My last 改稿版
春嵐に告ぐ -5-

『兄弟子は実質兄』

「悠仁先輩!」
 廊下を歩む悠仁の背に向かって、足音と共に元気な声が飛んでくる。振り向いて駆け寄ってくる姿を目に映せば、澪が顔を綻ばせて駆け寄ってきていた。

「白主。なんか今日はやけにニコニコしてんね」
 問われた彼女の面持ちは晴々として、目は水面を映す海面のようにきらきらと輝いている。
「はい! 遂にかすり傷一つ無く任務を完遂致しました!」

 背筋を伸ばして挙手しながら澪は高らかに告げる。彼女が入学して一年と数ヶ月が過ぎ、現在は夏。少し前に二級へと昇級してから彼女の成長は今までとは段違いだった。
 入学当初から、彼女の体術の適正は十分にあると悠仁は認めていたが、月日が経つにつれて彼女に焦りのような迷いが挙措に紛れるようになり、現三、四年の先輩一同が心配する程の状態だったのは最近のことだ。
 しかし複雑な戸惑いを澪は完全に克服したらしい。
 それに大きく貢献したのは他の仲間だが、悠仁はそれをどこか自分のことのように誇らしく感じながら、屈託の無い笑顔を浮かべた。

「すげーじゃん! 最近鍛錬の動きも変わってきたもんな」
「はい! ありがとうございます!」
 そして澪からはそれ以上言葉は紡がれず、ふと生まれる沈黙。しかし彼女は一向に立ち去る様子を見せないので会話が終了した訳ではないらしい。それどころか、どことなく期待を孕んだ眼差しを向けられているような気がする。
 自分に何かを求めているに違いないと理解は出来ているものの、一体この無言の訴えで何を求めているのかが全く分からない。小首を傾げて悠仁は口を開く。

「…………。えーと、どったの?」
「撫でて下さらないなあと思いまして」
「いや、今までそんなスキンシップしたことなくない?」
「これからしていけば良いのですよ」
 全く臆する事なく澪は無邪気に微笑んだ。
「……なんか最近の白主、ぐいぐい来んだよなあ……」
「これが人に甘えることの味をしめた私です。よろしくお願いしますっ」
 そう言ったかと思えば、にわかに目つきを鋭くした澪は、勢いよく悠仁の胸元に飛び込もうとする。
「うお!?」
 しかし反射的に彼は半身を逸らして回避した。

「何故避けるのです……」
 悠仁の方を振り返りながら不服そうに澪は瞼を半分伏せる。
「急に来られてもどう受け止めたらいいかわかんねーよ!」
 言葉の通り、悠仁は拒んでいるというよりは戸惑っていた。彼女のように甘えたいという意思を包み隠さず表わし、尚且つ距離を詰めてくる女子との親交はこれまでに無かったからだ。
 正直抱きつかれても気恥ずかしさでどうしたらいいのか全く分からないので、ついつい反射的に避けてしまう。

「っていうか、何で伏黒にはしないのに俺だけ!?」
「悠仁先輩は全力で私を可愛がって下さる素質があります」
「どんな素質」
「お気になさらず。犬を可愛がるようにわっふわふとして下されば良いのですよっ」
 上品な笑みを浮かべた次の瞬間、性懲りも無く飛び付こうとする澪を悠仁は再び避ける。

「尚更出来ねーって!」
「何故ですか!」
「いやだってさ……。犬を可愛がるようにって言うけど、白主は犬じゃなくて女の子だしさぁ」

 じわじわとにじり寄ってきていた澪は、広げた手をそのままに、はたとした面持ちで停止した。
 悠仁の言葉には特に深い意味はない。思ったままを言ったに過ぎないが、しかし彼女には何か思うところがあったらしく、わずかに頬を喜色めいた鴇色に染め、微笑を浮かべた。
 悠仁に抱き着こうとするのをやめ、姿勢を正しながら口を開く。

「確かに……悠仁先輩の仰る通りですね」
 素直に引き下がった彼女の態度に悠仁が安堵したのも束の間。すかさず澪は代替案を提示する。

「では妹のようにというのはどうでしょう?」
「……妹?」
「そうです。私にとって悠仁先輩は兄弟子ですから、悠仁先輩にとって私は実質妹です」
「全然実質じゃなくね?」

「ね。悠仁お兄ちゃん、今日は五条先生の無茶振りに十五秒も耐えられました」
 唐突に澪は胸の前で手を組みながら、瞳を輝かせて悠仁を見上げる。
「あ、もうこれ兄妹設定始まっちゃってんの?」
「とてもとても頑張ったんです」

 もはや澪の眼差しは甘えというよりも懇願に近い。どうか撫でて下さいと言わんばかりの瞳に、とうとう悠仁の身内に慈悲とも庇護とも言える情が芽生えた。
(そういえば五条先生もよく頭を撫でてくれるよな……。最近先生が忙しくていないから寂しいとか?)
 恩師を想起しつつ、彼が自分や澪に度々そうしてくれるのを真似るように、だが極力控えめに目の前の小さな頭に手を添えた。

「……そっか。偉かったな」
 しかし五条のように自然に、とはいかない。彼女の髪が乱れてしまわないように丁重且つ慎重に、艶やかな流れに沿ってニ、三度だけ撫でた。
 そんなおぼつかない労いでも澪は満悦したらしい。無邪気に喜ぶ子供さながら、誇らしげに相好を崩した。それは悠仁にとって初めて目にする表情で、思わず目を奪われた。
 その矢先、隙を突こうとしたのか澪が素早く抱き着こうとする。だが悠仁は少々動じたものの身を翻して完璧に避けた。

「どうしてです……」
「ステップアップが早すぎんだって!」
「む……。分かりました、悠仁先輩を困らせるのは本望ではありませんから、無理強いはしません。……ではまた次回!」

 恭しく一礼した澪は踵を返してどこかに駆けて行った。恐らく真希か野薔薇を探しに行ったのだろう。
 しかしながら「また次回」ということは、この謎の寸劇が近いうちに再び繰り広げられ。付き合わされる可能性が高い。彼は何とも言えない表情で遠のく背を眺めた。その折柄。

「悠仁」
 図っていたかの如く彼の背後から音もなく現れたのは、五条悟である。
「うお、先生!?」
「うっかり落とされちゃダメだよ。あれは自分が可愛いのを分かっててやってるからね。超性格悪いよ」
「あー。うん、多分大丈夫。っていうか、いつからいたの」
「澪が三回目の飛びつきを避けられて失敗したとこから」
「最初からじゃん」