My last 改稿版
願い 10

1

 復讐、それは加茂家の現当主の地位を落とし、蔓延した驕りや偏りを全て壊すこと。その為に、何としてでも術式を隠し、生き抜く。
 明確な目的を見出した澪であったが、同時に惑いも生じていた。今後、どんな顔をして憲紀に会えばいいのかと。
(こればかりは、憲紀には話せない……。自分の父親や家に復讐しようとする人間と友達であり続けられるわけがない。最悪の場合……私は危険因子として処分されてしまう。……千羽矢のように)

 加茂家にとって、白主家に生まれた降霊術師は忌むべき存在だ。
 いずれ当主となる憲紀が何も知らない訳がない。ならば、澪の生得術式を知っても突き出さなかったのは何故か。深く考えるほど、心は泥底に埋もれるばかりだ。

(……もう、憲紀に会わない方がいい……?)
 けれどそれが正しい選択だとは思えなかった。
 自分たちを虐げる者への恨みはあるが、憲紀へ向ける信頼と尊敬は、澪の内で何一つとして変わっていなかったからだ。

(憲紀はあの家の人達とは違う。いつでも優しくて、私の不安を拭ってくれた。術式が分かった時だって……)
 ふいに生得術式を知覚した日を思い出した。
 彼は案じる言葉を掛けながら「澪にとって本当に信頼のおける人間」から自身を除外しようとしていた。もしかすると、憲紀は冤罪の事実まで知っていたからこそ、そう告げる他なかったのではないか。
(……そこまで分かっていたのなら、なおさら……。どうして私が過去を知ろうとするのを止めなかったの……?)

 一つの推測に辿り着くと、新たな疑問が生じる。澪は思考の迷宮に嵌ってしまっていた。
(憲紀の本心が知りたい。……でも、知って絶望することになったら? 話すことで拒絶されたら……?)
 願いと不安が対立する。憲紀に向き合う勇気が持てないまま、ついに定例参向の日を迎えてしまった。

2

(今日は、憲紀が隠れ家に来ていなければいいのに……)

 そう思ったのは、初めてだった。
……彼が高専に行ってしまってから、隠れ家にその姿がない日がどれだけ寂しかったか。縁側で澪を待つように腰を下ろしている姿を見た時、木のトンネルを抜けてやってくる姿を見た時、どれほど嬉しかったか……。
 胸が軋んだ。大好きな人なのに、自分の味方ではないように感じてしまう心の荒びが悲しかった。
 足が鉛となったような心地で庭を歩く、その折柄。

「そこの犬」
 母屋から若い男の声が聞こえてきた。間違いなく呼ばれているのは澪だ。こんな所で引き止められたくはなかったが、きっと二、三言受け流せば解放される。作り笑いを急拵えし、声の方に駆け寄った。

「はい。いかがなさいましたか?」
 澪が笑顔を向けた相手は本家筋の男、加茂長盛。年は二つ上で、嫡流の子――憲紀の弟にあたる人物だ。
 澪が犬と笑われていた時分、彼は子供達の輪の中には入ろうとせず、いつも母屋から冷ややかな視線だけを送ってきていた。まるで塵でもみているかのような目だった。もちろん、今も同じ侮蔑を痛いほど感じる。
 これまで澪に一切興味などなかったであろうに、一体何の用で声を掛けてきたのか……全く予想が付かない。

「来い」
 そう告げながら、長盛は醜いものを見るかのように眉間に皺を寄せる。
 拒否権はないと理解しているが、今すぐに逃げ出したい。貼り付けた満面の笑顔の裏で、彼女は言い様のない不穏を気取っていた。
「申し訳ありません。私は……」
  屋敷に上がることを許されていません、と伝えようとした瞬間、強く腕を掴まれ無理やり引き上げられた。澪は慌てて履き物を脱ぎ、廊下に上がる。強引に引っ張られる体がよろけないよう、ずかずかと進む長盛に付いていくことしかできなかった。

 人気の無い部屋に連れられると、何故か「先に中へ入れ」と言われ、恐々足を進めた。後ろから襖が閉じる音が異様に響き、危機感が警鐘を鳴らす。
 振り返ると暗い瞳が距離を詰めて来た。逃げたくて仕方がなかったが、彼の目的を成すまでは解放してもらえないだろう。おずおずと澪は口を開く。

「あの、ご用件は」
「犬の分際で。次代の当主の寵を恃もうという魂胆か?」
「それは……一体何のことでしょうか?」
「どうやって憲紀をたらし込んだ? ふしだらで穢らわしい雌犬」

……どうやら、彼には澪が憲紀に媚を売っているように見えていたらしい。確かにそう勘違いされても無理はないが、なんとかしらを切れないか試みる。

「滅相もございません。長盛様の仰る通り、犬は所詮犬。憲紀様は、人懐っこい動物と戯れている程度のご認識しかお持ちではないでしょう」
「術式も持たない能無しの癖に……」

 どうも様子がおかしい。話が通じていないように感じる。
 こちらを見下ろす目は爛々とし、口唇は小刻みに震えている。怒りに我を忘れている、と見受けられる形相だった。

「お前は憲紀の犬ではない。俺達に仕える犬だろう? そうだろう?」
「……はい、その通りです」
 すると唐突に長盛の腕が蠢き、おもむろに懐から匕首を取り出した。
「それなら、これで憲紀を始末しろ」

 鞘から刀身が抜かれ、鈍い光がひらめいた瞬間、澪の全身は戦慄した。
 千羽矢の記憶が大波となって思考に押し寄せる。肉を裂き、臓器を抉る激痛を伴いながら、腹の深くへ刺さる異物の感覚。
 迫り上がる嘔気に耐えながら、澪は必死で笑みを作った。

「長盛様、ご冗談が過ぎます。どうか、お収めください」
 しかし、男の目は狂ったような歪の光を宿したまま、刃を澪へ近付けてきた。
「出来ないのか?」
「でき、ません……」

 命令されれば、木の棒やボールをどこまでも追いかけるし、雨が降ろうと雪が降ろうと「よし」と言われるまで外で待つ。餌と称され地面に置かれたものだって這いつくばって食べよう。
 けれど、これだけは従えない。身が竦むほど怖くても、絶対に頷くことはできない。
 しかしこのままでは己の命が危ない。逃げろと、鼓動が訴えていた。分かってはいるが、体が硬直して動けなかった。震えを抑えて立つので精一杯だ。
「主人の命令に逆らうのか」
「申し訳ありません……」

 深く首を垂れたその時、突然髪を鷲掴みにされ、頭が大きく真横に振られる。抵抗できないまま澪は床に倒れこんだ。
 そして、目の前に剥き出しの刀身が降ってきた。
「やれ。命令だ」
 全身の血液が凍りつき、がたがたと身が震えだした。あんなに恐ろしい痛みを、感情を、憲紀に与えられようものか。声も出せないまま、澪は大きく首を横に振る。

「……そうか。出来ないか。ならば無能な犬は処分する」
 長盛は匕首を拾い上げ、再び澪の髪を掴んで引っ張り上げる。見上げた先で、彼は異様なほど口端を釣り上げて笑っていた。……刺される、と覚った。

(もう、だめだ……。こんなところで。どうして……)
 目頭が熱を持つ。視界が朧げになりかけた矢庭、相手の肩越しに襖が開くのが目に映った。
「長盛。何をしている」

3

 それは望んでいた人の声だった。澪は堰き止めていた息を震わせる。
「……憲紀……っ」
 その拍子に目の前の男は相貌を禍々しく歪め、憲紀の方へと首を向けた。しかし切先は澪に向いたままだ。

「そんなにこの無能が惜しいのか。お前が役目を放棄するなら、返してやってもいい」
「……。私が消えれば次代当主の座につけるとでも思っているのなら、身の程知らずも甚だしいな」
「なんだと……」
「相伝の術式もなく、加えてその程度の実力では、当主どころか準一級にも届かない。……そんなことも理解できない愚弟だったとは、呆れを通り越して憐れみさえ覚えるよ」

 実にわざとらしく憲紀はため息をつく。
 その途端、澪の髪を離した長盛は体を反転させ、憲紀に向かって突進するように床を蹴った。憲紀はその場から動かず、突き出された腕を寸前まで引き付け、半身でいなす。相手が己の勢いのまま前のめりに姿勢を崩すと、すかさず軸脚を払った。
 大きな音を立ててひっくり返った長盛は、倒れた拍子に匕首を手放す。悔しげに唸りながら地を這う姿を憲紀は冷淡に見下ろした。

「……無能はオマエの方だろう」
 静かな空間が震えていると錯覚するほどの怒りが伝わってくる。未だかつて聞いたことのない、低く威嚇するような声だった。
「違う、違うっ!! 俺は、俺こそが、次の当主で、選ばれた人間だ……!!」
 長盛は大声で叫んでのたうち回り、刃を手に取ると再び憲紀に対峙した。
 それと同時に襖が思い切り開け放たれた。

 偶然通り掛かったのだろう、廊下に立っていたのは給仕の女だった。
「誰ですか、こんな所でドタバタ……と、……っ!? の……憲紀様!? だっ、誰か、誰か来て!!」
 給仕が悲鳴を上げるや否や、長盛が憲紀に向かって駆け出すが、その刃は届かなかった。
 一瞬で駆け付けた数名の大人に取り押さえられ、長盛は再度地に臥す。しかし諦める様子はなく、手足を振り乱しながら咆哮をあげた。
「穢らわしい妾の子が! 何故父上はこいつを選んだ、何故一族の血が汚れるのを誰も反対しない!? ああクソ、……お前なんか生まれて来なければよかったんだ!!」

 忙しい音を立てて、恐怖の対象は姿を消した。喧騒が遠ざかっていくと、憲紀は険しい面持ちをこころもち和らげ、澪の前で蹲み込む。
「澪、怪我は」
「平気です、……ありがとうございます」
 そうは言ったものの、完全に腰が抜けてしまったらしい。立ちあがろうとしているのだが、恐怖の余波に体が震えて動けない。
 けれど憲紀は急かすことなく、何も言わずに深慮の眼差しを向けている。それに応えたくて懸命に笑みを作ろうとしたが、表情にすら力が入らない。澪は顔を伏せた。

「……申し訳ありません。ちょっと、驚いてしまって。すぐに何とかします」
 手のひらに、膝に、どれだけ力をこめてみても、ぐらぐらと揺れるばかりでみっともない。冷静にならねばと足掻くほど、向けられた刃の鋭さと死の恐怖が脳裏に蘇る。奥歯を食いしばり、何度も力を込めようと試みた。
 するとゆくりなく、澪の手に憲紀の手が静かに重なった。思わず顔を上げれば、穏やかで優しい微笑が映る。

「もう怖いものは何もない。君が落ち着くまで私もここにいる。だから焦らなくても大丈夫だよ」
 その言葉は、強張った身体と心を解くように、彼女の中に染み込んだ。たちまち箍が外れたように視界が涙で滲み、瞬く間に眼の縁から溢れて落ちていく。
 柔らかに重なる手の温もりは、感情を隠さなくてもいいのだと優しく告げている。なおさら涙が止まらなかった。
 澪は体を前に傾けて、憲紀の肩に額を預ける。この弱さを受け止めて欲しいと願って。一回り大きな彼の手は、震える手を静かに握ってくれた。

4

 隠れ家のもみじは、一つ、二つと葉を落とし、地面を赤く色づかせている。
 騒動の後、ようやく澪が立ち上がれるようになると、二人は隠れ家へと移動した。いつものように縁側に並んで座っているが、双方の間に静謐が居座っている。
 重い沈黙を追い払ったのは憲紀だった。
「…………澪。君に隠していたことがある」
 ずっと言葉を探して庭の落ち葉を眺めていた澪は、躊躇いがちに隣へと目を向けた。

「長盛が言っていた通り、私は嫡流ではない。……私の母は現当主の妻ではないからな」
「え……っ」
「術式が判明するまでは、母とここで暮らしていた。虐げられてはいたが、優しい母と慎ましく暮らす毎日は幸せだったよ」
(……知らなかった。憲紀がこの隠れ家を大切にしていたのは、お母様との思い出が詰まっている棲家だったからだなんて……)
「あの家の連中は、それまで私達を散々蔑んでいたのに、私の術式が相伝だと分かった途端、嫡男として迎え入れ、母を追い出した」
 苦しげに歪む憲紀の表情が、その時の悲しみを物語っていた。どれほど彼が母親を愛していたのかも……。

「本当は当主にも呪術師にも成りたくはない。私はただ、また母と笑って過ごす日々を取り戻したいだけなんだよ」
「憲紀は、ずっとお母様の居場所を作るために努力をしてきたのですか……」
 彼は確と頷く。
「だからどんな手を使ってでも当主の座を得て、この家の秩序を一から作り直すつもりだ。……惨めで拙いだろう?」

――そんなことない!」
 これまで憲紀に対し声を荒げることなど一切なかった澪だが、その問いかけだけは強く否定したかった。
 強力な権威を持たない今、権力者に従うことを受け入れる。それが憲紀の選んだ最善であり、苦渋の決断なのだ。その手段を選び取るまでに描いた願いや信念、決意や葛藤は、何人たりとも軽んじることはできないはずだ。

「憲紀は立派です。お母様の為に、たった一人で戦おうとしている……。これまでずっと、色んなことに耐えてきたのでしょう?」
 かすかに憲紀は目を見張ったが、すぐに俯きがちに首を振った。まだ澪に打ち明けられないことがあるのだと覚ったが、少しだけ彼の気持ちが分かったような気がした。

(私達は……目的も考え方もとてもよく似ている。だからこそ憲紀は友達になってくれて、今も本心を見せてくれている。それなのに、私は憲紀を信じられなかった。……なんてばかなんだろう)
 黒く澱んだ思いだったとしても、彼だけには心を明かしたい。そんな思いが澪の胸中で広がっていく。強く手を握りしめた。
「私も……、貴方に話したいことがあります」
 澪は胸元に手を当てて、深く息を吸いゆっくりと吐いた。そして憲紀を見据えて告げる。

「……私は、降霊術式を使い、加茂家の現当主を高みから引き摺り下ろしたい。そしてこの家の驕りも偏りもしがらみも、全て壊したいのです」
「それが、……君の復讐なんだね」
 意外にも憲紀は全く驚く様子を見せなかった。むしろ納得したと言わんばかりの表情で神妙にしている。
「やっぱり、初めから全てを知っていたのですか」
「……すまない」

 ぽつりと言ったきり、憲紀は視線を庭へと外し、遠くの地面を見つめるようにしてわずかに俯いた。その姿は居た堪れなさそうで、憲紀に会うのを躊躇っていた自分と重なる。
 なぜ彼は謝ったのか……その答えは、もしかしたら自分と同じだったのかも知れない。彼は、事実を知った澪に恨まれることを怖れていたのではないか。

「憲紀も……、怖かったのですか」
 今度は驚きを胚胎した面持ちと視線が戻ってくる。
「確かに私は、事実を隠して私達を蔑むこの家の人々を恨んでいます。……でも、貴方は違う。私を救ってくれて、沢山の学びや、信念を与えてくれました。憲紀がいてくれたからこそ、今の私があるのです」
 澪は感謝を込めて憲紀を見つめた。
「それに、貴方の思いを聞いて確信しました。憲紀が当主になればこの家は変われます。そうすれば私達は大切な人達と幸せに暮らせるでしょう?」
 すると、彼はほんの少しだけ笑顔を見せてくれたが、すぐにその相貌は陰りを帯びていく。
「澪には敵わないな。……ただ、その考えはあまりにも純粋過ぎるよ」
 思いがけず澪は首を傾げた。純粋という言葉が、どこか悲しさを帯びていたからだ。時を交わさず、憲紀は暗い声で言葉を続けた。
「あえて知っていることを教えず、自力で家系の歴史を調べさせたのは、君を奮起させるための打算的な目論見さ。……私は、独りで立ち向かうのが寂しかった。この家を根本から否定し、覆すことに共感してくれる仲間が欲しくて、君を巻き込んだんだ」

「…………ふむ。それって悪いことですか?」
「…………え?」
 澪の返答に、憲紀は目を丸くして調子はずれな声を上げる。
「だって、書物を読み調べたのも、一族の冤罪を知って復讐を決めたのも、憲紀の考えに賛同したのも、全部選択したのは私です。憲紀は、ただ選択肢を与えてくれただけですよね?」
 それなのに、一体何が憲紀を悲しくさせてしまうのだろう。と、彼女は眉間に皺を寄せて真剣に悩んだ。
 すると隣から笑いを堪える声が聞こえてきたので、横目で見ると、憲紀が口元を押さえているのが見えた。
「あれっ。そこ、笑うところでした……!?」
「…………いや、本当に君らしい答えだと思って……」
 くつくつと笑い続ける憲紀は本当に珍しい。だからこそ、自分がいかに珍妙な発言をしてしまったのかが顕著で、恥ずかしさに上気する。

 にわかに、凪いでいた空気が、葉擦れを伴って二人の間近を通り抜けた。
 その間に少しだけ落ち着いたのか、憲紀は真摯でありながらも穏やかな表情で澪に向き直った。つられて彼女も少しだけ背筋を伸ばして居直る。
「澪、ありがとう。……これから私達の力でこの家を変えていこう。今度こそ大切な人を守り、救えるように」

 憲紀は在りし日のように澪に手を差し出した。わけも分からないまま笑われてしまったが、どうやら自分の気持ちはちゃんと伝わったらしい。
 ふいに澪の脳裏で出会った日の記憶が想起される。在りし日のあどけなく面映そうにしていた面持ちは、面影を残しつつも随分大人びて凛々しくなった。
 それでも幼少の日から変わらないのは、彼の一心な性分だ。胸が打たれる思いで、澪は頬を綻ばせた。

(そうだ。私は怒りで見失いかけていた……、憲紀のおかげで思い出した。……私の目的は復讐じゃない。憲紀と同じ……大切な人を守り、救うために何かしたいんだ)
 迷いなく手を握り返し、深く頷いた。
「はい……! 私にはまだなんの力もありませんが、必ず、貴方に並びます!」

5

 冬を越え、三月も間近な時候となった。澪は今春に呪術高専の京都校へ入学することが決まっている。
 憲紀と同じ所に行けるのは喜ばしい。けれど、父の結界に守られたこの家を出ることに、不安を感じ始めていた。

(このまま、本当に術式を隠し通せるのかな……。二人の目的のため、出来れば在学中に術式の準備をしたい。でも保守派の息が掛かった呪術師がいる京都校で、誰にも気付かれずに行動するのは困難だ……)

 懸命に知恵を絞ろうとも、現状維持以外に隠し続ける手段が見つからないまま、日々が過ぎていった。
 少しずつ焦りが生じてきた、とある日の夜半のことだった。
 はたと眠りから覚めた澪は、それきり一向に寝付けなくなった。寝転んで不動としていると、じわじわと不安が忍び寄ってくる。庭に出て気分転換でもしようと自室を出た。
 花鶏達に気付かれないよう、極力音を立てずに廊下を歩いていると、襖のわずかな隙間から明かりが漏れている部屋を見つけた。

 そこは、体質が変化してしまってから一切澪が近づけない場所――父の書斎だ。
 この部屋の奥には一振りの刀がある。父の命を救った人が贈ってくれた大切なものだと、幼い頃に教えてもらった。澪が刃物に怯えるようになってから、鋭利なものは極力澪から遠ざけられるようになったが、その刀だけは変わらずここに在るのだ。
 小ぶりな刃物であれば、呪具でない限り直に触れたり目に映らなければ、それほど恐怖は感じない。しかし、父の刀は異質だ。部屋の外に漏れ出るほどの凄まじい存在感に気圧される。今も当然、部屋に近づこうとすると体の奥が恐れにざわめく。
 そっと膝を地につけ、ゆっくりと膝行する。刀の存在感に怯えずに済む間際まで忍び寄った。
 耳をそば立ててみた所、両親が会話をしているらしかった。澪が近づけない部屋で話すこと、それは余程深刻な話に違いない。

「澪を、東京校に行かせようと思う」
「……東京? 一体、何故」
 澪も内心で母と同じ反応をした。
「三ヶ月ほど前、悟くんに声を掛けられた」
「悟さん……。澪が生まれる前まで、よくうちに遊びにいらしていた、五条家の方ですね?」
(五条、悟……さん。御三家の方……。父様はそんな方とも縁があったんだ……)
「彼は今、高専の東京校で教師をしていてね。自分なら澪を匿いながら呪術師として育ててやれると、そう言ってくれたんだ」
「…………悟さんに澪のことを話したのですか」
「いや、違うよ。……澪が生まれてすぐ、彼が最後にここへ来た日あっただろう? その時、悟くんには見えていたんだ。あの子の生得術式が」
「……まさか……」

 澪も思わず目を見開き、心の中で驚嘆した。
 本人でさえ、物心がついてきて初めて知覚する生得術式。それを初見で見抜く人物の能力がいかに卓抜しているかは、未熟な澪でも十分理解出来る。
「彼が協力してくれるのは非常に心強い。しかし、五条家の当主を無闇に巻き込んではならないと思って、申し出は断った。……断ったが」
 重々しい父の声が、淀みを孕んで沈黙を生む。次に聞こえてきたのは母の声だ。
「もう、隠し通すのも、守り続けるのも、難しくなっているのですね」
「……ああ。……憲紀くんも、これまでずっと本家に虚偽の報告をしてくれているが、澪が京都校に入れば、負担はさらに増す。彼にも監視としての立場があるからこそ、これ以上の迷惑は掛けられない……」

 澪は危うく息を大きく飲んでしまいそうになり、両手で口元を抑えた。
 少しも気付けなかった。今まで何の疑いも受けず平穏に過ごせていたのは、憲紀が澪の監視役として、ずっと本家を欺いてくれたからでもあったのだ。
 黙っていれば隠し通せるだなんて、愚かで甘い考えだった。結局自分は守りたかった人達にその身を削らせ、守ってもらっていたのだ……。

 父が細く長い息をつく。その間母は何も言わずに結論を待っている。やがて緊迫の声が静かに紡がれた。
「……澪の東京校への入学を内密に進めるつもりだ」
 父の出した答えに、母は重々しく「はい」とだけ答えた。
「明日の午後なら時間を取れる。その時にあの子も交えて、今後の話をしよう」
「分かりました。……そろそろ出なければならないのでしょう? 明日の朝、澪には私から伝えておきます」
「ありがとう。よろしく頼むよ」

 それから父と母は二言三言何かを交わしていたが、澪は聞き届けることなく部屋に戻った。
 東京校への入学は加茂家に気付かれず進められたとして、その後父は……この家はどうなるのか。考えると悍ましい寒気が全身を駆け抜けた。きっと両親は重い罰を受けるに違いない。このままでは、家族の苦しみと引き換えに、身の安全を得ることになる。
 どうしたら大切な人達に迷惑をかけず、自らも生き抜くことができるのか。
「東京校」「五条悟」という二つの言葉が、彼女が選べる唯一の道をさし示しているように感じた。

 一睡もせずに考え抜き、朝を迎えた。
 普段通りに身支度をし、近場の店へ茶菓子を買いに行きたいと母に言って、外出の許可をもらった。門扉まで駆け足で進むが、そこには人影がある。
「…………花鶏」
 彼の面持ちは険しく、その後ろで心許なさそうに蓮鶴と灰鷹も控えていた。
「お嬢様、私もお供します」
「ありがとう、でも平気。すぐそこのお店に行くだけだから」
 笑いかける澪に反して、花鶏の表情は暗く沈む。
「どうしても、お一人で行くのですか」
 その時、花鶏が言わんとしていることが分かってしまった。長年、彼は親のように澪に接してきてくれた人だ。親よりも澪を甘やかして可愛がっていたと言っても過言ではない。

「……うん。お願い、花鶏。どうしても一人で行きたいの」
 彼はぐっと唇を噛み締めて地面を見つめた。澪は歩み寄り、血管が浮き出るほどに強く握られた拳を手に取る。
「みんなに迷惑をかけることは、分かっています。……でも、これが私にできる最善だと思ったの。だから……」
 すると花鶏はゆるゆると首を横に振る。
「違うのです。私達は、……お嬢様のことが心配なのです。遠くの地で、貴女がたった独りで苦しむことになりやしないかと思うと、私は……っ」
 向き直る瞳は今にも泣き出しそうに揺れている。彼らは、本当に澪を我が子のように愛してくれて、慮ってくれているのだ。

「みんな、ありがとう。でも大丈夫。……私は一人でも必ず生き抜いて、成すべきことをやり遂げます。家族みんなの……私達のために。だから信じて」
 包むように触れていた両の手を少しだけ強く握りこむと、澪は向かい合う瞳に微笑みかけた。
 しだいに、不安で染まりきっていた目の色が少しずつ和らいでいくように見えた。そして、花鶏は澪の真似をするように笑みを浮かべる。
「……信じます。澪お嬢様、どうか、お気をつけて」
「うん! それまでみんなをお願いします」
 包み込む手をはなし、澪は深く頭を下げた。
 顔を上げると門扉に寄り添うように立っていた二人が駆け寄ってくる。そっと手を開けば、花鶏を巻き込みながら彼らが飛び付いてきた。

「澪さまぁ……っ、どうか、お体にお気をつけて……!」
「くれぐれも、知らない人間にはどんな声をかけられても付いて行ってはなりませんからね。お嬢様は見目が愛らし過ぎますから……」
「蓮鶴……、灰鷹。それぐらいにしなさい。……あまり騒ぎ立ててはお嬢様の迷惑になります」
「……はい……」
 少々もみくちゃにされたが、花鶏の一言で澪は二人から解放された。見慣れたいつものやりとりを、しばらくは見ることが出来なくなる。だからこそ、出発前に彼らに会えてよかった。

「行ってらっしゃい。お嬢様」
「行ってきます!」
 心が温まる思いで三羽烏へ満面の笑みを向け、澪は手を振って門の外へと駆けていった。

6

「憲紀」
 いつもの場所で、そっと後ろから忍び寄り小さな声で呼びかける。すると彼は驚きに染まった表情で振り返った。こんなに驚いているのを見るのは初めてかも知れない。
「……澪、か?」
 そっと伸びてきた手が頬に触れる。澪は無邪気に笑いながら、ポケットにしまっていた呪符を見せた。
「はい。偽物じゃないですよ。ちょっとだけ、憲紀を驚かせたくて」
 彼女が見せたものは父の呪符だ。有事の際の護身用として与えられているものであり、この呪符を持っている限り、持ち主の呪力は他者に感知されない。加茂家にこれを持ち込むことは固く禁じられているが、今の彼女には大した問題ではない。

「突然の訪問になってしまいましたが、会えて本当に良かったです」
「丁度こちらに用があってね。それにしても全く気配が読めなかった。流石嘉月さんの術式だな」
 父が褒められるのは自分のことのように嬉しい。こんな穏やかな日々が続けばいいのに、と弱気になる心を抑え、澪は表情を引き締めた。
(私は、本物の穏やかな日々を……幸せを手に入れるために行くのだから)

「今日は参向の日じゃなかったはずだが、何かあったのか?」
 気遣うような優しい声音に、名残惜しい思いが溢れた。澪は一度瞼を伏せ、再び彼に視線を戻す。
「……。どうしても、お伝えしたいことがあって」
 澪の剣呑な様子を察知したのか、憲紀は黙ったまま頷きを返した。
「私、家出して東京に行きます。そこでなら、私の術式を匿いながら、呪術師として育ててもらえるかも知れないのです」
「既に京都校の入学が決まっているんじゃないのかい?」
「はい。ですから父と母に背き、家出したことにするんです」
 彼は静々と目を見張った。きっと澪の言わんとすることを理解したに違いないが、彼女は言葉を続ける。

「これ以上憲紀と家族に、負担を掛けたくはありません。……なので、私の独断で東京校へ押し掛けに行くのです。無計画ですが、きっと何とかなります」
 迷いの無い眼差しでそう告げた澪に対し、憲紀は心許無さそうにしていた面持ちをかすかに和らげた。
「いつもの根拠のない自信か」
「その通り!」
 胸を張って見せる澪に目を向けながらも、憲紀はじっと口を閉ざした。きっと諭したいことが沢山あるのだろう。澪は何を言われてもこの決心を変えないつもりで、憲紀の言葉を待った。例え反対されても納得してもらえるまで粘るつもりだ。

「…………。本当は止めなければならないのに、何故かな。不思議と澪なら上手くやっていきそうな気がするんだ」
 困ったように憲紀は笑った。その途端、澪は嬉しくなって破顔し、声音を明るくする。
「勿論上手くやります! 憲紀や家族の助けになれる力を得て、必ず戻ると約束します!」
「そうだな。次に会えるのを楽しみにしているよ」
 聡い彼は、理想的ではなく論理的な思考が出来る人だ。澪がどれだけ無謀なことをしようとしているのか、彼も十分理解している。それでも送り出す決心をしてくれた彼の選択の正しさを証明するには、自分が結果を出さなければならない。澪は気合いを込めて胸に手を置いた。
「はい。大いに期待していて下さいね!」

「……ところで。東京校への行き方は分かっているか?」
「あっ……」
 己を鼓舞し、意気揚々と出発する気概の澪であったが、しかし呪術高専の東京校とは一体何処にあるのか、大事なことは全くもって知らない。
「相変わらず、そういうところも澪らしいな」

 憲紀は優しい微笑を湛えながら立ち上がると、紙とペンを取ってくる。そして、恥ずかしさに顔を赤くする澪に、目的地への行き方を丁寧に教えてくれた。

 そして普段と変わらない穏やかな遣り取りの末、どちらともなく双方が手を差し出し、しかと交わし合う。
 ほんの少し二人の間に侘しさが漂った。きっと考えていることはお互い同じだ。彼女が幼馴染との学生生活を楽しみにしていたように、彼もその未来がないことを残念に思っているのだと思う。
 この先、二人は顔を合わせることはおろか、連絡を交わすことさえ安易には出来なくなる。
 それでも、進むべき道と、見据える未来は決して違えることはないだろう。
 繋いだ手が離れていき、澪は踵を返した。決して振り返りはせず、新たな土地に身一つで歩いていく。