My last 改稿版
願い 12

1

 校舎を出て、五条に続いて寺院の群れの中を歩く。彼の足取りは緩慢としていて、澪に合わせているようでもあり、迷っているようにも感じられた。

「あの。随分沢山の塔頭がありますが、ここは総本山も兼ねているのですか」
「ほとんどハリボテだよ。宗教系の学校に見立ててんのは主に外部への体裁の為さ」
「立派な建物に見えますが……全部中身のない外殻なのですね」
「いや、いくつかは中身もちゃんとあるよ。……折角だし、入ってみる?」
 五条が示した先にはこぢんまりとした門扉を構える一寺があった。会話が全くないことの居心地の悪さを感じていた澪は、少しの逡巡の末に頷く。

「はい、見てみたいです」
 中へ入り廊下を伝っていくと、縁側の左手に広がる庭が見えた。思わず澪は小走りで廊下を進み感嘆の声を漏らす。

「もみじ……!」
 その庭園は決して大きく絢爛ではなく、苔むした緑にところどころ岩が生えている謙虚な作りだ。しかし、澪の目を引いたのは、青く色づいたばかりのもみじの木だった。木々の並びは、隠れ家を思い出させた。この庭の植物が本物なら、秋になれば真っ赤に色づくはずだ。
「このもみじの木も本物ですか!?」
 後ろを振り返りながら、澪は目を輝かせて問う。すると、五条は呆気に取られたように立ち止まっていた。そこでようやく、彼女は我を忘れて子供のようにはしゃいでしまっていたことに気づく。

「あ……。その、綺麗なお庭なので、秋になれば紅葉を見られるのかなと……」
「この景色も本物だよ。実際に見たことはないけど、多分秋になったら赤くなるんじゃない?」
「そう、ですか」
 淡白に答えながら、澪はそっと五条に背を向けた。嬉々とした表情を隠しきる自信がなかったからだ。
 野薔薇との出会いや、憲紀と過ごした景色を想起できる場所。それに出会えたことは、自分は独りではないと感じさせてくれているようで、ひとえに嬉しい。

「まだ時間あるし、ちょっと座って話しようよ」
「えっ?」
 振り返った時には、彼は縁側で胡座をかいていた。何の話をするのか、と少々彼女の心緒が不安に揺れるが、もう少しこの庭を見ていたいという気持ちが押し勝った。少し間を空けて、隣に正座する。

「そんなに復讐したい?」
「……何の話か全くわからないのですが」
「降霊術を使いたいのは、加茂家を潰したいほど恨んでるからじゃないの?」
……やはり二人きりになったのは間違いだったのだろうか。澪は少し腰を浮かせて身構えた。
 彼は御三家が一つ、五条家の人間であり、当主だ。彼も加茂家のような価値観を持っているのなら、呪術界の一角を崩そうとする者を厭うはず。

「御三家の嫡子暗殺ってやつは、僕も濡れ衣だと思ってるよ。加茂家が編纂した記録はチグハグだし。仮に事件が真実だとしても、四百年以上も引きずってること自体ナンセンスだね」
 あくまで自分は敵ではないと示そうとしているのか、本心なのかわからない。ただ、彼が言いたいことは何となく察しがついた。
「……手段と目的を混同していないか、と仰りたいのですか」
「わあ。察しがいいね」
「復讐したい気持ちがあることは否定しません。でも、降霊術を使う目的はあくまで大切な人たちのためで、復讐も目的達成への過程の一つに過ぎません。術式を使う理由は、それしか手段がないからですよ」
「どういう意味?」
「目的に対し、私の力が弱すぎる。ということです」

 澪は前線で戦うには不向きな体質だ。
 血に呪力を宿した特殊な体質ゆえ、戦闘時には体内を循環する血液から一度呪力を取り出し血管や皮膚を通す、という呪力移行が必要だ。
 ゆえに、本来戦上で最も力を発揮できるのは、赤血操術のような術や、式神や結界を作り出す戦法だが、彼女にはその才はない。
 一秒の百万分の一が生死を分つ戦闘に於いて、戦う前から既に不利が約束されていると言っても過言ではない。
 加えて武器を扱う才能もない。しかも呪具には刃物の形状を取った物が多く、結果的に呪具の種類も絞られてしまう。効率を考えたら、呪具は彼女にとって頼りにならないのだ。
 最も時間と労力を注ぐべきものは降霊術だ。才能に恵まれていない肉体や技術の向上は、澪にとって二の次なのである。だからこそ、彼女はこの四年をかけた最低限の等級を二級と掲げている。

「僕は君が弱いとは思わないけど」
「慰めて下さらなくても結構です。自分のことは自分が一番わかっていますから」

 天賦の才を持った人間は、二足の草鞋を当然のように履きこなす。眼前の男がそういう人間だという事は、実力を見るまでもなく明白だ。彼は見据える視野が大きすぎて澪のような人間がどれだけ弱小かを認識できていない。
 きっと弱いものの心は永遠に理解できないだろう。

「目的の為なら多くを望まないってことかな?」
「その通りです。ですから術式を強化する縛りも成立させ、底上げも入念です」

 血液は己を含め決して甦者以外には使用しない、三月に一度、定めた量の貯血を必ず行うなど……決意のみならず、術式と己の間に課した縛りは澪に幾重にも糾う。縛りは彼女にとって枷でもあり希望でもあった。
 だが誇らしげに言い切る澪に対して、五条は賛同の気色を示さない。むしろ悩むかのように閉じられた口元の端は下がっている。

「そんなに進んで自分の選択肢を狭める必要ある?」
「目的に見合うよう、この術式を完璧にしなければなりません。他のものは全部捨てて当然です」
「……ああ、術式ミニマリストってとこ? 真っ白い部屋にパソコンとキャリーケースしか置いてない的なやつ」
「……真面目な話ですよ! 変な例え方はやめてくれませんか!?」

 澪はにわかに声を荒げた自身に驚いた。
 今まで、ここまで他人に振り回されたことは一度も無い。ゆえに強く反論をしたことも、苛立つことも一度もなかった。正直、才能ある人間への嫉妬も含まれていたかも知れない。
(気をつけよう……。私はペースを乱されるとこんなに荒々しくなるんだ……)
 知り得なかった自身の一面に戸惑いながらも澪は咳払いを一つして、声調を整えた。

「と、とにかくですね。高専での目標は二級になることと術式の準備を進めること。それだけです。例え血反吐塗れになっても、成すと決めたことは必ずやり遂げます」
「よーし。そこまで言うなら澪の昇級の為に武術の達人を師匠として付けてあげよう。肝心な呪力操作は僕が見てあげる」
「…………本当ですか!?」

 思いがけず澪は目を輝かせた。
 武術の達人と五条家当主の手解きを受けられるなんて、なんと至れり尽くせりな環境だろう。
 しかし、さも楽しそうに口元に笑みを浮かべる五条に気付いた途端、澪はまたしてもいいように感情を左右されていると気付いた。……本当は、口では自身が強くなる事に無頓着を装っていても、心の片隅には出来る事なら自己も研鑽したいという願いを捨てきれずにいるのは、彼に気付かれているようだ。

「あ、りがとうございます。適度で結構ですが、是非ともよろしくお願いします……」
「君には期待してるよ。僕も、憲紀もね」
「…………憲紀? どういうことですか」
 気恥ずかしさから一気に猜疑心が湧いた。澪は声を落として五条を探る。もしも、憲紀を何か良からぬ目論見に巻き込んでいるのだとしたら、彼も敵と見做さなければならなくなる。
 しかし、五条はヘラヘラと笑いを浮かべながら、澪の眉間を指先でこづいた。
「……な、っにを、するんですか!」
「まあまあ。そんな怖い顔しないで。こう見えて彼とも仲良いんだよ? 性格はともかく、僕達の目的は似てるしさ」
「目的……。似ている?」
「そう。君達は二人で協力して加茂家を潰して再建するつもりでしょ?」
(どうして、この人が知ってるの……。憲紀から無理やり聞き出した……?)
「……そういう貴方は何が目的なのですか」
 すると、五条は先ほどまでの気の抜けそうな笑顔を捨て、自信に満ちた表情を見せる。
「呪術界の再構築。腐った慣習も秩序も思想も、全部捨てて新しく作り直すのさ」
 実に魅力的な話だ。しかし澪の警戒心は解けない。わざわざその目的を澪に伝える意味は、共感や賛同が欲しいからではないだろう。澪に話したところで、現状何の役にも立たないし、彼一人なら一瞬でできてしまうことだからだ。

「そうですか。……五条家の当主である貴方なら、簡単に出来るのでしょうね」
「それが上手くいかないんだよ。僕一人の力じゃ」
 五条は悩ましげに唸って腕を組む。その所作はどことなく胡散臭さを感じる。澪がじっとりと疑いの眼差しで見つめていると、彼は思い出したように「それはそうと」と繋げる。

「降ろす人間の目星はもうついてんの?」
 問われた瞬間に、澪は表情ごと硬直した。
 実の所、理想とする条件はあっても選定については無為無策なのである。

「…………。こう、運命的な出会いとかがこの学校生活であるかと……」
「何、運命的って。結婚相手でも探してんの?」
「違います! し、しっかり考えているのですよ。でも、術師としての強さだとか、あとは肉体や精神を下ろす為の条件とか色々ありましてですね」
 五条は明らかに澪を未熟な子供として扱っている。それがどこか気に食わず、反発気味に彼女は無計画を隠すべく懸命に弁解を組み立てた。

「うん、よく分かった。無計画だって事が」
「う……」
 結局誤魔化せる筈はなく、結論を一言で片付けられてしまい居た堪れなさがさらに増す。

 すると五条は軽い調子を一度消して、僅かに下がった声音で話し始めた。
「……仮にどうにか二級まで上がって、一級以上の能力を持った人間を降ろして実績を上げたとして。今の上の連中が澪を評価するとは限らないってことは、分かってる?」
「はい。……すぐに結果が出ないことは承知しています。どんな手を使っても、諦めたくありません」

 等級は権力を得る為の足掛かりに過ぎない。降霊術さえ成功すれば優秀な能力は確実に得られる。甦者の能力を餌に権力者へ近付き恩を売り、信用関係を作る事が出来れば権力や権限を対価とした取引も可能だ。
 もしかしたら、五条は澪に計画の無謀さを示しているのかも知れない。……意味のないことをするな、と。けれど、彼女にとって、無茶や無謀で簡単に片付けられるものではないのだ。

 主張を訴えるように澪が視線を向け続けていると、五条は小さく息をついた。
「何となく澪の性格が分かってきたなー」
「……無計画で他人任せの癖に理屈ばかりの面倒臭い子供。そう思っていらっしゃいますね」

 口をとがらせ不貞腐れ気味に澪は吐き捨てる。
 しかしふと、自分自身の違和感に気付いた。今まではこの程度の不満は笑って誤魔化せた。それが彼を前にすると出来ない。情緒が揺さぶられ、素直に表情や言葉を表してしまう。
 彼はあの御三家の当主。立場も年齢も、地べたを這って敬ったって足りない相手に。そんな人にこれほど生意気な口を聞いたのは初めてだ。
(……どうしよう。身の程知らずもいいところだ……。怒らせる前に謝らなきゃ)
 居た堪れなさに、澪は顔を伏した。

「違うよ」
 唐突に頭を覆うようにして何かが軽く乗った。そして時を交わさず緩やかに撫でられる。
「真面目な完璧主義。一生懸命背伸びしようとして頑張りすぎちゃう子」
「……」

 澪の内心は大きく揺らいだ。彼の言ったことが事実だったからだ。完璧でありたい、周りがすごい人たちばかりだから、自分もなんとか追いつきたい。背伸びという表現が何より今の彼女を的確に表していることは、認めざるを得ない。
 けれど、隠したかった心のうちを言い当てられたのに、不快感はない。むしろ、理解されたことに安堵している。
 自身の内に現れた不思議な感覚を確かめるように、五条を見上げた。

2

「ぴっ……!?」
 もみじの寺を出てから早五分。澪は奇抜な叫び声をあげてその場でしゃがみ込んだ。外に出て五条の後をついていく最中、見たこともないものが眼前を横切ったからだ。見上げれば、それはまだひらひらと澪の周りを飛翔している。

「澪? 何してんの」
 振り返った五条は呑気な声を飛ばしてくるが、彼女は頭を抱え込んで声を振り絞る。
「え、ええ得体の知れない、っ生き物がっ……!!」
「……その蝶のこと言ってる?」

……五条の言う通り、彼女の側を舞うのは蝶である。
「嘘だよね? まさか蝶見たことないの?」
「あ、ありません……っ! 本物がこんな動きをするなんてっ……、ひぇ……っ、こ、来ないで!」

 澪はどんどん体を縮こめて小さくなっていった。
……彼女はいわゆる箱入り娘、父親にとってはまさしく蝶よ花よと育てた掌中の珠。彼女に近づく虫は全て排除するという父親の極端な思想によって、蠅頭は勿論、昆虫でさえも彼の結界術式によって常に滅せられてきたのである。
 本人は知らないことだが、父の結界は京都府内でのみ発動するものなので、遠く離れたこの東京の地では効力が途絶えてしまっている。結果、実物の昆虫を見たことのない澪は、呪霊を見るよりも怯えてしまっているという有様だ。

「ただ飛んでるだけで噛みつきもしないし、何も怖くはないよ」
 聞こえてくる声音は確かに微塵の危険も孕んではいない。しかし、音もなく飛び回る未知の生物が近くにいると思うと恐怖で身が竦んで動けなかった。
 すると小さく笑う声の後、足音が近付いてくる。

「大丈夫だから、おいで」
 澪は目の縁にうっすらと涙を湛えながら、恐々と顔を上げる。まず目に入ってきたのは間近に差し伸べられた掌だ。もう少し視線を上昇させれば、黒のサングラスが目に映る。彼は澪に合わせてしゃがみ込んでくれていて、ガラス越しに眦を細める様子が見えた。
 強張って上手く動いてくれない腕を伸ばし、彼女は大きな手のひらに指先を近付けていく。やっとの思いで自分の手を乗せれば、包み込むように握られた。随分と緊張によって血の気が引いていたのだろう。彼の手がとても温かく感じられた。

「この手が届く限り、君を守ってあげるよ。だからそんなに怖がらないで」
 それは、まるでどこにいてもその手は届くと言わんばかりの声音だった。彼の言動全てから感じる自信に安心を覚えた。
 たとえ加茂家が澪を連れ戻そうとしても、計画を阻もうとしても、彼ならば守ってくれる。不思議とそう信じさせてくれる。まだ、自分は誰かを頼り守られていてもいい。そう思うと心が軽くなっていく。

「五条、先生……」
「ん?」
澪は繋がれた手を少しだけ強く握り返した。
「生意気なことばかり言って、申し訳ありませんでした」
「君は、自分を守ることで精一杯だっただけだよ。生意気なんかじゃないさ」
 胸の奥が締め付けられる心地だった。穿った捉え方をしていた自分と違って、彼がいかに澪を見ようとしていたのかを目の当たりにした。
「私、先生のことを信じます。無茶でも無謀でも、諦めずに努力します。だから、……どうか私を見捨てないでください」
「見捨てる? 言ったじゃん、期待してるってさ」

 そう言って、五条はまるで子供みたいに楽しそうに笑った。途端、澪は、憲紀と初めて会った日の感情を思い出す。自然と偽りのない笑顔が零れた。

 繋いだ手が優しく引かれ、身を委ねるように立ち上がり掛けた。……が。その時、耳元に低い羽音が通り過ぎていく。
「ぴゃっ!?」
 思わず聞いたことのない音に驚き、真正面から思い切り五条の胸懐に飛び込んでしがみつく。
「……守るとは言ったけど。虫くらいは克服しといた方がいいかもね」
「も、もうしわけありません……っ!」

3

 次に五条に連れられたのは敷地内にある寄宿舎だった。簡素な外観で内装は木造のようだ。それなりに築年数も経っていそうだが、粗末な印象はない。

「ここに住まわせて頂けるのですか」
「うん。ほとんどの生徒はこの寮に入ってるよ」
「あの、私……奥の森に住んでも良ければ野営をします」
「なにそれ。山籠りして仙人でも目指すの?」
「いえ。所持金の余裕があまりなくて。食費とか、ええと管理費、とか……?」
「今更でしょ。しかも森には虫がうじゃうじゃいるけど、それで生活できる?」
「む……、ぐ……」
「ほらね。もうそんなことでいちいち悩まなくていいから。ややこしいことは大人に任せて、今は学生生活に全力で励みなさい」

「でも」と澪が口を開こうとすると、寮の玄関口に人影が現れ、忽ち大きな声が上がる。
「あー! やっと来た!!」
 こちらを指差した直後、かなりの速度で駆け寄る人影はその姿を鮮明にしていく。二人の前に眉を吊り上げた相好で仁王立ちしたのは野薔薇だった。
「あ。野薔薇お待たせ」
 音を立てそうな勢いで詰め寄ってきた野薔薇は、中々に威圧的な様子で五条に食って掛かる。
「呼んどいてどんだけ待たせんのよ!」
「ごめんごめん。澪ちゃんとのお話が弾んじゃってぇ」
 対する彼は少しも怯む様子もまして悪びれる様子はなし、一体何の真似なのか、やや裏声のふざけた口調である。
 これは果たして険悪なのか日常なのか。判別付かない二人の遣り取りに、澪は自分がどうするべきか考えあぐねたが、余計な手出しはせずただ黙って見守る事が正解だと結論付けて静観していた。

「ってことだから、制服の発注とか諸々の施設の案内、よろしくね」
「ねえ。しれっとやること増えてない?」
 包み隠さず不満の表情を野薔薇は露わにする。五条は困ったように口元を小さく尖らせて言う。
「もしも野薔薇よりも早く来れたら、せめて寮の案内だけでもとは思ったんだよ? でもほら。どの道女子の階を僕が案内するってのはコンプラ的に、……ね?」
「ああ? どの口が言う?」
「本当の話、急遽出張に行くことになっちゃってね。もう出なきゃならないんだよ」

「え。そ、そうなのですか!?」
 澪は慌てて五条を見上げた。自分があまりにも五条を警戒しすぎるがゆえに、不要なやり取りで手間取ってしまっていたのだとしたら、申し訳が立たない。
「本当につい今さっきね。だから澪は気にしなくていいよ」
 彼は軽く澪の頭に手を置いてゆるく撫でた。狼狽する澪をよそに「じゃあそういうことで」と五条は軽い調子で立ち去った。
 野薔薇はその背を見届けながら「全く……」と深いため息をつく。

「あの。野薔薇先輩……お手を煩わせてしまって申し訳ありません」
 心許無く野薔薇に声を掛けると、彼女は明るく笑い掛けた。
「あんたは気にしなくて良いのよ。あの適当教師が悪い」
「で、でも、実はずっと私が先生の時間をとってしまって」
「いいのよ。言ってたでしょ、つい今さっき用事が入ったって。あの人にはよくあることなのよ」
「本当に……?」
「そ。本人が焦ってないならこっちが気にすることなんて何もないわ」
「はい……」
「まあ、適当だから説明してくんないけど、忙しい中でも色々とやってくれてんのよね」

 呟くように言った彼女の眼差しには、穏やかな色が差し込んでいる。
 手放しの尊敬はしていないがゆえに多少悪態はつくものの、大きな信頼を五条に置いている。そんなふうに感じた。
 澪は五条が歩き去っていった方向を見遣る。もうとっくに背中は見えなくなってしまったが、心の中で「いってらっしゃい。お気をつけて」と告げた。

4

 高専の事務室は少しだけ、敷地内の荘厳な雰囲気とは異なる。どことなく俗世じみているが、煩わしさはない。澪の感覚で形容するなら、社会に出た大人の空間、という感じだ。
 野薔薇と澪が事務室を訪ねると、常駐している職員の女性がにこやかに迎え入れてくれた。すでに澪の話が通っていたようで、事務室の彼女は制服の注文に必要な書類を用意してくれていたので話が早かった。
 それだけではなく、こちらが言うまでもなく寮の部屋の鍵も併せて渡された。正式な手続きも連絡もしていないというのに、イレギュラーの対応の迅速さに瞠目した。

「すごいでしょ。五条先生がキラーパスしても一人でぜーんぶぱぱって片付けちゃうのよ」
「あはは、ありがとう。でも全然すごいことはないよ。……五条さんの適当っぷりに鍛えられたのは否定しないけど」
 事務の彼女はてらいもなく笑った。呪術以外の事柄、殊に学生としての生活に於いての困り事があれば、事務室に駆け込めば間違いなさそうだ。こんなところにも頼りになる人がいる。そう思うと、尚更澪の心の重りは消え失せていく。

 すると、控えめな音を立てて事務室の扉が開いた。
「お疲れ様です。すみませんが、予備のタブレット借りてもいいですか」
 中に入ってきたのは痩身の男性だった。黒のスーツに黒のネクタイできっちりとした服装をしているが、前髪が目にかかるほど長く、表情がほとんど見えない。
「あ、安曇さんお疲れ様です。どうぞ、こちらを使ってください」
「ありがとうございます。……これ、液晶の接触不良起こしてるみたいです」
「わかりました。修理に出してみますね。データの共有は大丈夫ですか?」
「はい。クラウドのスケジューリング機能しか使ってないんで、業務の支障はないです」

 滞りなくやり取りをする大人達を眺めていると、不意に安曇と呼ばれた男性がこちらを向いた。
 その時、前髪で隠れている眼がほんの少し見えた。虹彩が瞳の中に花が咲いているようで、美しかった。その色をはっきりと見てみたい、という心持で彼を見つめていると、微かにその口元が不快を表すように歪むのが見えた。
 澪は慌てて姿勢を正す。

「あっ、私、今年の春から高専に入学します、白主澪です! よろしくお願い致します!」
「……安曇です。よろしくお願いします」
 彼は軽く会釈をすると、それ以上会話をすることなく、静かに事務室から出ていった。

「今の人は、補助監督の安曇さん」
「補助監督?」
「そう。高専所属の呪術師のサポートをしてくれてるんだよ」
「今はみんな出払っちゃってるけど、改めて紹介したいから事務室にまた来てね」
「は、はい! ありがとうございます!」
(サポート……。高専を卒業した呪術師の人たちも、あんなふうにそれぞれに助け合いながら働いているのかな……)
 もしかしたら、大人でさえも誰しもが一人でなんでもやっているわけではなさそうだ。
(任務を受けられるようになったら、補助監督の方も助けてくれる……。それならより一層、支えてくれる人に報いるために、私は私のなすべきことに努力を注がなければ……)
 改めて、組織に入ったと言う感じがひしひしと感じられて、ほんの少しだけ大人の仲間入りをしているように思えて、気を引き締めた。

5

「男子に朗報。女子の後輩が増えるわよ。はい自己紹介して」
 続く高専案内の折、澪を引き連れ教室に入った野薔薇が間髪入れずに言い放つ。すると二人の男子学生が彼女達の方へ顔を向けた。
 澪がにこやかに挨拶をすれば、一人は人懐っこそうに笑顔を見せて席から立ち上がり側までやって来る。彼は「虎杖悠仁」と名乗り、爽やかに笑う。
 一方、席に座ったまま抑揚なく「伏黒恵」と告げた癖のある黒髪の学生は、興味無さそうに手に持った本へと視線を下ろした。
 するとため息がちに野薔薇は澪の肩に手を置く。

「気にしなくていいから。アイツ、いつもああやってスカしてんのよ」
「スカしてねぇよ」
 ふと、反論しながら顔を上げた恵と澪の視線が不意に交錯した。なぜか視線を逸らせず、澪はじっと彼を見つめる。正視したままの澪に対して、恵は何を言うでもなく再び本に向き直ってしまった。
 それでも彼女は視線を恵から離さない。何故か懐かしさのような、嬉しさのような、不思議な感覚が溢れてくる。

「ねえ澪。あんた、まさかああいうのが好みなの?」
「……え!? 好み? な、なんですか! 突然」
「言っとくけど、アレはクールなんじゃなくて、むっつりなだけよ」
「……むっつり?」
「おい」
 すかさず恵は顔を上げ、苛立った声音を向けてくる。しかし、澪には恵が苛立つ理由がよくわからなかった。二人の睨み合いを遮っておずおずと問い掛ける。

「あの。むっつり? とは……?」
 初めて聞いて口にする単語を呟き、澪はそっと手を上げる。途端、野薔薇が目を見開き、一気に顔を近づけてくる。
「本気で言ってんの!? あんたもしかして、箱入りのお嬢様?」
「それか、超天然って可能性もあるんじゃね?」
 悠仁が付け足すように声を飛ばしてきた。すると、野薔薇は振り向いて指を指す。
「ああ! それもあり得る!」

 悠仁と野薔薇が果たしてどちらだと回答を求めて目を向けてくるが、澪は首を振った。
「いえ、どちらでもないです……。ただ、京都から出たことがないので、東京で流行っている言葉を知らないだけで……」
「……うん。両方ね。伏黒も天然っちゃ天然だし、合うんじゃない? むっつりだけど」

「違ぇよ。勝手に話を広げんな」
「なら本閉じて会話に参加しろや」
 苛立った様子で睨む恵と、全く引けを取らずに凄む野薔薇の視線が火花を散らし始めた。

「まーまー。伏黒も本当は気になってんだよな。新入生の事」
「別に」
 険悪になり掛ける野薔薇と恵の遣り取りを緩和させようと悠仁が間に入るものの、恵は変わらず冷淡な態度である。
 すると野薔薇は苛立ちを仕舞い込んだ様子で、未知の野生生物を発見した研究者かの如く澪に寄り添って恵を指差した。

「澪、よく観察して。あんなんだけど、頭の中では初対面の女の子に興味津々。それがむっつりの生態よ」
「ふむ……。そうなのですね、覚えておきます!」
「よしよし」と頭を撫でる野薔薇と嬉しそうに顔を綻ばせる澪の遣り取りを見ながら、悠仁は彼女達に距離を取りつつ恵に近付いていく。

「ついに釘崎に舎弟……? が出来ちゃったな」
「ああ。先が思いやられる」
 ため息がちに恵が言うと、すかさず野薔薇は険しい形相を二人に向ける。
「おい男子ども。何か言ったか?」
「いや何も」
 悠仁と恵は声を揃えて言う。その様子を見て、澪は顔を綻ばせる。
「いいなぁ。同級生がいるって、こんなに楽しいのですね……!」
「これのどこが楽しそうに見えるんだ?」
 呆れた声音ですかさず反論したのは恵だ。彼は声のみならず、表情いっぱいで理解不能といった疑問をあらわにしている。
「恵先輩は、楽しくないのですか?」
「…………」
 すると、ふいと恵は視線を逸らす。澪の目には案外楽しんでいるように見えたのだが、錯覚だったのかと首を傾げた。その矢庭、野薔薇と悠仁が高速で彼の机を取り囲む。

「ねえ。今、恵先輩ってのが嬉しくて目を逸らした?」
「それとも、真っ直ぐ見つめられて恥ずかしくなったとか!」
「マジでうるせぇよオマエら」
 不服そうな態度で二人から顔を背ける恵と、けらけらと無邪気に笑う野薔薇と悠仁を見て、澪は不思議な多幸感を感じていた。

(これがきっと、仲間っていうんだろうなぁ)
 時々ぶつかり合ったりするのかも知れないけれど、きっと彼らは三人で楽しく過ごしている。そうこの場の雰囲気が伝えてくれる。まだ自分がその輪の中にいないことを寂しく思いながらも、綯い交ぜの感情が胸中を満たしていった。

 その後も野薔薇から引き続き敷地内の案内をされ、新たな景色や情報が目まぐるしく流れていき、転換の端緒である一日はあっという間に終わった。