My last 改稿版
願い 08

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 彼女にとって、降霊術による甦生は「目的を成す為の手段」でしかなかった。
 甦らせた人間を使役する事で権力を得て、幅広い協力関係を形成する。
 自力で権力を行使出来るようになれば、己の手で少しずつ膿を排除していく。そうして呪術界が一新されれば、中枢を担う力を手に出来る。
 そこまで上り詰めて漸く、白主家の血脈に深い楔を打ち込んだ者達への復讐が成せる。それは自分の大切な人々を守り救い、助けとなる力を得た事と同義だ。

――打算的で姑息だと自分でも思う。けれどそれでいい。私は弱い。父様や先生、先輩達のような能力なんて持っていない。だけど「人を守り、そして救う強さ」を諦める気はない。

――私の目的は一族を蔑んできた者達への復讐、そして家族を守り彼との約束を果たすこと。その為に力が欲しい。その為なら、どれだけ見苦しくとも利用できるものは使うだけ。

 そんな折、伏黒甚爾という男の存在を知った。
 彼女の武術の師を凌ぎ、特級呪霊をも退ける強さを持ちながら、呪術界から何の価値も見出されなかった男。たちまち興味が膨らんでいった。
 彼は力を善行に尽くしていなかった。それどころか、暗殺に手を染め「術師殺し」の異名を持つほどに呪術師を屠ってきたという。かつて恩師が瀕死まで追い詰められたことも知った。
稼いだ金銭は大乱費、ゆえに常に金欠、あまつさえ、実の息子までもを金に変えようともしていたという。まるで絵に描いたような悪人だ。
 そんな素性を知っても、澪は彼の甦生を諦められなかった。

 彼の落魄の末路は、きっと外面的な結果に過ぎない。そう思ったからだ。
 伏黒甚爾という人は、全てを手放さなければ、世界の何もかもに背を向けなければ、生きてゆけなかっただけなのではないか。確たる事実は無かったが、そんな勝手な推測が澪の身内に形成されていった。知れば知るほど、甚爾に強く惹かれていったのだ。

 能力がある人間が認められない世界はおかしい。心優しい人が虐げられる秩序が許せない。
 だからこそ、彼と作り変えたい。……会いたい、と願うようになっていた。
 理屈ではなく、根拠もない。いつの間にか慕情が芽生えていた。
 むしろ明確な理由があった方が良かったと後悔した。
 何らかの理由さえあれば、それを論理的に否定し、愛だの恋だのという不要な思考を排除出来たからだ。

――いつの間に、私は愚かで下らない人間になってしまったのだろう……。

1

「ほらっ、犬! 取ってこい!」
陽気のいい昼下がり。白い砂利が敷かれ、整った木々が青く輝く庭園にて、格調高い着物を纏う子供たちが、笑いながら木の棒を放り投げた。

「はい!」
高く弧を描く棒切れを追って、一人の少女が駆け出していく。着物が振り乱れるのを気にも止めず、全速力で走って、棒が地面に落ちる前に飛び上がって取る。そして満面の笑みを見せながら子供達の群れに戻っていく。
「今度はあっちだ!」
棒を手渡せば、また別の子供が遠くへ放り投げる。少女は再び宙を舞う棒切れを追いかける。彼らが飽きるまで、同じ行動を何度も何度も繰り返す。少女の足がもつれようが、転ぼうが関係ない。

「ねえ。飽きちゃったぁ。お菓子食べたい」
 十八回の往復の折、誰かが声を上げた。
 少女はようやく解放の時を確信したが、まだ我慢だ。上がる息を押さえ込み、笑顔を保ち、命令を待つ。
「そうだね。……じゃ、お前とはまた後で遊んでやる。屋敷に上がってくるなよ」
「はい、ここでずっと待っています!」
「あ、そうだ。よしって言うまでおすわりしてろ」
「はい!」
 
 大きな返事をして、その場で正座をする。すると子供達の哄笑が響き渡った。少女は座ったまま、大きな手振りで子供達を見送った。彼らの背中が見えなくなっても、少女はずっと笑顔を保っていたが、振り回していた手を下ろし、ずっと溜め込んでいた息をゆっくりと吐き出した。
 喉元まで伝わる脈動で上手く息ができない。正座の姿勢がきつい。本当はその場に倒れ込んでしまいたかったが、耐えた。誰が見ているか分からない。ここでは本心を出してはならないのだ。
 言いようのない感情が心臓から吐き出され、血液と共に激しく少女の体内を駆け巡っていく。

 今日は、隔週で訪れる加茂家への定例参向の日だ。白主家の当主と妻、そして実子は、必ず加茂本家に伺うという決まりになっている。

 少女――白主澪は、生まれた時から血に呪いが宿っていた。正確には、血に呪力を付与する特殊な心臓を持っている。
 白主家はかつて、加茂家に生まれながらも術式を持ち得なかった女が嫁がされた衰退家系であった。
 ゆえに加茂家のが混じっていても、現在に至るまで相伝の術式を継ぐ子が生まれた事は一度もない。しかし一代に必ず一人、澪のような特殊な体質の子が生まれてくるのだ。
 白主の血を引く人間が得た才は、己の血液を媒体として様々な効果を付与した結界を作り上げる術式である。
 そして現当主の白主嘉月……澪の父親は、稀代の結界術の才能を持ち、功績を積み重ねていった結果、特別一級術師の肩書を持つ。結果、界隈では名の知れた家系となるに至った。
 側からは、白主家は御三家たる加茂家に懇意にされている、と認識されている。
 しかしそれはあくまでも外部向けの体裁でしかない。実情は内輪で「犬」と揶揄され、意のままに動く小間使いと同等の扱いを受けている。

 歳が四つになったばかりの幼さでは、その理由が分からなかった。父と母が何をしているのかも知り得ない。ただ分かることは一つ。
 澪は肩で息をしながら、子供達が入って行った母屋を見つめた。

(父様も母様も、我慢して笑ってる。だから、私も……)

 苦しいと訴えてくる胸元を抑えるように、強く拳を握りしめた。

(もうすこしがんばろう。お家に帰れば、父様と母様、みんなと、ほんとうに笑いあえるから……)

 少しずつ乱れた呼吸が整いだす。

(こわがってはいけない。おこってもいけない。口ごたえもしてはいけない。だから、ばかみたいにずっと笑っていれば、そのうちみんなどこかに行って、私のことを忘れてくれる。だからきっと、これであってる)

 愛嬌を惜しげもなく振りまき、決して反発せず従順に振舞えば、多少手荒い扱いを受けても、傷つけられることはない。澪はそれを初めての参向の時に学んだ。幼い心は、白痴の犬を演じて子供達を楽しませることこそ、己に与えられた役割なのだと理解していた。
……何より、信じていた。
 笑顔でいることは、両親を、ひいては家族を守ることに繋がっているはずだと。

2

 陽が傾き出し、子供達が屋内に引っ込む時刻となると、母が庭に迎えに来てくれる。
和やかな微笑みと、差し出された手のひらを見れば、思わずほっと息をついてしまう。
 やっと終わった……。母に飛びついて甘えたくなるのを堪え、敷地を出るまでは笑顔を貼り付けて歩く。

 外を歩いていると、時折加茂家の大人と出くわすことがある。今日も年嵩の女がすれ違いざまに、一言二言小難しい言葉を母に投げていた。
 言葉の意味は澪にはさっぱりだったが、返事をする母の笑顔が偽物であることで、女が酷い言葉を母にぶつけた、というのは分かった。

「……母様」
「ご挨拶をしただけよ。さ、みんなのところに帰りましょう」
 柔らかな微笑みに、悲しさが滲んでいたのを澪は見逃さなかった。そんな母の姿を見ていると、迷いが滲み出す。
 どんなに馬鹿にされても、大切に扱われなくても、笑ってやり過ごすことは、本当に救いになっているのだろうか。もっと他の方法で、家族を守ることはできないのだろうか、と……。

 定例参向の帰りはいつも母と二人きりだ。父は夜になるまで戻らない。そのまま仕事に行ってしまうこともある。門扉を出て、少し歩いたところで澪は振り返った。
 立派な門と、その奥に広がる、風格ある日本家屋と美しい庭園。けれど幼い瞳にはおぞましい地獄のように映る。そんな場所に父を一人残して付く家路は、いつも後ろ髪を引かれる思いだった。
けれど、そんな心許ない気持ちは、流れる景色が少しずつ家の近くの風景に変わるにつれて安堵に変わっていく。加茂家と比べれば小さい屋敷だけれど、澪は自分の家が一番好きだと実感する。

 生家の門をくぐると、屋敷から慌ただしい足音が響いてきた。
 一番に澪の前に現れたのは、凛々しい顔つきで薄茶色の髪を後ろで纏めた長身の女だ。

「澪様! 昨日食べたいと仰っていたフレジエをゲットしてきましたよ!」
「……ほんとう!?」
「あと、タルトタタンとミルフィーユもあります!」
 たちまち澪は綺麗なケーキの想像を膨らませて瞳を輝かせる。すると、長身の女を押し除けて澪の視界に入ってきたのは、短髪で眼鏡をかけた青年だ。表情や仕草、声音に至るまで至って冷静だが、実に手早い動作で紅色の包み紙を開けて見せた。

「澪お嬢様。こちらを見てください。いつものお店で、さくらんぼの金平糖を発見しました。勿論、特選三段重ねも入手済みです」
「わあ……っ、きれい……」
 紅に色づいた星の粒をうっとりとした表情で眺めていると、数拍遅れてやってきたのは、気弱そうな面持ちで、癖のある髪質の男。彼は大切そうに箱を抱えて澪の目の前を占拠する二人の後ろで声を上げた。

「わっ、私も! お嬢様のために季節の生菓子を……っ!」
「さくらのおかし! これは、なのはな? どれもかわいい……。れんかく、はいたか、あとり。みんな、ありがとう!」
「まあ……、そんなにお菓子ばかり買ってきて。みんな澪を甘やかしすぎよ」

 隣で母がため息をつく。澪に合わせてしゃがみ込んでいた三人は気恥ずかしそうに立ち上がる。窺うように母の方を見上げると、言葉に反してとても嬉しそうだった。
 やんわりと嗜められた三名の男女は、白主家……現在は主に澪の守り役の呪術師だ。元々は母の生家、小鳥遊家の三羽烏と呼ばれる優れた呪術師なのだそうだが、嫁ぐ母が心配で着いてきたらしい。
 今ではすっかり白主家の一員だ。しかし、彼らは白主の姓を持たぬため、定例参向の帯同を加茂家に認められていない。ゆえに少しでも澪を労うために、毎回何かしらのサプライズを用意して待っていてくれる。
 優しい父と母、そして支えてくれる家族がいるからこそ、少女は馬鹿の振りを演じていられる。

「よかったわね、澪。でもいっぺんに全部食べてはだめよ」
 娘の視線に気がついた母は、ゆったりと眦を細めて、頭を撫でた。
「はい!」
 母の指が優しく触れる感覚が大好きな澪は、猫のように掌に頭を擦り寄せながら頷いた。

3

 夕食を終え、三羽烏の用意したお菓子を吟味している最中、澪は玄関が開く小さな音を聞きつけた。
「……父様だ!」
 甘い誘惑を振り切って立ち上がり、転がるように駆け出す。途中で何度も足を滑らせながら、玄関まで全力で走った。
 廊下の先に立つ愛しい姿を認めると、自然と幼い頬は紅潮しながら膨らんでいく。溢れた喜びは、弾む声を空間いっぱいに響かせた。

「お帰りなさい、父様っ!」
 跳ねるように駆け寄ると、父はその場にしゃがみ込んで、彼女と同じような満面の笑みを見せる。
「ただいま。澪」
「いま、お夕飯がおわって、みんなでおかしを食べるところなんです。父様もいっしょに……」

 しかし、言い終える前に、悲しそうな微笑みが返ってくる。その刹那、澪は父が何を言おうとしているのかを理解し、閉口した。すると、彼は澪の身体を包むように抱きしめた。

「……すまない。父様はもう行かないと」
「今度は……いつ、帰ってくるのですか?」
「なるべく早く帰るよ」

 父が答えを濁すときは、少なくとも一週間は帰ってこない。次の定例参向の前日に帰ってくることもあった。それを知っているから、澪はもう何も聞かなかった。

「父様がお戻りになるまで、さくらんぼのこんぺいとう、とっておきます。……だから」
 震えそうになる声を堪え、背中に添えた手を握りしめる。

……本当は「いかないで」と言いたかった。
 大好きな父と離れることを考えると、苦しくてたまらない。
けれど、寂しさでこの胸が軋むことよりも、父を困らせることの方がもっと嫌だ。できる限り声を振り絞って正反対の言葉を紡ぐ。

「……お気をつけて。いってらっしゃい」
「ありがとう、澪。行ってきます」
 言葉を交わし合っても、澪は抱きすがる手を緩めなかった。
 温かさ、匂い、鼓動の音、父から感じる全てが心地いい。それなのに、何故か涙が溢れそうだったから。
 自分が泣けば父が困ってしまう。だから見送るときは笑顔でいたい。気持ちが落ち着くまでのほんの少しの間、澪は大きな温もりにしがみついていた。

4

 齢五歳の春先。加茂本家に訪れていた澪は、今日も今日とて庭でボールを追い掛けていた。
 思い切り蹴り飛ばされたボールの行き先は、池の真ん中だ。きっとわざとだろう。
 胸のあたりまで水に浸かってしまう深さの池。もしも足を攣らせようものなら溺れてしまう。しかし彼女には「取りに行かない」という選択肢は与えられていない。
 躊躇なくざぶざぶと水音を立て始めると、後ろから大きな笑い声が聞こえてきた。中心まで進んでいき、ボールを確と抱え「とれました!」と振り向いた。
けれど加茂家の子供達は誰一人としてその場に残っていなかった。

(あれ? もう終わり……?)
 少なくともあと七、八回は池に入ることを覚悟していたので、余りの静けさに呆然としてしまった。
 新たな戯れでも思いついたのだろうかと、首を傾げて池から上がる。辺りを目探しすると、屋敷の中でこちらを見ている一人の男児の姿を認めた。
 澪よりも歳は三つ四つ上に見える。しかし他の年嵩の子供達とは異なり、凛として落ち着き払った雰囲気を帯びていた。
 澪が気抜けしている間に、彼は庭へ降りてきて、こちらに歩み寄ってくる。そして瞼を伏したまま、澪の前で立ち止まった。
 初めて見る顔であった。改めて向き合うと、明らかに風格が違う。澪はすかさず地に膝を付き深く頭を下げた。濡れた手に纏わり付く砂の感触はもう慣れたものだ。

「はじめまして。白主澪と申します」
 けれど一向に嘲笑も罵倒も足も降ってこない。そっと顔を上げて窺い見ると、少年はどこか苛立った様子で見下ろしていた。

「何故、そうしていつも笑っていられるんだ」
 澪は混乱した。まるで「悔しくはないのか」と問われているように錯覚してしまったからだ。彼は澪に対し「犬」ではなく「人」としての会話を求めているのか。……けれどそんなことはあり得ないはず……。
 いつものように白痴を演じ、笑って誤魔化すという選択もできた。けれど何故か、素直に伝えたいと強く感じた。
 澪は背筋を伸ばし、貼り付けた笑みを消す。

「父と母は、どんな扱いを受けても、笑っています。……もしも私が泣いたり怒ったりすれば、二人の苦労がむだになります」
 一度口にした途端、目の前の少年に訴え掛けるように、言葉が連なっていく。
「私も……いま自分に出来ることで、大切な人を守りたいのです」

 にわかに驚いたような色を面持ちに映した少年は、ぐっと口を固く閉ざしてしまい、それから無言となってしまった。
 けれど間も無くして彼は、屈み込んでこちらに向かって手を差し出してきた。

「君を誤解していた。……申し訳なかった」
 今度は澪が面食らった。目を丸くしたまま、言葉も失い固まってしまう。
(あやまった……? この家の方が、私に……?)

「い、いえ……、とんでもないことで、ございます……」
 困惑の真っ只中であっても、彼女の思考は冷静だった。この手は安易に取るべきではないのかも知れない。
 眼前の少年は、十歳にも満たない年齢と見受けられる。それでいて大人のように自立し達観しているような雰囲気を纏っている。それは澪自身にも通じるものがあるようで、しかし遥か遠くにあるようにも感じていた。

 恐る恐る口を開く。
「……あの。失礼ですが、あなたのお名前をうかがっても……?」
 すると彼は「憲紀」と告げて小さく笑む。

 途端、澪は反射的に後ずさった。次いで地に這いつくばる勢いで背を縮こめる。
「たっ……大変失礼いたしました……!」

 加茂家に縁のある者なら誰でも知っている名――加茂憲紀。
 彼はこの家の嫡子、次代の当主に最も近い存在である。澪が安易に会話をしていい人物ではない。全身の血が地面に落ちていく心地だった。
 急いで額を地面に擦り付けようとしたが、ふと何かに制止させられる。
 憲紀は膝をつき、澪の肩に手を添えていた。服が汚れ、手が濡れるのも厭わずに……。

「私は君ともっと話がしたい。……その。……友人として」
 憲紀は面映そうに告げた。澪は思わず息を呑んだ。

(友人……お友達……? 私の、はじめての……)
 言葉の意味を飲み込むと、どんどん期待で鼓動が高鳴っていく。
 ずっと「友」と称されるものに憧れがあった。きっと手に入ることはないと諦めていたものだった。友人というものがどんなものかさえ知らない彼女にとって、憲紀の一言は彼女を孤独から掬い上げた。
 澪は心からの喜びを満面に表した。

5

 そのままでは風邪を引いてしまうからと、憲紀に手を引かれて向かったのは、池の裏手だ。案内されるまま高い生垣に囲まれた細い道を進む。
 途中、憲紀が立ち止まり生垣に手をかざすと、さっきまでは無かったはずの繋ぎ目が現れる。そこから獣道のような細い道が奥に向かって続いていた。
 背の低い木々がトンネルのように重なって空を覆う、不思議な道だった。そこを抜けると、もみじの木に囲まれ、小ぢんまりと佇む木造の平屋へと辿り着いた。

「ここには私以外の人間が来る事はないから、安心していい」
 そう言って憲紀は澪に掌程の紙を差し出した。
「これは、父様の結界符……?」
 見慣れた赤黒い呪文は間違いなく澪の父親の筆跡であった。憲紀を見上げると、その面持ちには安堵とも寂寞とも受け取れる複雑な色が浮かんでいる。

「君の父上には、ずっと前から世話になっているんだ。この家も私の為に残してくれた。……本当に感謝している」
 その一言に、澪は思わず憲紀に一歩近づき嬉しさに頬を膨らませた。
「それはとてもよかった……! 父様はとてもおやさしいでしょう? 才能もあって、それでいてえばらず、みんなを大切にして下さって、……」

 加茂家の敷地内で、初めて耳にした父への感謝の言葉がひとえに嬉しかった。興奮のあまり詰め寄るように憲紀を見上げ、視線が交わった途端に我に返る。

「あ……。失礼いたしました……」
「何も気にすることはないよ。君の言う通り、嘉月さんは慈悲深い方だ」

 憲紀は以前より密かに嘉月との関わりがあったのだと話す。彼が物心着いた頃から関わりがあったらしい。
 そして数年が経ち、使われなくなったこの小さな平家に結界を施して、条件を経ないと辿り着かないようにしたのだという。
 憲紀は、なにやらこの家に思い入れがありそうな様子だが、その理由までは口にしなかった。

「……君が、あんな扱いを受けるのを楽しんでいるように見えて、疑ってしまったんだ。嘉月さんの苦労を何も知らないんじゃないかと」
 父を深く知る人ならば、能天気な顔で池に駆け込んでいく澪を見て、怒りが湧いたとしても無理はない。彼は再び「申し訳ない」と口にして項垂れた。どうやらとても律儀で真面目な性分のようだ。

「お気になさらないで下さい。それよりも、私はとてもうれしいのです。父のために怒って……くらさ……、ふぇ……」
 言い終える前に鼻腔のむず痒さを覚え語尾が尻すぼみになる。
「……くしゅんっ」
ぎゅっと顔をしかめ、澪が身震いをすると、憲紀は上品な笑い声を零す。
「急いで着物を乾かそう」
「はい……、ありがとうございます」
 返事をながら、澪はいそいそと裾の水気を絞り、自身の着物の帯に手を掛ける。

「私の物でも良ければ、一旦それに着替え……」
 憲紀は言いながら歩き始めていた。だが数歩進んで振り向いた途端、慌てた様子で戻ってくる。そして帯を解く澪の手を勢いよく掴んで制止した。

「ちょっと待て」
「はい」
「何故ここで脱ぐ……!?」
「このままでは、床をよごしてしまいますので……」

 悩ましそうに憲紀は額に手を当てる。何か問題があるのだろうか、と澪が首を傾げていると、彼は掴んだ手をそっと引いて「いいかい。外や家族以外の前では、絶対に着物を脱いではいけないよ」と嗜めた。

6

 澪にとって、加茂憲紀との出会いは大きな起点であった。
 邂逅の日を境に、澪が訪れると憲紀が必ず出迎えてくれるようになった。父も憲紀が持っているものと同じ呪符を澪に渡してくれて、隠れ家に行けるようにもなった。
 すると、犬扱いしていた子供達は彼女に近付かなくなって、一切彼等から構われなくなった。澪が一人でいると文句を言ってきたり、無理矢理子供達と遊ばせようとしたりする女達も何も言わない。
 そのため、いつの間にか参向の際は憲紀に会うため、敷地内の隠れ家へ行くのが慣行となっていった。

 憲紀は澪よりも三歳年嵩で、大人に引けを取らないと思えるくらいに博識だった。特に呪術に関しては、当時の澪では全く理解が及ばない事柄まで知り得ていた。
 幼い彼女は、まだ呪いという存在に関して無知だ。白主家の敷地内ではおろか、外出先で蠅頭にすら出くわした経験もない。
 呪術師と非術師、呪いが生まれる所以や呪霊が人に害なす存在である事……この世界の基本さえも知らずにいた。過保護な家族達が、澪を呪いから遠ざけていたのである。

「どうしてそんなに物知りなのですか? 先生にたくさん教わっているのですか?」
「いや、自分で全部調べたんだ。私が今、この世界のどこにいるのか、どこに進めばいいのかを知りたくてね」
「むん……?」
「例えば……突然山の中に放り出されてしまったとしようか。なんとかして家まで帰りたくても、自分がどこにいるのかを知らなければ、前進も後退も出来ないだろう?」

 澪は真剣な面持ちでふんふんと頷いた。彼の言葉を一生懸命理解しようと頭の中で想像を膨らませる。
「それと同じことだよ。目的があっても、自身の能力や立場、取り巻く環境が分からなければ、目的のためにどんな努力しなければいいか分からない……。だから知識が必要だと、そう思ったんだ」
「ふむ……」
 憲紀は目的のためにたくさん勉強をしている。分かるようで、分からない。澪は肩を落として項垂れた。

「大丈夫、澪なら必ず理解できるよ」
「……私がわかるまで、いっぱい教えてくれますか?」
「もちろん。私が識っていることならね」

 不安で眉尻を下げる澪に、憲紀は微笑を返す。するとたちまち澪の心緒は自信で膨らんでいった。こんなに聡く優しい彼が教えてくれるのなら無敵だと、なんの根拠もなく期待と自信が満ちてくる。
「私、がんばります! たくさん勉強します!」

 未だ知らない世界の言葉を、歴史を、好奇心の赴くまま、澪は知識を求めた。
 幼い疑問の全てに対し、憲紀は丁寧に、書物を見せながら、彼女の理解が追いつくまで熱心に教えてくれる。そんな時を過ごす内に、澪は憲紀を友人でありながら兄のように慕っていった。

 それから澪の専らの習慣となったのは、生家の蔵へ入って先祖が残した書物を漁ることである。
 ほとんどの書物はさっぱり内容を読み解けない。白主家の系譜を発見しても、複雑な模様のように澪の目には映っていた。しかし、彼女はそれで満足なのである。小難しい顔をして眺めているだけでも、少しずつ憲紀に近づけているような心地で楽しかった。
 もっと大きくなれば、きっとこの書物の意味も読み解けるようになる。そしてたくさん憲紀と話が出来るようになるのだと、純粋で明るい未来を夢見ていた。

 そんな日々を過ごしていた折、彼女は己に刻まれた術式の存在を知覚する。
 六歳の秋の事だった。