My last 改稿版
願い 11

1

 見渡す限り緑と寺社仏閣が織りなす壮観の中、澪は一人で歩いていた。
 東京は郊外の山の麓まで、一切の休息も入れずに進み、迷うことなく目的の場所に辿り着いた。

 東京都立呪術高等専門学校、東京校。
 広大な敷地ゆえか、立ち入ってから未だに人気を感じない。一帯の気配は平穏そのもので、澪は立ち止まって辺りを見回した。

(ここは天元様の結界が守る地。なんとなく、普通の土地とは違う気配を感じる……。これを持って来ていなければ、入った瞬間に取り囲まれていたかも……)
 仏塔と寺社の背に聳える筵山を眺め、ポケットに忍ばせていた呪符を取り出した。
 父の結界の効果により、今の澪は身に纏う呪力が外部に一切感知されず、例えるなら樹木や動物に近い状態となっている。恐らく自然の多いこの地との相性が良いのだ。お陰で容易く敷地に入り込めた。

「君、何しに来たの」
「…………!」
 にわかに背後で男の声がした。
 声が掛かるまで全く気付けなかった。心臓が縮み上がる心地を覚えながら、止まりかけた呼吸を静かに再開して振り返る。
 しかし声の主と視線が交わらなかった。相手の背丈に対し澪が向ける視線が低すぎたのだ。声の降ってきた高さからして、間違いなく高身長だとは思っていたが、想定よりもその男は背丈がある。
 ついでに距離もかなり近い。もしも彼が敵であるのなら、一瞬で致命傷を負わされていただろう。それだけ間近に近付いても一切の気配を察知されずにいられる人間。一体何者なのか。
 男は背を屈めて、ほぼ真上から澪を覗き込むような体勢でいる。反対に彼女は空を仰ぐのと大差ない格好で首を傾けた。

 まず目を引くのは髪色だった。単に「白」と形容するには表現が淡白であろうその色調は、白銀と呼ぶに相応しい美しさがあった。
 その上、一目で分かる眉目秀麗な相貌に、視線を隠すかのように掛けられた真っ黒なサングラス。遮光率の高いレンズなので判然とはしないが、不鮮明な瞳の輪郭が澪を確と見下ろしている。
 出立だけで圧倒された。この男は呪術師の中でも特に異質な存在に違いない。しかし身内で暴れ出しそうな怯えを気取られてはならない。緊迫を抑え込んで口を開く。

「入学希望をお伝えに参りました。初めまして、白主澪と申します」
 澪は笑みを作り、一歩引いて男から遠ざかると恭しく頭を下げた。
「白主……。ああ、嘉月さんの」
「……父をご存じなのですか!?」
 思い掛けず耳にした父の名に勢いよく顔を上げると、男は端正な口元を笑みに形取った。
「まあね。……そっか、気付かなかった。それ見せてくれる?」

 彼が呪符を指さしたので、澪が素直に従えば、彼は手に取ったものを陽に透かすように掲げて仰ぐ。ふと、サングラスの間から覗く鮮やかな蒼の虹彩がこちらに向いた。
 その眼は澪を写しているようでどこか別の、体の深くまでをも視ているような不思議な気配をはらんでいた。綺麗だと思う反面、言いようのない恐怖を感じる。少しずつ、眼前の人物の正体について確信めいた推測も浮かんできた。

 彼は呪符を澪に返しつつ、目線に近づくように背を丸めて言った。
「覚えてないだろうけど、君とは一回だけ会ったことがあるんだよ。……生まれたばかりの時にね」
 瞬間、澪は目の前の男が「五条悟」で間違いないと覚った。これほど運の良いことはない。彼女は口角を上げて返す。
「わあ、そうなのですね。全然知りませんでした!」

 すると彼は微笑を残しつつも訝しげに首を傾げると、屈んで澪の顔を覗き込む。
「……。さっき、東京校に入学希望って言ってたけど、嘉月さんからは京都校に入る予定って聞いてんだよね。どういうことかな?」
「はい。両親は私がここへ来ていることを知りません。実は今日からここに居させて欲しいのです」
「それって家出じゃん。……にしては荷物も何も持ってないよね」
「近場へ買い物に行くと言い残しただけなので、持っているのはお財布だけです」
「何でそんな嘘ついてまでここに来たの?」

 論うかのような口調だった。澪は眉尻を落としながら微笑を返す。
「もう加茂家に媚びへつらう生活はまっぴらです。私は自由になりたいのです」
 ここで馬鹿正直に事情を話すわけにはいかない。彼のことはまだ信用できないし、あくまで自分の我儘で家を出たことを強調したいのだ。
 だが彼は白主家の事情も、澪の術式も知っている。その上、東京校の入学を父に勧めた張本人でもある。こっぴどく叱られるかもしれないが、来てしまったものを追い返すことはしないはず。
 ここで彼に会えたのは好都合だったかも知れない。

「あっはっは。まあまあウケる理由だね」
 ヘラヘラと軽薄そうに五条は笑った。しかし、彼は笑顔をぴたりととめて、そのままの表情で声音を落とす。

「そんな薄っぺらい嘘で騙せると思った?」
 背筋に畏怖が走り抜けた。
 一瞬で、この人には逆らえないと本能的に理解させられる……そういう威圧感だった。首を絞められているわけでも、刃を突き立てられている訳でもないのに、視線さえも動かせない。

「本当のことを言ってごらん」
 澪は震え出しそうな口唇をかすかに開き、掠れないように声を振り絞った。
「…………父は、東京校に私を入学させようとしています。……でも、私一人のために家族を危険に晒したくはなくて……」
「危険って、何が?」
「およそ四百年前、御三家の暗殺を企て処刑された先祖と同じ術式を、私は持っています。加茂家に知られれば、きっと私は処分されます。それを隠してきた家族も……」

 五条はおもむろに顎に手を当てて、どこか楽しそうな声を返す。
「よく嘉月さんがそんなことを君に話したね」
「いいえ。一人で秘密裏に調べ、判断したのです。貴方が私の術式を知っていて、父に東京校への入学を薦めていたことも、偶然聞きました。……ですから、全ては勝手に行動した私の責任にしたいのです」
「……成程ね。澪なりに色々考えたって訳か」

 正直に告げてから、彼の異様な気配はしだいに消えていった。今はもう、その薄笑いに全く恐怖を感じない。
「……とは言っても。まだまだ子供だね」
 強調するように呟かれた「子供」という評価に、澪はかすかに眉をひそめる。
 吐かせるだけ吐かせて嘲笑うつもりなのか、と身構えたものの、五条は余裕そうな面持ちで、しかし優しげな声音で告げた。
「でも、誰かを守りたくて一生懸命なのはいいんじゃない?」
「…………」
(この人、何を考えているのか分からない……。本当に味方なのかさえも……。父様はこの人に騙されているのでは……)

 内心を不穏で染める澪をよそに、五条は踵を返す。そして振り返った相貌はどこか楽しげだった。
「ま、何とかなるでしょ。付いておいで。学長の所まで案内するよ」
「え。……は、はい。よろしくお願いします……」
 話の流れを上手く掴めていないが、五条の内では思案が完結しているらしい。不安はまだ拭えないが、歩き出す背中に声を飛ばしながら、澪は小走りで後を追いかけた。

2

 五条に案内された先は、どうやら学長室……らしい。
 この場所が学長室だと断定しづらいのは、室内のあちこちに、可愛いようなそうでもないようなぬいぐるみが大量に置かれているからだ。部屋の主と不釣り合いな空間である。

 棚に乗り切らないぬいぐるみを左右に侍らし、対面の応接用のソファーに腰を下ろす男――夜蛾正道がこの東京校の学長だ。
 彼もまたサングラスを掛けており、その厳めしいデザインと風貌から、険しい表情であることしか読み取れない。
 常に剣呑な影が相貌に刻まれており、控えめに言う余地すらないほどの強面だ。
 そして何故か澪の隣には、長い足を組んで偉そうに五条が座っている。
 側から見るとなんだか異様な様相の中、澪は緊張で背筋をつっぱらせていた。

 まずは五条が話を切り出し、澪が東京校へやってきた経緯を説明し始めた。
 その口上は「何百年も加茂家にいじめられてる家系の子なんだけど、訳アリな術式持ちってバレるとヤバいから、加茂とクソジジイ共の息のかかった京都校には行きたくないんだって」である。
 当たらずとも遠からずな弁論だが、自分で伝えた方が夜蛾の情に訴えられるような気がする。
 こんなに適当な説明で、見るからに堅そうな相手が納得するのだろうか、と澪の内心には不安が澱のように沈みゆくのだった。
 早々に説明が終わると、少しの静寂を経て夜蛾が口を開いた。

「……事情は分かった」
(あれで分かったんだ……)
 五条の適当解説で理解してもらえたのは奇跡だが、とうもまだ終わりではなさそうだ。澪が緊張に顔を強張らせると、夜蛾の言葉は続く。

「だが。君はここで四年間身を隠すことが目的なのか?」
 それはある程度予想していた問い掛けだった。威圧的な夜蛾の面持ちに臆することなく、丁重に返答する。
「いいえ。降霊術で降ろした者を呪術界のために使役することです。在学中の目標は、呪術師としての学びを深めることは勿論、最低でも二級への昇級と降霊術による一級以上の人間の甦生、それから私が呪術界にとって有益かつ無害な人材だと証明することです」

 心の裏にある野心を隠してはいるが、澪の言葉は決して嘘ではない。誰が聞いても及第点は与えてくれそうな抽象的かつ模範的な回答だ。とにかく今は東京校に入ることができればそれでいい。
 夜蛾の頷きを期待して澪は背筋を伸ばして正視するが、彼の面持ちは険しいままだった。むしろ更に眉間の皺が深くなったようにも見える。

「そこに信念はあるのか。……それともどんな信念の元、君はその目的を掲げている?」
「…………」
 答えることが出来なかった。
 恐らく、夜蛾は澪が本心を隠していることに気付いている。……どう答えればこの問いを躱せるか、加茂家への復讐という野心を隠し通せるか。迷う彼女の肩に、五条がやんわりと手を置いてきた。

「一つアドバイスしてあげよう。……また嘘ついたらバラすよ。まあ僕が言うまでもなくこの人には気付かれると思うけど。当たり障りのない模範解答じゃ、最悪入学拒否されるかもね」
 緊張感のない、まるで他人事かのような軽薄な口調だった。彼もまた、夜蛾のように澪の受け答えを観察しようとしているのか。
 ただ一つ確実なのは、助けてくれる気などは一切ないことだ。
(逃げ場はない……。私は、来るべき場所を違えてしまったのかも……)
 澪は奥歯を噛み締めたが、観念して口を開く。

「……力が欲しいのです。一族が虐げられないよう、守り救える人間となる為に」
「力……か。それは具体的に何だと思う?」
「呪術師としての強さを表す能力と、他人を動かせる権力です。そのどちらも私では一生手に入れられません。ですが、降霊術を成功させたのなら話は別です」
「つまり君は、利己の為に無関係な人間の命を道具として利用するつもりなのか」

 容赦ない指摘だ。しかし、その問答は彼に問われるより前から、ずっと澪の心の内で繰り返され、そして何度も同じ答えを唱え続けてきた。それを己の外に出すのは初めてだが、彼女はもう迷うのをやめた。

「はい、仰る通りです。私の計画は命の冒涜だと非難される所業でしょう」
 夜蛾の相貌を真っ直ぐ見据えながら、澪は続ける。
「……けれど自他共に犠牲無くして、この目的は成し得ません。ですから手段を選ぶつもりはありません。理解を得られず誰に恨まれたとしても、全て受け止め、決して許しは乞いません。それが無力な人間のせめてもの責務だと考えております」

 夜蛾は険しげな面持ちで押し黙った。澪は自分の答えに偽りや揺らぎなどは微塵もなかったが、それが夜蛾にとって許容できるものであったかという確信は持てない。
 学長に受け入れられなければ入学は認められない。
 戸惑いがちに五条を窺い見る。彼はふと意地の悪そうな片笑みを見せると、口を開いた。

「中々面白いでしょ? まあ言いたいことは沢山あるでしょうけど、僕に任せて下さい」
「…………。それが最も気掛かりだな」
「大丈夫ですよ。じゃあ行こうか、澪」
 そう言って五条は立ち上がる。しかし夜蛾の答えをまだ聞いていない。むしろ苦言を呈されていたようにも聞こえた。全く理解が追いつかない。

「え。あ、あの! 入学の許可は……、これで、良いのですか……!?」
「ダメならダメって言うでしょ。こっちおいで」
 さっさと扉に向かって歩き出す五条と、無言の夜蛾を交互に見遣り、澪は大いに狼狽した。
「ちょっと、……あ、あの。ありがとうございました、失礼します……!」
 夜蛾に向かって深々頭を下げ、彼女は扉へ向かって駆け出す。後ろから引き止める声が放たれることはなかった。

 廊下に出て、堂々とした足取りで先導する大きな背を見つめる。
 夜蛾の反応は澪に心から賛同しているとは思えなかった。とはいえ拒否もされてはいなかった。それは五条の言う通り、許容であるという解釈も有りといえば有りかも知れないが、かなり強引だ。
 五条悟という男は、非常に自由奔放で自信に満ちた思考と押しの強さの持ち主だ。彼女は瞠目する。世の中にはこんな人もいるのか、と。

3

「さて。これで澪の身の安全はばっちりだけど、その代わり京都には戻れないよ」
 長い廊下を歩きながら、軽く五条はこちらを振り返る。わざと不安を煽るかのように口角を上げた。

「問題ありません。独りでも上手くやっていく覚悟と自信があります」
 ここまで来て寂しいだなんて泣き言を言うつもりは毛頭ない。これ以上は人に頼らず、決して振り向かず、ただ一人で前に進むのみだ。
……と、そんな決心をしてここまで来たものの、澪の心は揺れていた。
 この教師はどことなく意地悪そうだし、学長には思想の共感を得られなかった。
 今、この地に澪の味方はいない……そんな気がする。そう思うと、つい家族や憲紀のことを思い出して弱気になりそうだった。

「独りでも、ねぇ」
 五条が呟いた直後、後方から足音が聞こえて振り返る。その先には小走りにこちらへ元へ向かってくる少女の姿があった。
「やっと見つけた! 急にいなくならないでよ」
 声を飛ばしてきたのは制服に身を包む女子学生だった。橙に近い茶色の髪を顎先程度の長さで切りそろえている。芯の強そうな眼が凛々しくて綺麗だった。
 澪はその少女の姿を目にした途端、先程の虚勢はどこへやら、早速歳も近そうな彼女に最大の興味が移り変わっていた。

「あれ? その子……中学生?」
「そう。今年の新入生だよ。入学が待ち切れなくて家飛び出してきちゃったんだって」
 すると少女はぱっと表情を輝かせた。
「ほんと? ここ男ばっかだから、女子の後輩楽しみだったのよね!」
 無邪気な笑顔で見つめてくる姿に澪は心を惹かれた。この人と仲良くなりたい、と。無意識に働き始めたのは、いかに良い印象を与えて彼女と親密になれるかという思考だ。

「初めまして! 白主澪と申します、よろしくお願いします! 貴女のお名前を教えていただけますか?」
 早速澪は満面の笑みを向けて距離を詰める。対する少女は驚いたように目を瞬かせるが、すかさず澪は両手で彼女の手を掬い上げて握った。

 明らかに少女は困惑に面持を染め、警戒するように口を開く。
「く、釘崎野薔薇……」
 しかし、澪にとってその反応は予想通りだ。慌ただしく握る手を解放し、一歩引いて頭を下げた。
「申し訳ありません!……その、あまりにも嬉しくて」
 澪は顔を上げるも恭しく視線を逸らし、恥じらいの表情を作った。

「独りでとても心細かったのですが、早く来て正解でした。綺麗で優しい先輩にお会いできたから……」
 澪は心底安堵したように眦を細め、頬を緩く崩す。すると、交錯する野薔薇の視線に慈悲めいた色が生まれるのを確と感じた。同情心を誘い、愛想を振り撒くという作戦は成功だ。
 しかし直後、背後の高い位置から声が降ってくる。

「野薔薇、気を付けな。この子超嘘つきで、猫の皮五枚くらい被ってるから」
 すると、澪の策略に嵌り掛けていた野薔薇の面持ちが一気に疑いの影を作った。
「……なんだと?」
 的確な五条の指摘に澪は狼狽する。
「なっ、何を仰るのですか……!」
「ついさっき堂々と言わなかった? 独りでも上手くやっていくってさ」
「それは……っ」

 たちまち澪は小さく唸り、押し黙った。大誤算だ。野薔薇と仲良くなりたい一心で、この男の存在を忘れかけていた。
 言い訳も誤魔化しも、微量たりとも絞り出せない。さっきから五条にことごとく邪魔をされ、調子を狂わされてばかりだ。そんな悔しさを覚え、ついに口をついて出てきたのは、子供さながらの等身大の訴えだった。

「……だって! 私も女の子のお友達が欲しい! 二人でお出かけしたり、たくさんお話したり、一緒にスイーツを食べたり! 嫌われないように愛想をふりまかなきゃ、私が無害だと証明できない! 誰とも仲良くなれないじゃないですか!!」
 叫ぶように訴えた後、あたりに広がるのは余韻を残した静寂。
(………………。し、まった……)
 口を噤んだ時にはもう遅かった。野薔薇は面食らったように目を見開いていた。

4

 澪にとって、人間関係形成における最善は、愛想を振りまき敵意が無いことを全身で示す以外にはなかった。
 そうすることで加茂家の子供達からは必要以上に謗られずに済んだからだ。
 その処世術のおかげで、学院の同級生とも当たり障りない関係を築けていた。
 けれど真に心を許し合う友人は作れなかった。

 毎日楽しそうに笑い合う女子生徒達の仲睦まじい姿は、眩しいほどに輝いていて、羨ましかった。
 同年代の女の子の友達というのは、一体どんなものなのか。どんな話をするのか。興味はあったけれど、どうしたらその輪の中に入れるのか分からないまま、時は過ぎていった。
 そんな彼女が孤独の日々に心を崩さずに済んだのは、たった一人の友人がいてくれたからだと言っても過言ではない。

 しかし東京校へやって来たからには、その唯一の支えであった彼は側にいない。連絡を取ることも出来ない。だからたった一人でいい。ほんの少しだけでも寄りかるのを許してくれる存在が欲しかった。

(…………でも、失敗してしまった)
 取り繕った打算の態度は、きっと野薔薇を傷付けてしまっただろう。
 澪は深く頭を下げた。
 野薔薇に告げた言葉そのものは真実だ。けれど嘘の態度で塗り固めたことが暴かれてしまった今、どんな言い訳をしても、信じてもらえないだろう。
 彼女がどんな表情で自分を見下ろしているのか、怖くて顔を上げられない。
 けれど、時を交わさず返ってきた声音は、澄んでいて円やかだった。

「なんだ。とんでもない腹黒女かと思ったら、ただの強がりの甘えん坊じゃない」
 野薔薇の気配には怒りを全く感じない。何故怒らないのか、と疑問を抱いた澪は、恐る恐る顔を上げて野薔薇の表情を窺った。

「顔、上げて。私に媚なんて売らなくていいわ。来るなら素のままで来い。ちゃんと受け止めるから」
 そう言って野薔薇は凛々しく端正ながらも、少女らしい屈託のない笑顔を向ける。
(……野薔薇先輩は、私を信じて……、許してくれるの……?)

 にわかに澪の眼の奥で、熱が生まれる。
 感情が零れそうになる衝動に駆られるがまま、野薔薇に抱きついた。これまで秘めていた寂しさや不安が溢れてしまわないよう、彼女の肩口に額を押し付ける。
 野薔薇は、その大胆な行動に少しも戸惑う様子はなかった。たった今宣言した通り、澪の背に手を回して軽く頭を撫でた。

「うんうん。よかったね。まあその辺の絆作りは追々好きにやって」
 ひしと野薔薇に抱きつく澪を、五条は無情にも親猫が子猫を運ぶような手付きで引き剥がす。
 名残惜しさはあったものの、澪は人の心の温かさに触れ、満たされた心地だった。

「野薔薇、授業は三人に任せるから適当にやっててよ。で、終わったら寮に来て澪を案内してあげて」
「うわ出た、いつもの適当」
 野薔薇は不満の面持ちを五条に向けたが、不意にその視線を澪に移すと優しげに目を細めた。
「……まあ分かったわ。それじゃまた後でね、澪」
「はい!」
 立ち去る野薔薇の背を素直に見送りながら、彼女の頬は自然と散ぐ。ふいに五条が顔を覗き込んできた。

「思ったんだけどさ」
「……はい」
 また何か余計なことを言うつもりだろうか。それとも澪の行動を諭す言葉が降ってくるのだろうか。内心で警戒していると、彼は緩く笑いかけてくる。
「そうやって普通に笑った方が可愛いよ」
「は…………い?」
 言われた意味が理解できず、呆けた表情で澪は固まった。
 一呼吸置いて言葉の意味を認識した途端、澪は一気に顔を紅潮させる。今まで身内以外に言われたことのない言葉……。
「可愛い」だなんて、憲紀にだって言われたことがない。
 他人からの蔑みの言葉は慣れているが、褒め言葉にはあまり慣れない。平常を保てず崩れてしまった表情を背け、手で隠しながら声を上擦らせた。

「な、なんですか急に……っ」
「素直でいた方が澪は好かれるよって話」
(ま、紛らわしい……!)
 そうならそうと率直に言ってくれればいいのに。……内心でそんな文句を浮かべながらも、彼の言う通りかも知れない、と澪の内に五条の言葉はすんなりと落ちた。

……憲紀と出会った日、彼は澪の従順な外面ではなく内面を見てくれて、その上で友人となってくれた。
 野薔薇も同じく、追い込まれた澪が思わず口走ってしまった情けない本音を優しく受け入れてくれた。
 もしかしたら、この学校にはそんな人が他にもいるのかも知れない孤独に苛まれることなく目的に向かって進めるかも知れない。

「……。そう、だと嬉しいです」
 そっぽを向いたまま、再び澪は希望を胚胎したあどけない微笑を浮かべていた。