My last 改稿版
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1

 もみじの木が青い葉を揺らしている。
 少女は神妙な面持ちで縁側に佇み、かすかな葉擦れを聞いていた。

――家族を守り、救う。そのために呪術界の秩序を変える……。
――あの葉が赤くなる時、私はどこまで歩みを進められているだろう。

 胸中で揺れる心情が緊張なのか、高揚なのか、片付けられずにいる。
 今日という日をどれだけ待ち望んだだろうか。
 この日のために費やした時間も労力も協力も、確かな自信を形作った。しかしどれだけ己を俯瞰してみても、地に足が付いていないような感覚に苛まれる。

 強張る頬をにわかに東風が撫で、黒髪を揺らしながら抜けていった。
「……もう行かないと」
 真っ白な千早の袂をひるがえし、少女は踵を返した。

 こぢんまりとした寺院の門を抜けると、石畳に沿って寺社仏閣の群れが見渡す限り広がっている。北を向けば寺社群のさらに奥で、筵山の新緑が陽光に輝く。
 総本山さながらのこの荘厳な景観は、東京都立呪術高等専門学校の所有物だ。
 この地で四年間の学生生活を終えたばかりの彼女だが、まるで初めて訪れた地のように首を左右に振った。

「ええと、山門の方柱がくすんだ朱色で、屋根に獅子の飾り、それから扉の向こうに藤の花が見えるお寺……」

 ここでは日毎、侵入者の対策として膨大な数の建物の配置が入れ替わる。しかもその大半が中身のない張りぼてだ。ゆえに彼女は行き慣れたもみじの寺院くらいしかはっきりと外観を覚えていない。
 ふいに身内で言いようもない焦燥が生じた。時間の制限もなければ、何かに追われているわけでもない。それなのに、目当てが見つけられない事に気が焦る。

 うろうろと視線を迷わせていると、ふたたび風が吹いた。
 血色のもみじが視界を通り抜けた気がした。思わず目で追いかけると、そこにもみじは見えなかったが、代わりに四角い縁取りの中で、淡く色づく紫が目に入る。
「……見つけた」
 彼女は大きく息をつき、小走りに一寺の中へと入っていった。

2

 寺の中に入り、土壁に手を這わせていくと、地下へ続く隠し扉があった。そこから先は薄暗い廊下が長々と奥に続いていた。
(……左手から数えて四番目の部屋は……)
 目を凝らしてみても、入り口からでは暗くて何も見えない。再び少女の心に不安が滲み出す。
 ふるふると首を振って、臆病心を振りほどき、一歩を踏み出した。

 目的とする部屋の前に人影があった。仄暗い空間に不釣り合いな白銀の髪色。目線を完全に隠す真っ黒なサングラス。
 見慣れたその姿は、行く先を灯す標のようだ。少女は駆け寄った。

「五条先生!」
 するとこちらへ顔を向けた彼は、驚いたように一瞬固まったが、彼女が近づくにつれて普段の表情を見せる。
「……びっくりした。一瞬澪だって分かんなかったよ」

 理由は、少女――白主澪の身を包む、巫女装束の所為だろう。今までは制服姿でいる事がほとんどだったが、今日に限っては白衣に緋袴、それから小袖と同じく白の貫頭衣、長い黒髪も絵元結で一つにまとめている。

「高専の備品を貸して頂いたんです。……どうでしょう。強そうに見えますか?」
「別に強くはなさそうだけど似合ってるよ。うち、そんな衣装持ってたんだ」

 これを用意してくれたのはいつも世話になっている高専の事務室だ。きっかけは、術式に必要な備品の搬入完了の報告を受けた折に、相談をした事から始まる。

 今日は彼女の人生で初めて――最初で最後の術式を使う日だ。
「普段通りでなんら問題ない」
 昨晩までは余裕に構えていた心は、いざ当日を迎えた途端、緊張のあまり余裕や平常という感情を弾き飛ばしてしまった。
 着る服さえ決められず、部屋の片隅で下着姿のまま愕然としていた彼女に差し込んだ光明こそ、事務室からの連絡だったのである。
 神聖な衣装のおかげで気が引き締まり、幾分か落ち着きを取り戻した。
 それに加えて、術式を使う前に最強の恩師に会えたことは、それだけで澪を心強くさせた。

「……あれ? そういえば先生、まだ発たれていなかったのですね」

 五条悟は、高専の教職でありながら、特級術師として日々多忙を極めている。昨日の夜中に出張から帰ってきて、今日も朝から不在になると聞いていた。
 いくら彼が時間に頓着がないとはいえ、仕事を忘れたわけでも、用もなく澪を待っていた訳でもないだろう。

「うん、渡したいものがあってさ」
 五条は片手程の大きさの木箱を差し出す。底が深いので見た目よりも物が入れられそうだが、受け取ってみると随分軽い。どこか懐かしい気配を感じる不思議な箱だった。

「開けるのは部屋入って扉閉めてからにしてね」
「あの、これは……?」
「嘉月さんがくれた結界符。蓋開けたら一帯に結界が展開される仕組みらしいよ」
 途端に澪は陽に照らされたような笑みを浮かべた。
「……父様の……! ありがとうございます!」

 それは父から送られた応援なのだと分かった。
 彼女はもう四年も家族と会うことはおろか連絡も取っていない。どれだけ月日が経とうとも、向けられる愛情は変わらない。そんな証を受け取ったような、温かな心情で胸懐が満たされた。

「ちなみに」
 頬を緩ませる澪に向かって、五条は人差し指を立てた。
「僕は直接受け取れないから、代わりに間に入ってくれた人がいます。誰でしょう」

 白主家の当主は、安易に五条家当主と顔を合わせられない事情がある。呪符の受け渡しなどもってのほかだ。だとしたら、父と五条を繋ぐことが可能な人物は、澪の知る限り一人しかいなかった。

「……憲紀……」
 幼馴染の彼は、いつも知らない所で衒う事なく澪を貴ぶ。胸中の半分は喜びが、もう半分は憧憬が占めていた。

 彼女はいつでも自分自身が生きていくだけで手一杯だ。
 だから、澪の姿は四年前に京都を離れた時分とさして変わっていないだろう。けれど、ようやく準備が整った。これからが始まりなのだ。

(絶対に失敗はできない。私は、大切な人たちを守るために、約束を果たすために……)

 己の気をより一層引き締めるように、彼女は木箱を両手で握りしめて胸に抱く。身体が少し震え出した。

「ねえ、澪」
 おもむろに呼び掛けてきた五条は、続けて軽い語気で問う。
「本当にあの人は必要? 僕達の目的はいずれ交わるんだし、君が望むなら全面的に支援してあげるよ」
 余りにも唐突な言葉に、澪は呆気に取られてぽかんと開口した。数秒の沈黙が生まれる。

「……まさか。ここへ来てとんでもないご冗談を突っ込んできますね」
「割と本気だけど。やめるならこれがラストチャンスだよ」
 やめることがチャンスとは……と、少々渋く顔を歪めた澪であるが、一方で内心は細波の動揺も示さない。ゆるく首を横に振った。

「とてもありがたいお言葉ですが……これ以上先生のお手を煩わせたくはありません」
「そんなの今更でしょ。ただ、僕だって慈善活動をしたいわけじゃない。協力はあくまでも先行投資さ」

……四月十四日の今日。彼女はその人生において最初で最後の術式――降霊術を使い、一人の男を現世に呼び戻そうとしている。……その人の力を利用する為に。
 それが正しいのか、間違いなのかは、今もわからない。

「…………。それでも、術式は使います」
「安全で確実な方法があるのに?」

 澪は小さく頭を下げた。纏う衣に目を落としたまま、白絹の表面を指先で撫で、刺繍で描かれた梅の紋様をなぞる。
 かつて同じ術式を持った先祖は、この術式を使ったことで命を落とすこととなった。自分も同じ道を歩むかも知れない。大切な人に恨まれるかも知れない。何度も葛藤を続け、迷っても、辿り着く結論は変わらなかった。

「私には、どうしても彼が必要だと……、そう思えてならないのです」
「それってさ。最終結論はただの勘、とか言わないよね」
 面を上げた澪は屈託ない笑みで返した。
「その通り。勘です、第六感的なそれです」
「いやそれマジ? 今まで散々理屈を捏ねまくってたのに?」
「勿論、その理屈も嘘ではありません。……ですが先生。全ての事象、殊に感情が起因となる物事に於いて、論理的な証明は果たして必ずしも必要なのでしょうか」

 澪はわざとらしく顎に手を当てて沈思の姿勢を取る。それを見た五条はさも面倒臭そうに口角を下げた。

「出た出た。最近そうやってすぐ似非哲学語って逃げる」
「逃げていません。発想の転換というやつです」
「へえ。言うようになったね」
「そうでしょう。私の目標の一つは先生のようになることですから!」

 堂々と胸を張ってみせると、彼は緩い息をついて笑みを溢し、納得した様子で頷く。しかしその穏やかな微笑は、実に意地の悪そうな形に変わった。

「僕の性格を真似すんのはいいけど、功績もちゃんと真似してよ」
「んむむ……」
 容赦ない正論をぶつけられ、思わず澪は顔をしかめた。
 何も言い返せない悔しさに小さく口を尖らせていると、ぽすんと頭の上に手が置かれる。
 それから大きな掌は、ゆっくりと澪の頭を撫でた。
 心地よい感覚は、彼女の張り詰めた心を解いていく。そこでようやく、澪は自分の身体が強張っていた事に気付かされた。
 憎まれ口を叩けども、これも彼の優しさなのだ。真っ黒なガラス越しの眼差しを見上げ、彼女は目を細めた。

3

 結界符を張り巡らせた一室。
 台の上に置かれた遺骨の真上に、赤々とした液体が球形となって宙に浮いている。これは彼女が十九年掛けて貯めた己の血液だ。目を閉じて向かい合う澪の表情に強張りは微塵もなかった。
 心の内も、凪いだ湖面のように静謐としている。
 深く息を吸い、そして吐く。血液と共に自身の肢体に呪力が循環する感覚を再確認する。
 瞼を上げ、台の上と己の血を交互に見遣り、掌印を結んだ。

 するとたちまち赤い球体へと遺骨が突き刺さるように吸収され、続いて骨を内包した血液は波打ちながら内側へ向かって凝縮されていく。
 握り拳よりは大きいものの、かなり小さく収まった球体は、台の上部に降り立つと、その形状を変化させた。

 形成されたのは心臓。
 しかし管はどこにも繋がっておらず、脈も打っていない。ただ一つの臓器がそこに在るだけだ。
 間も無くして、まるで呼吸をするように塊が収縮した。

 一つ目の鼓動で太い管が飛び出し伸びていく。二つ目の鼓動で吐き出された血液は、植物の根のように、赤く繊維状に広がる。脈打つごとに次々と臓器、骨、筋繊維という順番で、心臓を包み込むようにしながら肉体が形成されていく。
 異質で歪な光景に澪は魅入っていた。

 隆々とした腹部の筋肉や肌が再生され始めると、いよいよ男性の肉体らしさが見えてきた。途端に澪は慌てた。周囲を見回し大きな布を被せ、肩口から下の姿体を覆う。
 その後は術式が肉体を完全に形成し終えるまで、一度も目を離さずに甦生を見つめていた。

 そして数十秒の内に、一人の男の肉体は現世に戻ってきた。
 まだ浅く小さいが、呼吸も脈も働いている。じきに問題なく生命活動を維持できる状態になるだろう。術式は成功したも同然だ。安堵に短く息を吐いた途端、自分が呼吸を忘れていた事を思い出した。
 甦生は成功したが、これで終わりではない。ここからが気を引き締めるべき本番だ。

 澪は薬品と注射器を取り出す。男への薬剤の投与に極力集中しようと、とにかく手元を動かした。しかし、胸のざわめきは倍加する一方だ。

――会いたいと願い、求めた人が目の前にいる。

 例えその体の殆どが彼女の血で形成されたとて、術式で行動を縛ったとて、彼は自分のものには決してならない。自由を制限し支配したとしても、魂は奪えない。それどころか、深い恨みを向けられることだろう。

 自分に言い聞かせるように心で唱えても、揺れる高揚感は振り幅を広げていく。

(ああ、だめだ。いったん落ち着かないと)

 器材を片付けながら、緩く首を振った。この部屋から一度出た方がいい。そう考えて歩み出そうと試みたが、全く足が動かなかった。……離れたくなかった。
(…………少しだけ)

 男を見おろし、好奇心と期待のこもる指先を伸ばす。
 少し目に掛かった長めの前髪を撫でてみた。触れてみると案外細くて柔らかい。右の眦に触れ、手の平を肌に重ねた。触れた頬は、まだ体温を感じられないほどに冷たい。
 それでも彼女の掌には、死という遥かな果てより一人の人間を手繰り寄せた感覚が確かに伝わっていた。

 薬が効いている間、彼は目を覚まさず、また目を覚ましてもその意識はしばらくの間、茫漠と漂うだろう。数時間は自由に身体を動かせないよう調整もしてある。
 その薬剤を彼に投与したのは、他でもない彼女自身であるが、願わずにはいられなかった。

――早く。早く目を覚まして下さい。

「……甚爾さん」