My last 改稿版
願い 09

1

 隠れ家の縁側に座り、憲紀と紅葉を眺める、何気ないひと時のこと。濃厚に色づいた紅葉が、風に乗って彼女の膝の上に舞い降りた。それを指先でつまみ陽光にかざす。

(きれい。ここのもみじの赤は、何かの色に似ている。…………でも、何の色に……)

 耳元で囁くように己の鼓動の音がした。無自覚に脳裏に広がったのは血の赤。
 それはあまりにも唐突で、激情も感動もなく。忘れていた記憶を不意に思い出したかのような、静かな知覚だった。

「憲紀。私の生得術式が、分かったかも知れません」
「……。それは嘉月さんと同じ術式か?」
 澪は緩く首を振る。ぱっと指を開くと、もみじの葉が風に流されていった。
「命無き人を甦らせる力、です」

 すると唐突に憲紀は押し黙った。澪に何かを伝えたいのを躊躇っているようにも見える。しかし意を決したように重々しく口を開くと、重々しく告げた。

「その術式について、今はまだ誰にも打ち明けない方がいい。私も決して口外しない」
 初めて聞く緊迫の声音に、澪は背筋を伸ばし表情をこわばらせた。
「家族にも、ですか」
 少し逡巡しながらも憲紀は答えた。
「……せめて、嘉月さん以外の耳には入らないようにすべきだ」

 彼の剣呑な様子から、澪はただ事ではないと察知した。澪が戸惑っているのと同じように、彼もまた戸惑っているようにも見えた。それから彼はぴたりと口を閉ざし、口外を禁じる具体的な理由を話そうとはしなかった。
 簡単に言葉で言い表せない程、頭を悩ませる事態だということだ。
父を困らせたり、悲しませたりしたくない。すぐに話すべきかどうかは、この術式とそれに纏わる背景を知ってから判断した方が良いのかも知れない。
 ただならぬ大きな問題に家族を巻き込んでしまうような危惧が、幼い胸の内に広がっていた。

「わかりました。今はまだ……父にも黙っておきます」
 いつものように憲紀に全部を教えてもらいたかった。けれど、澪の術式の裏側には今の自分では理解出来ない事情が内在している。それだけは理解できた。父や家族だけではなく、憲紀のことも困らせたくない澪は、甘えを身内に押し込んだ。きっとこれは、自身の力だけで解ろうとしなければならないのだ。たとえ年月を掛けたとしても。
 澪は強く己の手を握りしめた。

「澪。何があっても一人で抱え込む事だけはしないで欲しい」
「はい。もしもその時が来たら、憲紀に必ず伝えます」
「…………私ではなくていい。君にとって本当に信頼のおける人間を選ぶんだ」
 今、澪の術式を知るのは憲紀だけだ。それなのに何故か突き放す、矛盾の返事だった。
憲紀らしくない。不思議そうに澪は彼を見つめ返したが、その心の内を知ることは叶わなかった。

 家に戻ってからも、澪は両親に己の術式について一切話さず、普段通りに過ごした。
 そこから何年も、術式を持たぬ人間として振る舞い「才能がないからこそ、最低限呪霊に対処出来るようにしたい」という体で、幾つかの武術を習い始めた。
 案外彼女は武術との相性が良く、自分の生得術式を忘れられる時間に没頭した。
 隠れ家に行くと、憲紀も普段通りに接してくれるし、そのうちに組み手にも付き合ってくれるようになった。
 そんな日々は「隠し通せればきっと大丈夫」という根拠のない安心感を澪に与えていったのだった。

2

 十三歳になる年に、澪は呪術とは無縁の女学院へと通うこととなった。
 一方で憲紀は呪術高専の京都校へ入り、会える機会は随分と減ってしまった。けれども、加茂家に赴く時は、いつもの場所へと足を運ぶ。この場所が居心地がいいからというのも理由の一つだが、憲紀は忙しい身であっても、都合さえ合えば来てくれるからだ。
 今日は縁側で書物を広げる姿があった。嬉しさのあまり一直線に彼の許へ向かう。
「憲紀! 今日も高専のお話を聞かせてください!」

 身長が伸び顔つきが少し大人びても、澪の無邪気さや好奇心の高さは、二人が出会った頃とあまり変わっていない。縁側に腹から乗り上げるようにして近寄ってきた澪に、憲紀は穏やかな微笑を返す。

「まずは玄関で履き物を脱いでからだよ」
「はい!」
 素直で聞き分けがいいのも変わらない。元気よく返事を返した次の瞬間には、疾風のような速さで玄関から家に上がり、憲紀が振り向いた時にはもう正座をして待っていた。目を輝かせて待っている澪に、彼は思い出したかのようにぽつりと告げる。

「そういえば……、来年の新入生は三名らしい」
「三人も! みんな女の子でしょうか?」
「まだそこまでは聞いていないが……、一人だけなら知っているよ」
「どんな方ですか!」
「禪院家の、双子の妹の方だと聞いているな」
「禪院家……」

 途端に澪は表情を暗くした。世間にやや疎い澪であるが、昔とは違って呪術界における知識は身についている。
 御三家にまつわる最低限の背景や家柄の傾向も然りだ。
かの家は「禪院家に非ずんば呪術師に非ず、云々」という古の格言の体現のような家系。ある意味、加茂家以上に排他的な家柄だ。
 加茂家ですら、どれだけ愛想を振り撒いても犬扱いが限界だった自分が、禪院家の人間と仲良くなれる想像がつかなかった。

「私、禪院家の方と仲良くなれるでしょうか……」
「安心していい。彼女は君が思っているような禪院家然とした性格ではないからね」
「そう……なのですか? 憲紀は会ったことがあるのですか?」
「ああ。頻繁ではないが、これまでに何度か交流があった。……そうだな、案外澪とは話も合うかも知れない。会えばわかるよ」
「ふむ……! その方のこと、もっと聞きたいです。すぐに仲良しになりたいので!」

 この時の澪は、いずれ自分も呪術高専の京都校に入学するのだと呑気に構えていた。
 生得術式を近くして七年。あの日以来、二人の間で澪の術式のことは話題にも上がらず、家族にも隠したまま。ひとえに平穏な時が過ぎてゆく。澪の内では、自分が特異な術式を持っている、という自覚が風化しつつあった。

3

 中学二年の秋、ちょうど彼女が術式を知覚した時と同じく、もみじが美しい赤に染まり出した気候のことだ。
 暇さえあれば蔵で書物を漁るのは、変わらぬ習慣である。今までと違うのは、読めない書物が減ってきたことだ。読み解くのが楽しくて、誰かに声を掛けられるまで没頭することもしばしばある。

 ついに手の届く範囲の書物は読み終えてしまったので、今度は……と澪は梯子の上を見上げる。
 幼い頃は、花鶏達に「怪我をするかもしれないから、絶対に近付いてはいけない」と言われていたので我慢していたが、今なら問題ないだろう。
 そっと梯子に足をかけてみる。微かに木が軋む音が鳴るものの、体重を少しずつ乗せてみると、安定しているのが確認できた。それから慎重な動作で一段、一段と登っていくと、不意に手に油が付いたかのようなぬめりを感じた。
 片手を離して目の前にかさず。澪は目を見開いた。
「何……これ…………」

 手のひらにべったりとついていたのは、赤黒い液体だ。微かに臭いを感じる。金属のような尖った生臭さ。まさか……――
「血……?」

 カシャンと、何かが落ちる音がした。音の方に目を向けると、刀身が赤く濡れた小刀が木板の上にあった。
 その刹那、身内で何かが叫んでいるような感覚が湧き立つ。異常なまでに身体が震えだす。手にも足にも力が入らなくなる。
 異常だ。慌てて梯子から降りようとしたが、ふらふらと足の感覚も曖昧になって、踏み外した。

「あっ……!」

 瞬きをする間も無く、地面に背を打ち付けた。落ちた、と自覚したのは、背中に痛みを感じてからだった。
 しかし幸い、頭は打たずに済んだらしい。痛いのは背中だけだ。それも大したことはない。それほど高い位置からの落下ではなかったので、無傷だろう。
……それなのに、痺れるような身体の震えが治まらない。さっき見かけた血濡れの小刀を想起すると、さらに身体が硬直する。

(どうし、よう……。身体が、おかしい……。怖い……っ)

「あ……とり……」
 助けを求めるべく、首だけでも出入り口の方へ向けようと身動ぐ。すると頭上で何かが動いたような気がして、真上に視線を戻す。

 にわかに澪は声を押し殺した。……見知らぬ女が、こちらを見下ろしていた。
ゆっくりと、音を立てないように、息を飲み込んだ。
 女は茫漠とした表情で、死人の如く真っ白な顔をしている。腹から下が赤黒く染まった白装束を着て、腕には同じように赤く染まった布と、それに包まれた何かを抱えている。
 項垂れたまま、じっと視線を落としていた。けれど、どうやらその瞳に澪は映っていないようである。
 何を言うでもない相貌からは、一切の感情が読み取れない。ただ、どうしてか、悲壮めいた雰囲気を感じる。

 しだいに女の目の縁は赤く滲み出し、一粒の雫が澪の顔に落ちてきた。頬に生暖かさを感じた途端、一瞬で視界が暗転する――

4

……橙の仄暗い明かりが点々と灯る空間で、うつ伏せになっていた。空間の全貌が見えなくとも、何人もの鋭い視線が突き刺さってくるのを気配で覚った。実に気持ちが悪く、じりじりと縊るような視線だった。
足首を縛られているらしい。動けない。それに体が重い。誰かが馬乗りになって自分の腕を後ろ手に押さえ付けている。

「お願いします、どうか、……どうか……っ」
 哭泣する女の声が耳元で聞こえた。澪が発しているわけはないのだが、どうやら女の体に澪の意識が重なっているようである。
 この体は必死に首をもたげ、その視線が向かう先には、粗末な台がある。上に横たわっていたのは、泣き叫ぶ赤子だ。きっと女の子供なのだと、すぐに分かった。
 そして、台の間近に立つ厳しい風貌の男が、幼子に向けて今まさに小刀を突き刺さんとしていた。

「その子は何もしていません……っ、お願いです、助けて、助けて……!!」
起きあがろうとして女は暴れるが、叩きつけるように頭を押さえつけられ、再び地に伏した。
頬骨が冷たい石畳に打ちつけられて痛みが走る。女は懸命に首を持ち上げる。周囲の人間に懇願を叫ぶ。しかし誰も聞き入れてはくれない。

 無慈悲に刃が小さな体を貫いた。
 思わず目を伏せたくなったが、女の体に精神を閉じ込められた澪は、その光景を直視するしかなかった。
 悲しさを感じる隙も無く、叫声がけたたましく響き渡る。
 その声が誰のものなのか分からなくなるくらいに女が錯乱した。直後、何度も腹を蹴られ顔を殴られ、その度に重い痛みが脳髄に走る。やがて呼吸すらままならなくなり、ついには掠れた呻きをあげて、女は静かになった。

 辺りに静謐が満ちると、遠くから男の指示する声が聞こえ、拘束が解かれた。
 甲高い音を立てて、何かが目の前に落ちてくる。鮮血に濡れた小刀――赤子を貫いたそれだ。

「千羽矢。己が罪を認めよ。その刃を以て償うのなら、残りの一族は罪に問わぬ」

 視界が霞んだ。もう逃げられない。誰も助けてはくれない。これ以上家族を傷つけられたくない。悲痛な思いが心中になだれ込む。
 千早矢と呼ばれたこの身体の主は、上手く力の入らない体を起こし、呪いが篭る小刀を手に取る。
……背後で刀を構える音がした。

 赤く濡れる刀身を見遣り、そして視線を更に先へ伸ばす。赤子は白い布に無造作に包まれており、布の隙間から力なく開かれた掌が覗いていた。
 千羽矢は遠い骸を見つめながら涙を流す。憤怒とも慟哭ともつかない、掠れた唸りを上げ、震える拳に力の全てを込めた。そして先端を一気に腹へと突き立てた――…………。

……――情景はそこで途絶えた。

5

 生々しく腹から渦巻いて溢れるような激情と強烈な吐き気。澪は身を縮こませた。まるで無造作に臓器をかき回されているかのようで、指先一つ動かすだけでも全身で痛みが暴れる。
 それなのに、身体の震えが止まらない。とにかく苦痛だった。

(いたい、痛い……苦しい、つらい、悲しい…………)
 身体だけではない。心も刃物で何度も突き刺されるかのように、感情が吹き出す。その度に痛みで胸が破裂しそうだ。しばらく丸くなって耐えていると、少しずつ女と自分の精神の乖離を感じ始め、激しい痛みと感覚が薄くなっていく。

 恐る恐る頭上を仰ぐと、女の姿は跡形もなく消えていた。
 己の腹を、それから頬を拭ってみたが、赤い液体はどこにも付いていなかった。
 あの女性は怨霊、あるいは呪霊だったのか、しかし呪いの気配とはまた違う。では澪が幻覚を見ていたのか?
何も分からず不可思議な余韻だけが残った。

 ふいに、頬の下から冷たい風が通り抜ける音と温度を感じた。その瞬間、頭の中で雷が落ちたかのように素早く思考が働き、体を起こして床を見遣る。
 よく目を凝らしてみると、そこには白主家の家紋とその周囲に紋様が刻まれていた。

(今まで気付かなかった。……もしかして、床下に地下がある?)
 隙間なく敷き詰められた石畳に、指を滑り込ませる余裕は一切ない。それに澪の力では、この大きな石の板を持ち上げられそうにもない。ただ、間違いなくこの蔵には地下があり、なんとしてでもそこに行かなければと直感が叫んでいた。
もしかしたら、あの恐ろしい記憶についても分かるかも知れない。欲求が鼓動と共に高まっていく。
思考を巡らせるうちに、脳裏に浮かんだのは、先程現れた女の目から落ちた雫だった。

――白主家の家紋。この家の人間である証、…………呪力を宿した、血……。

 もしも、白主家の人間しか立ち入れないようにするとしたら、血を鍵とした結界術式が施されているのではないか。そんな憶測にたどり着いた。
 けれど、どこかに鋭利なものがないかと見渡したが、それらしきものはどこにもない。周囲を見渡すが、梯子に落ちてきた刀も、血の跡もなくなっていた。

 澪は自身の手の平を広げて見遣る。
 一度大きく呼吸を整えて、人差し指の腹を口元に近づけ、歯を立てると一気に力を込めて強く噛んだ。肉が潰れ、皮膚が裂ける痛みが走り、口を離すとすぐさま血が丸い玉を作って流れ出す。
 その血を床に垂らせば、灰色の石に赤い色が色濃く染みる。するとたちまち家紋が血と共鳴するように赤く色付き、石の板が霧のように薄らいで消えた。代わりに現れたのは、地下へ続く階段だ。
 暗く空いた穴の向こうで何かが手招いているような気がした。

6

 足元と壁の感触を頼りに暗闇へと降りていく。けれど、階段を降り切ると同時に、壁面の燭台へと勝手に火が灯った。
 そこにあったのは、石窯のように、組み上げられた岩石が造る空間だった。さして広くはなく、部屋と呼べる程整った場所ではないが、洞窟と呼ぶほど非人工的でもない。
 床には鞠だとか人形だとか、かなり年季の入った玩具が置かれている。古びた木棚には赤子用の小さな着物、女性ものの淡い色の着物、手鏡や櫛なども入っている。まるで母と子供の生活用品が詰め込まれているようだ。
 それから隅には小ぶりな台座がある。
 ここにある全ての物は、どうもはじめからこの場所にあったものではなさそうだ。まるで、後から作ったこの空間に運び込まれ、隠されているかのようである。

 千羽矢という女の手がかりを求めて周囲を探り始めると、澪は机の上に無造作に置かれた文書を見つけた。白主家の記録書のようで「慶長十六年」と書かれていたので、本物ならば四百年前のものだ。開いてみると、難解な部分がかなり多かったが、長年の蔵での学習が功を奏した。全く読めないわけではない。少しずつ、ゆっくりと、彼女は文書を読み進めた……。

――……四百もの年を遡る遠い過去、加茂家にて適正を認められなかった当主の娘は白主家に嫁ぎ、一人の女児を産んだ。
 子の名は千羽矢。彼女は生まれつき血に呪力を宿し、六つの時に術式を知覚した。
 己の血液を媒介として死者の魂と肉体を現世に呼び戻す、という稀有な降霊術である。

「私と、同じ術式……」
 しかし彼女は慶長十六年、世の動乱と災害に乗じ、術式を用いて呪術界の転覆を図った。そして加茂家によって誅殺された、と記録書に記述されていた。
 思わず胸の内が縮み上がった。

 白主家は御三家の嫡子暗殺を企てた女、千羽矢の末裔だったのだ。書簡には処刑の際に加茂家と白主家の他に、一部の御家の当主も立ち会ったと記されていた。
 一族全員の死罪も検討されたそうだが、未遂に終わった事件であった為、加茂家の温情的な働きかけにより極刑は免れたのだという。
 だが、再びこの術式を継いだ人間が生まれる可能性がある為、白主家は加茂家の監視下に置かれ、過去の罪の償いとして代々忠実に従う事を約束した……――
 愕然とした。自分達は罪深い家系の末裔だという事実が受け入れられなかった。
 その上、自身の内に巣食う術式は、白主家の罪の権化だ。己の身に宿るものは、とてつもなく恐ろしい能力なのではないか。
 そして……。もしも、この術式の存在が加茂家に知られた時、自分は、家族はどうなってしまうのか。
 不安と絶望が身内に渦巻いて、澪はその場で泣き崩れた。

――こんなの、知るべきじゃなかった。どうしたらいいのか、わからない……。どうして私、こんなに恐ろしい術式を継いで生まれてきてしまったの……。
 地下へ足を運んだことはおろか、自身の出生でさえ間違いだったのかも知れない。
(どうしよう、……どうし、よう…………)
 溢れる涙で視界が定まらないが、よろめきながら立ち上がると、机に腕を打ちつけてしまった。
 その拍子に小さな木箱が床に落ちた。

 拾い上げてみると、表に男児の名前が書かれていた。たちまち澪の頭の中で巨木のような家系図が広がる。木箱に書かれているのは、千羽矢の次男の名だ。箱には名と共に生年月日が連ねてある。
 けれど中身は空だった。
(臍帯箱……? でも、どうして中身がないんだろう。普通、取り出すことなんてないんじゃ……)
 脳髄の奥で何かが訴えかけてきているような気がした。

(…………。そういえば、この部屋には子供の玩具が沢山あるけれど、一体何故?)
 身内で閃いた他愛のない疑問が光明のように思えた。これは一縷の望み、この謎を解くことで、救いを得られやしないか、と。
(……まだ諦めたくない)
 それから彼女は無我夢中で部屋の内容物を一つ一つ丁寧に確認し始めた。
 子供の玩具に紛れて見つけたのは、たおやかな文字で術式について詳細に綴られているものと、それから千羽矢の日記のらしきものだ。
……読み進めると、日記には彼女の純粋な願いがそこに在った。
「家族揃って平穏無事に過ごしたい」という、慎ましい願い、そして我が子への愛情の記憶が、強く強く、伝わってくる手記だった……。

(千羽矢は、家族が、自分の子が本当に愛おしくてたまらなかったんだ)
 千羽矢の手記を読み進めると、二人目の男児を産んだ直後に死別したことが短く記されていた。あまりにも悲痛な思いに筆が途中で止まっている。ほとんど語られていない記述が、彼女の絶望を物語っていた。
(自分の子を失って、こんなにも苦しんだ人が……、子を失う親の心を知るこの人が、本当に人の子を殺めようとしたの……?)
 日記はそれ以降何も書かれていなかった。澪は書物をそっと閉じる。
(千羽矢は一体どんな手を使って呪術界の転覆を目論んで……。そのために誰を甦らせたんだろう……?)

 少しずつ、絶望は猜疑に変わっていった。はじめに見つけた文書には結果だけが記されていて、肝心な過程はどうでもいいと言わんばかりにぼやけていた。あの文書は本当に真実を記していたのだろうか?
 澪は真実を求め、この部屋にある書物という書物を集めて解読に没頭した。

 そして、ついに殴り書いたような筆跡の手記を見つける。
 血で書いたような色の筆跡は、ところどころ掠れており、読み解くのにかなり時間が掛かったが、文字の荒々しさに匹敵する凄惨たる事実が書かれていた。

 記録書にある白主家の罪は、虚偽だという主張である。
 それどころか、御三家のうち、禪院家と五条家の嫡子暗殺を目論んでいたのは、加茂家だというのだ。手記には千羽矢の潔白と加茂家の不正が事細かに語られていた。

 暗殺未遂が起こる直前、禪院家と五条家の当主は、御前試合の折に共倒れした。加えて世は動乱と天災が巡る時代。度重なる混乱に乗じて呪術界を掌中に収めようとしたのは、加茂家であったと乱筆は語る。
 禪院、五条家の嫡子が襲われる事件が同時に起きた際、非常に運が悪かったのは、時を同じくして千羽矢が我が子の甦生を成功させていたことだった。

 当時、当主を失った禪院家と五条家の客観性は皆無であったようで、あたかも被害者を演じる加茂家の穴だらけな弁論を、彼らは信じてしまった。
 千羽矢は数多の呪術師を甦らせ使役し、暗殺を企てたとして、物的な証拠すら提示されないまま、御三家の立ち会う嫌疑にかけられた。
 当然千羽矢は主張を一切聞き入れられず、酷い有様の亡骸が帰ってきたのは、彼女が捕えられてからひと月後だったという。

 千羽矢の死後、加茂家は彼女に纏わる書簡や遺品の全てを引き渡せと要求してきたそうだ。しかし、当時の白主家の当主は、全て処分したと偽り、真実と千羽矢の思い出の全てをここに隠した――……。

7

……もう何年も前になるが、呪霊は人から漏出する負の感情――つまり呪力が集まり形を成すものだと憲紀が教えてくれた。当時まだ幼かったにも関わらず、澪の身内にはその説明が何故かすんなりと落ち込んだ。
 その理由がたった今、分かった。
 人が人を呪う感情の顕現である呪霊よりも、悪意の根源である人そのものが――……人を容赦なく蔑み陥れる人そのものが恐ろしいのだと、本能的に理解していたからだ。

 呪術師は呪力が体躯の内で循環する為、術師から呪霊は生まれないとされている。
 しかし、その身が死に際して深い怨念を残した場合、非術師の感情が蓄積した呪霊よりも余程凶悪な存在、怨霊と成り得る。
 人界に害が訪れるのは、衆生の業の廻りなのだ。

 澪は眼を閉じて、千羽矢の壮絶な記憶を目蓋に描く。
 あの記憶は、術式に染み込んだ悲痛の思いなのだろう。きっと、強く強く、加茂家を憎んだことだろう。
 思い出せば出すほど、身体は震え、そして血潮が煮えたぎるようだった。

――このままでは終わらせない。……終わらせられない。四百年廻り続けてきた偽りの業を突き返してやるまでは。
「……千羽矢、貴女の復讐は、必ず私が果たします」

8

「……お嬢様、澪お嬢様」
 地下から上がり、蔵の扉に手を掛けた時、扉の向こうから花鶏の声が聞こえた。
 外に出ると辺りは仄暗く、濃紺の空の底に、陽の色が微かに滲んでいる。そのせいだろうか、彼の表情も沈んでいるように見えた。

「そろそろ夕食のお時間ですよ」
「もう、そんな時間だったんだ」
「何だか、顔色が優れないようですが……」
「今日はかなり古い文書を読んだから、少し疲れたみたい」
「……勉強熱心なのは良いことですが、あまりご無理はなさらないでくださいね」
「うん、ありがとう。花鶏」

 上手く笑えている自信がなかった。心の中で激しく燃え盛る感情を抑えることで精一杯だったからだ。