殺を生業としていた時分の甚爾の経歴を淡々と話し始めた。
 甚爾は非術師の暗殺依頼を受けることはなく、専ら呪術師の暗殺で金を稼いでいたそうだ。手に掛けた人数は百を超え、名家や総監部の要人を殺めたこともあった。ゆえに随分と大金を稼いだそうだが、数日後には一文無しになっているということがしばしばだという。

(…………人を手に掛けて得たお金を湯水のようにぞんざいに使う……。まるで人の命を軽んじているみたい)
 澪の心緒は陰り出した。甚爾の所業に対する恐れではない。なぜ彼は堕落した道を選んでしまったのか、その経緯や理由に心が傾く。果たしてこれが彼の望む人生だったのか、そんな感傷に浸りそうになっていた。

 仲介役の男は甚爾と十年来の付き合いだそうで、仕事以外の彼の生活にも詳しかった。
 京都の生家では、呪力を持たぬがゆえに人としてまともに扱われず、仲介役と知り合ってからは東京近郊へと移った。甚爾は、二〇〇〇年ごろからパタリと依頼を受けなくなったという。二〇〇六年に再び依頼を受けるまではどんな依頼を持ち掛けても全て無視されたそうだ。

(きっと、その時彼は恵先輩のお母様と出会ったのかも……。暗殺から手を引いた理由は、一体なに……?)
 依頼を受けなくなった時分の甚爾は一体どんな様子だったのか……、経歴だけではなく、わずかでも心緒を想像できる材料を得たくて堪らなかったが、我意を身内に押し込めて、今回の情報収集において最も重要な問いを投げ掛ける。

「……それで。彼の最期は?」
「星漿体暗殺の依頼後のことだ。……依頼自体は成功したんだがな。遺体の納品後、護衛についていた呪術師にやられた」
(星漿体……、護衛……? それって、高専の呪術師ってこと……?)
「名のある術師ですか」
 短く肯定を返した男は、僅かな沈黙を経て答えを示す。
「五条悟だ。当時はまだ学生だったが、思えばその時に最強に成ったってこったな」

 にわかに澪は息を呑んだ。
 まさかここで恩師の名を聞くとは思わなかった。純粋な驚きもありながら、憶測すら過ぎらなかった事実に戸惑いが生まれる。

「報告じゃ、もう一人の護衛は戦闘不能で、五条悟は始末したと聞いていたんだがな。だが実際は生きていた。伏黒甚爾を殺ったのは五条で間違いない」

 仲介役の彼も、依頼人との取引終了後数刻を経て、甚爾が五条と戦い敗れたと知ったという。甚爾の遺体は高専が回収、そして禪院家が引き取った。
 五条は瀕死の間際、間一髪のところで反転術式を会得し回復したのだろうと男は推察を語った。
 甚爾は殺すべき相手に対し下調べを怠らない。五条が反転術式を使ったのは想定外だった筈だ。尚且つ致命傷を与えた程度で置き捨てたりはしない。確実にその手でとどめを刺さない限りその場を立ち去ることはまず有り得ない。それが男の見解だった。
 呪術師に対して有利な能力を持った男が、慎重且つ周到な戦略を立てても尚、五条悟という天才は仕留められなかった。尊敬する師の偉大さを知ると同時に、言いようのない複雑な感情が彼女の身内に渦巻いていた。

「そうですか。知りたかった情報は大方聞けました。ありがとうございます」
「一つ聞いていいか」
「……どうぞ」
「アイツを降ろすつもりなんだろ?」

 勘が良い男だ。問いかけには応じず、さっさと立ち去るべきだったかと澪は半ば後悔する。しかし此方は虚偽を伝えても縛りの違反にはならない。焦らず感情を乗せないまま答えた。

「降ろす? 何のことでしょう」
「降霊術だよ」
「いいえ。不正解です」
「嬢ちゃん。これは個人的な忠告だが、やめておいた方がいいぞ」

 澪は男の忠告よりも、自身が高専所属であることのみならず白主家の人間であることも勘付かれやしないかと全身の血液が凍りつく心地だった。
 この男は何らかの企みがあって澪との取引に応じている可能性もある。まさか加茂家に通じているのでは。この取引は思っている以上に危険ではないか。
 しかし動揺を声や気配に出してはならない。男の企みを探れないか、裏で糸を引く者の有無は。冷静な振りを続けたまま会話を続けた。

「何故です? 根拠はあるのでしょうか」
「知らねぇ訳じゃないだろ。アイツに関わって痛い目見た奴がいたことくらい」
「……二〇一八年の渋谷の件ですか」
「ああ。長くこっちの界隈に居ただけあって、あの婆さんは実力もあれば名も知れてた。降霊術で殺しに殺し、半世紀以上。嬢ちゃんとは踏んでる場数が違う」
「そうでしょうか? 何に於いても、経験の長さだけでは超えられないものがありますよ」
「才能か? それなら婆さんも嬢ちゃんも、アイツには敵わない」
「…………」
「婆さんはセオリー通りに降ろしてた。不測の事態を起こさないため、肉体情報だけを術師とは別の媒体にな」
 やはり予想通りだった。だとしたら、澪の仮説通りの展開になったことになるが、首を振って否定する。
「器の魂が天与の肉体に負けたと? あり得ないですよ。そんなこと」
「残念だがアンタが手を出そうとしてんのは『あり得ない』を軽く覆す男だ。……もう一ついい事を教えてやろう。術師の死亡で降霊術式がバグを起こした後、あいつは暴走状態から自我を取り戻して自裁した」

 この取引には縛りがある以上、男が語ることは全て真実。真希が畏敬を表すほどの天与呪縛の恩恵は、やはりこの世の理さえも凌駕しかねない、イレギュラーにさえ属さない異分子。澪の身内にも、大きな期待と畏怖が芽生える。

「要するに、誰にもあの男は扱えないってことだ」
 不思議なことに、どうにも男の言葉からは害意をあまり感じない。澪が子供だと分かっていて怖がらせようとしているようではない。その一言からほんの一瞬感じられたのは、冷淡な言葉に内包された人間らしい情だ。
 それが澪に向いているとは到底思えないが、仲介役の男が感情を持った同じ人であると理解した途端、澪の肩の緊張は緩み、普段の調子が戻ってきた。ゆっくりと細い息を吐けば、心が安定していく。

(……例え彼の天与の肉体が規格外だとしても、こちらは幾重もの失敗を想定し、幾つもの仕掛けを施しておけばいい。それだけのこと)

「彼がどんな人であれ、問題ありませんよ。私の術式は完璧ですから」
 すると仲介役は小さく笑いを溢す。
「……そうかい。それなら、いずれアイツの顔を見られんのを楽しみにしてるぜ」

 どこか親しげに。しかし澪ではない誰かへと向けているような声調であった。すると忽ち澪の胸の内に濁った泥のような不純な情が湧き上り、考えもないままに口を開いた。

「残念ですがもう二度と関わらせません。貴方には。……絶対に」

 甚爾の情報を脳内に刻み込むうちに芽生えた不可解な感情。それが自然と澪の口を動かしていた。自分が彼を甦生させたあかつきには、決して裏サイトだの呪詛師だのには近づけたくないと。自分のためではなく、……彼のために。

「最後に、こちらからもお聞きしたいことがあるのですが」
「ああ」
「私が降霊術を使うと分かった理由は?」
「勘だな」
「……。ふざけているのですか」
「縛りがあるだろ。嘘は言っていない。……嬢ちゃんはアイツに会いたくて必死なんだと思ったんだよ」
「…………必死?」
「違うのか?」
「……ええ。的外れですね」

 内心で澪は焦った。ことごとく彼の方が上手だ。余談が長引くほどにこちらが情報を引き出されているように感じる。この取引の裏に加茂家があるかどうかを確認したかったが、もう引いた方が良い。

「円滑な取引、ありがとうございました。では失礼致します」
 雨漏りが生む水音が、一度だけ間近で鳴る。
 それに合わせるように澪は一歩踏み出した。部屋の中からは一言も男からの言葉が発されることはなかった。