Short Story
Kyabecyū

1

 朝と呼ぶには遅すぎるが昼と呼ぶ程陽が上り切ってはいない半端な時刻。予定を入れていない日は大体これぐらいの頃合いに澪はリビングに姿を現す。しかも微睡の最中の大人しさとは打って変わり、意気を絶好調に整えた状態で。

「おはようございます、甚爾さん。今日は何の日かご存知ですか!」
「愛妻の日」
 予想通りの活気を携えてやって来た澪とは真逆に、甚爾は気怠そうに答えた。
「よくご存じで! 流石甚爾さんです」
「一週間前から毎日聞かされてんだぞ。嫌でも覚える」

 彼の即答の理由は言葉の通り「一月三十一日は愛妻の日というらしいですよ」と一日に一回、澪が唐突に告げてくる所為で勝手に記憶してしまっていたからだ。澪は何を企んでいるのか妙に楽しんでいる様子だったが、彼にとっては面倒な日の秒読みである。

「そうでしたっけ。でも、今日は内に秘めている甚爾さんの私への愛が一体どんな形でお伝え頂けるのか楽しみですね」
 言いながら澪は甚爾の座るソファーへと並んで腰掛けた。
「一日ずっと抱きしめてくれるとかかなぁ。それとも目が合う度にキスしてくれるとか、もしかして一緒にお風呂に入ってくれるのかな?」

 顎に指を添えながら、その様子を想像でもしているかのように澪は目を閉じる。しかし甚爾は彼女が口に出して挙げたそのどれもを実行するつもりは毛頭ない。
 無言を貫いていると、彼女は体を寄せて甚爾の顔を覗き込み屈託ない笑みを向ける。
「ね? 甚爾さん」
「しねーよ」
「えー! では甚爾さんのお膝の上一日乗車券も頂けないのですか!?」
 また訳の分からないことを言い始めた……、と呆れながらも、こんな他愛の無いやり取りが起こるのを予想していただけあって、彼にはまだ彼女に付き合ってやる余裕があり、それが手伝って不意に一つの奇襲が思い浮かぶ。悪巧みを隠しつつ言葉を返す。

「どうせいつも勝手に乗ってくんだろ」
「そうではなくて……。私は甚爾さんからの愛情表現が欲しいんです」
 澪は口を小さく尖らせて、子供じみた態とらしい面持ちで甚爾を見上げている。
 普段ならば軽くあしらう所だが、彼女の上目を見つめ返して掌で頬を覆うと、その内にある表情が僅かな赤みを帯びて一驚に染まった。しかし声を上げる事も身動いで逃げる素振りも無く、むしろ交わる彼女の眼差しには淑やかな熱が滲みつつある。
 ゆっくりと顔を近づけて、大人しくしたままの口唇に触れた。

「……。どう、したのですか。急に……」
「愛情表現」
「そ、そんな付け焼刃的な適当なあしらいで誤魔化せると思ったら大間違いですからね……!」
 早口に言いながら澪は顔を背けるが、顔全体どころか耳まで真っ赤なので何一つ本心が隠し切れていない。実にあからさまな動揺である。
――チョロい奴……。

2

 どうもたった一度の口付けだけで満足したのか、それ以上「愛妻の日」の話題で澪が絡んでくることはなく、普段の調子で甚爾の膝の上に座り直した澪は、今日は折角晴れているので昼食がてら何処かに出掛けたいと新たな話題を持ち掛ける。
 澪が操作するタブレットの画面を見ながら店を二人で吟味していると、唐突にインターフォンが鳴り、画面に配達員らしき男の姿が映った。

「……あれ、昨日の夜頼んだばかりなのに。もう届いたのかな」
 ひとり言を呟き、甚爾の膝の上から降りた澪は首を傾げながらもモニターに向かい応答する。

……澪にはまだ明かしていないが、一週間前からの告知のお陰で当日にやたらと絡まれる事を予想していたが故に、何か一つでも贈っておけば満足して大人しくなるだろうと思い、事前に手配していた物がある。
 だが、そこまで手の込んだことをせずとも、その場の思い付きであっさりと澪が引き下がったので、甚爾自身、この瞬間まで存在を忘れていた。
 今が正に指定通りの時刻なので、澪の注文品ではなく、彼が頼んでいたそれが丁度届いたと見て間違いない。
 数日前まではどうやって本人に受け取らせようかと考えていたが「アイツは馬鹿だからまぁ何とかなる」と適当に思考を片付けた。そして現在、予測通り丁度良い勘違いが生じたので好都合だ。

 玄関に向かう澪の背を見遣りながら、受け取った途端に喜び勇んで帰ってくる姿がもう既に彼の目には浮かんでいる。
 それはそれで折角落ち着いた澪が先程よりも更にやかましくなりかねないのだが、度々彼女は予想を上回った行動を見せてくる。今回はどう裏切ってくるか。どこか心緒の端で期待もしていた。

 玄関のドアが閉まる音が聞こえたので彼女が戻ってくるのを待っていたものの、戻ってくるどころか物音一つ立たない。配達物の当てが外れて疑問に佇立していたとしても、これだけ何も反応が無く静かなのはいささか不自然だ。
 心配しているというつもりでも無いが、余りに何の反応もないので、仕方なく様子を見に行くべく腰を上げた。

3

 澪は玄関でドアの方を向いたまま、その場で立ち尽くしていた。
 その姿は確かに彼の予想を超えていると言えばそうであるのだが、一体何をしているのか。
 半ば後ろから覗き込むように見ると、彼女は胸に抱いた丹精にアレンジメントされた花籠を見ながら、放心の表情で涙を流している。
 澪の腕の中にある黄色を基調にした花の束は、彼が彼女に宛てて贈ったもので間違いない。悲愴を掻き立てる要素は一切無い筈なので涙の意味が全く分からない。
 驚きの情緒が「何故そうなる」と声になってしまうのを堪えた。
 甚爾は前に傾いた体を戻した。
「……澪」

 彼女は花へと俯いたままぎこちなく振り返る。目元から落ちていく涙は一向に収まらない。顎の下に手を添えてゆっくり上を向かせると、その面持ちは心を痛めているようではなく、むしろひどく穏やかに綻んでいるようだった。

「何で泣くんだよ」
「だって。……甚爾さんがお花を送って下さるなんて、思わないじゃないですか」
「……それで泣くか? 普通」

 無言の返答として澪が嫋やかに眦を細めると、その縁からまた涙が一筋頬を伝う。
 それは悲しみとも喜びともつかぬ理解し難い涙でありながら、彼女の肌の色を透かして流れると同様に自身の内心をも雫を隔てて透かしているようで、思わず彼は目を逸らした。

「私を思って、向日葵を選んでくれたんですよね……」
「んなわけあるか。適当に作らせたんだよ」
「嘘つき、大好き。私も……、私も愛しています」

 緩く破顔した彼女が花籠を高めに掲げると、籠の隅に添えられているカードが目に映る。
 そこには線の細い手書き文字で「旦那様のご意向を伺い向日葵をご案内したところ、奥様のイメージに合うと気に入って頂けました。花言葉は“あなただけを見つめる“です。それからもうひとつ。十一本の向日葵の意味は“最愛“です」とあった。語尾には丁寧にハートマークまで添えられている。
 メッセージは特に必要ないと伝えてあった筈だが、どうやら要らぬお節介を食らったらしい。
 余りにバツが悪い。舌打ちと共に軽く身内で「余計な事しやがって」と悪態をついた。

「甚爾さん」
 その声に視線を落とすと、澪は乾かない瞳で甚爾を見上げ静かな乞いを向けた。口に出されずとも彼女の願いを察してしまえる辺り、随分絆されてしまったのだと自覚せざるを得ない。
 かつてはそれを受け入れることを厭うた心の境界は今となっては跡形もないのだ。
 片手で花籠を受け取り、背を屈めてやると澪の両腕が首に向かって伸ばされる。抱き付いてきた彼女の腰に腕を回して自身の身に引き寄せながら持ち上げた。
 側から見れば大層不恰好な二人だろう。しかし熱く高まる心緒はそんな見目など気に留めず、冷めやらぬままに部屋へ戻っていく。

(2020/01/31)