Short Story
涼鈴の音


1

 蒸れた空が凪ぐ昼下り、灼けるような鳴き声が幾多も重なる。
 彼は宿舎の二階にある、とある一室を見上げた。
 いつのものように窓が空いているのを確認すると、軽々と跳んで、音もなく窓の下枠に足を掛ける。窓枠にぶら下がる風鈴の短冊を手で揺らせば、耳障りな蝉の声を打ち消すように、細く涼しい音が鳴った。

「……それ、呼び鈴じゃないんだけど。悟くん」
「いーじゃん。俺が来たってすぐ分かるし」
 高い背を縮こめながら窓を通る彼――五条悟は、この部屋の主を見遣る。しかし、彼女はこちらを見向きもしていない。

「そうそう。悟くん用のプチ玄関作っといたから。靴はそこで脱いでね」
 視線を真下に落とすと「WELCOME」と記された木材風のラバーマットが敷かれていた。
 この小さな玄関を拵えた部屋の主――白主澪は、上体を収納棚に突っ込んでガタガタと物音を立てている。

「……さっきから何してんの」
「魔窟の片付け! 暇なら手伝って」
「暑ぃから無理」

 すると澪は、引っこ抜かれたように体を棚の外に出してこちらを見た。その表情はにこやかで、そっけない返答など気にしていない様子である。

「ま、いいよ。もう終わるし。それで、今日は何の用?」
「傑がキレてるから避難しに来た」

 マットに靴を置いた五条は、テレビの前に置かれたヴィンテージのハイバックソファーへと粗暴に座り込む。

「また悟くんが怒らせたんでしょ?」
「知らねーよ。話してたら勝手にアイツがキレたんだって」
「悟くん、すぐデリカシーのない事言うもんね」
「…………あのさぁ。なんで傑の肩ばっか持つわけ?」

 この年の呪術高専東京校の新入生は男子二名、女子二名。少人数ゆえか、彼らは入学して間も無く各々打ち解けた。
 しかし男子二名……五条悟と夏油傑に関しては仲が良いと断定するのを迷う程に衝突が多い。仲良く雑談していたかと思えば、次の瞬間には乱闘沙汰になりかける。
 その度に夏油の呪霊操術発動によって高専の警告アラートが作動。駆けつけた担当教員の夜蛾に「連帯責任」と一年全員が叱られる(しかも全員その場で正座だ)というのが慣行と化していた。

 もっとも澪と家入硝子の女子二名は、この夏場になってようやく、男子が不穏な空気を出し始めたらさっさとその場を離れ、無関係を貫く術を覚え始めた。それくらい、二人の衝突は日常茶飯事なのである。
 喧嘩コンビが夜蛾の指導を食らい終えた頃合いに、女子二人は呑気な顔で帰ってくる。それから頭にコブを作る二人を見て澪と硝子と笑うのだが、問題はその後だ。

「傑くん、あんまり悟くんの言う事を真っ向から受け取っちゃだめだよ」と。澪だけはいつも五条の喧嘩相手をフォローする。
 意見の衝突による苛立ちが鎮火しても、澪の一言ばかりが心に埋み火を残す。

「ん? 別に傑くんの味方してるわけじゃないけど?」
 彼女は不思議そうな顔をして小首を傾げる。ぎっと睨み上げても全く怯む様子はなく、それどころか楽しそうな笑みを返してくる。

「まあまあ。そんなにイライラしてるともっと暑くなるよ。……はい。あげる」
 彼女が小ぶりな冷蔵庫から出して来たのはラムネ瓶だ。これもいつもの事だ。あからさまに五条が機嫌を悪くすると、このように澪は物で釣ろうとする。ある時は飴、ある時はチョコ。人を動物か何かだと思っているのだろうか。

「またこれかよ」
「最近のマイブームなんだもん。いらない?」
「……いる」

 ムカつくことに、これもいつもの事。
 どれだけ不満でも、彼は差し出された物を受け取ってしまう。いいように丸め込まれていると分かってはいても、特別に扱われているようにも思えて、悪い気がしないのだ。
……いわゆる惚れた弱みというヤツだ。我ながら単純な性格だと、彼は苦い自嘲を口元に滲ませた。

 瓶の栓を開けてラムネを一口飲めば、甘い炭酸がはじけながら喉元を通る。その爽快感が淀む心持ちを涼しく洗ってくれるように感じた。
 ガラスの中に転がったビー玉を眺めていると、ふいに澪が何かを後ろ手に隠しながら隣に腰掛けた。

「ねぇ、今日から三日間の予定は?」
「特になし」
「よし。それじゃあ桃鉄しようぜ!」

 満面の笑みを浮かべ、澪はずいと持っていたものを差し出す。黄ばみが年季の深さを物語るゲーム機と、同じく時の流れを感じさせるパッケージのカセットだった。

「うわ、スーファミかよ」
「さっき発掘したんだ。懐かしいでしょ? ちゃんと動くよ」

 以前の住人はかなり物を溜め込む主義だったようで、この部屋には置き土産がやたらある。
 変な趣味のソファーも、半端な大きさの冷蔵庫も、テレビも、全て卒業生が置いて行ったものだ。
 僅かな恩恵はあれど、反面、収納の中身は魔窟だった。片付けを試みて雪崩を起こした澪を助け出したこともあるくらい、物が敷き詰められている。
 ゆえに古いゲーム機の一つや二つくらい、発掘されてもおかしくはない。下手したらファミコンとかPCエンジンなんかも埋まっていそうだ。

「桃鉄以外のソフトねぇの?」
「あるけど桃鉄やりたい。九十九年で勝負しよ」
「オマエさぁ、何時間掛かるか分かってる?」
「丸々二日あれば多分終わるよ! だから三日見とけば余裕でしょ」
「寝ずにぶっ通しかよ」
「……だめ?」

 身長差の都合で彼女が自然と上目になるのは分かっていた事だ。けれど、そんな訊き方と眉尻を下げる仕草を見せられれば、彼の断る道は潰えたも同然である。

「……。付き合ってやってもいい。けど」
「けど?」
「どうせ勝負すんなら何か賭けようぜ」
「賭け? ……それじゃあ、焼肉奢りとか?」
「なんかショボくね?」
「えー? 焼肉より豪華な賭けって……なんだろ……。寿司……?」

 彼女の価値基準は、往々にして食い物が最優先される。色気も何もない提案に、五条は内心で呆れ返っていたが、人の機嫌を菓子で釣れると思い込んでいる奴なので、まあ致し方ない。

「……じゃ、もしもオマエが勝ったら、焼肉奢ってやるよ」
「悟くんが勝ったら?」
「未定。やりながら考える」
「ふーん?」

 澪は彼の顔を覗き込んで、意味深な薄笑いを浮かべている。
 しかし、その頭の中は大体察しがついていた。「焼き肉より良いものが思いつかないんでしょ?」という顔だ。……違うわ。

 五条は追及の眼差しを無視して立ち上がると、窓際の靴を持って部屋の出入り口に向かった。靴を履いて振り返っても、澪はきょとんとしたまま座っている。

「早く来いよ」
「どこいくの?」
「買い出しに決まってんだろ。風呂と便所以外は退室禁止な」
「わあ! カンヅメだ! アイスいっぱい買お」
「そのちっせぇ冷蔵庫に入るだけにしろよ」
「りょーかい!」

2

 結果として。丸々二日を要した勝負は五条の圧勝だった。

 まず、ゲーム時間二年目にして澪の資産をマイナスにしてやったところから、勝利への道程は快調にスタートした。
 年を重ねる毎に彼の資産が増えるのに比例して、彼女の負債はどんどん増えていった。
 開始数時間足らずでこれ程一方的な勝負はないだろうと、若干の罪悪感が生まれるくらい、金の格差が広がっていた。
 しかし澪は果敢で、何度も一発逆転を狙って勝負を挑んできた。その度に返り討ちに遭わせたのは言うまでもない。

 そんな攻防しながら二十年目辺りまでは、けしかけてくる彼女をいかにして出し抜き悔しがらせてやろうと、五条も純粋にゲームを楽しんでいた。
 コンビニで買い漁ったスナック菓子やらアイスやらをつまみつつ、他愛のない話を交えながら、二人は勝負を満喫していた。
 五十年を超えてきて、決まった手順で進むゲーム内容に飽きを感じ始め、次第にテンションも冷え込んでいき、やがてじわじわと睡魔が忍び寄って来た。

 ゲーム内の時間が八十年を過ぎ、澪が寝落ちしそうになるのを何度も叩き起こし、支離滅裂な会話に付き合いながら、単調な作業と化したゲームを進めた。
 いよいよ終盤になると、風呂に行くのさえも億劫になって、廃人みたいに黙々と二人でコントローラーを動かしていた。
 ここへきて、五条はプレイヤーにCPU二名を追加した事と、夏油と硝子に「二人の勝負だから終わるまでは入室禁止」と宣言したことをとにかく後悔した。

 そうして三日目の今朝方、雀のさえずりを聞きながら、やっと九十九年の戦いを終えたのである。

 大差で勝利した五条だが、達成感は無かった。ゲーム内で得られたものは、長時間のプレイを讃える特別な台詞が一つだけ。残ったのはひどい疲労感だ。
 疲れ知らずの彼だが、丸々二日間寝ずにゲームを延々続けるというのは、任務で緻密な呪力操作を長時間要求される事よりも過酷に思える作業だった。

 澪はというと、完走したのが随分嬉しかったらしい。六百億以上の負債を抱えた人生大転落者の癖に、両手を上げて喜んでいた。
 そんな姿を見ていたら、なんだか長く厳しい戦いを二人で乗り切ったように思えてきた。後半あれ程飽き飽きとしていた記憶さえも勝手に美化されていく。

「すごい! 見て! 本当に九十九年終わったんだよ!」
 目の下にクマを作って、挙句顔色もすこぶる悪い。それでも純粋に輝く彼女の瞳を見ていると、疲労困憊の姿さえ愛おしく映る。末期だ。これはもう速攻寝た方がいい。

「おー。そうだな」
「悟くん、付き合ってくれてありがと!」
 澪は二徹するとテンションが上がりまくってぶっ壊れる。この情報はそこそこ貴重だ。それにもう二度と見ることが叶わない姿でもある。たいそう喜んでいるし、学生だからこそ味わえるであろう経験を得られただけでも良しとするか。
 小さく息をついた矢庭、澪は突然彼の背中に手を回し、がっちりと抱きついて来た。あまりにも予想外の出来事と、二徹で鈍る脳が、彼の反応を無にしていた。

「楽しかったね!」
 抱きついたままに笑顔を向けられた瞬間、後悔や眠気なんてものは木っ端微塵となり、怠さは消し飛んだ。
 しかし、ささやかな幸せを堪能するのも束の間。彼女の香りや鳩尾のあたりに押し付けられる柔らかな感触が、段々と青少年の血気を刺激はじめる。
 眠りかけてる理性が本能に押し負ける前に「風呂入って寝たいからもう解散」と、努めて平坦に告げて部屋を出た。

3

(今日はもう夜まで寝る。いや、むしろ明日の朝まで寝れる)
 大浴場で軽く体を流し、自室のベッドにうつ伏せて一考。

「…………携帯どこいった」
 澪の部屋に置き忘れたのだろう。
 目の下に隈を作って必死にゲームをする彼女の姿が可笑しくて「後で傑と硝子に見せよ」なんて言いながら写真を撮ったのを確と覚えている。
 今から取りに行くべきか、少しだけ眠って後回しにするかどうか。眠気の狭間で心境は至極複雑に揺れていた。

 連絡を寄越してくる相手は同級生のいずれかだ。携帯の応答が無かったとしても、急用ならこの部屋に直接やってくる。だからもう寝る。
 普段の彼ならそう割り切って眠りに就いていただろう。
 しかし一つの懸念が瞼を落とすのを強く拒んでいる。

(…………待ち受け、ノリで澪に変えたままだった)

 その写真は、つい数時間前に彼が撮ったものだ。
 はじめは後で茶化してやろうという悪戯心が由来だった。けれど、頭をくらくらさせながら喋り掛けてくるのがあまりにも可愛くて、判断力の低下した彼の頭はそれを待ち受けに設定するのに何の抵抗もしなかった。
 もしも、うっかり澪が見てしまったら……。

「あー……クソ。めんどくせ」
 彼女は進んで他人の携帯を見てやろうという性格ではない。
 けれどこういう時に限って誰かが携帯を鳴らしやがるというのはままあることだ。澪としても「そのつもりは無かったが……」という不測の事態の可能性は大いにあり得る。
 盛大なため息をついて、渋々と反応の鈍る体を起こした。

 澪の部屋は真上だ。わざわざドアから出て廊下を歩いて階段を登って……なんて事をせずとも、窓から出て窓から入った方が早い。
 外に出て見上げると、やはり彼女の部屋の窓は開いていた。今回は気怠そうに壁を伝って歩き、そして窓の下枠に乗る。自分が来た事を告げるべく、風鈴を鳴らそうとして手を止めた。

 ふと室内を見渡した時、澪がベッドに横臥しているのを見てしまったからだ。
 まじまじとその姿を見れば、彼女は目を閉じてゆっくりと肩を上下させている。……それだけなら良かった。彼の視線を縫いとめて離さないのは、無防備な寝顔と柔らかそうな白い肌だ。
 相当寝ぼけていたのか、澪はなぜか制服を着ている。しかもスカートが捲れ上がって太ももが露わになっていた。
 彼は風鈴に伸ばした手を引っ込めると、そっと部屋の中に降り立った。

4

 不埒な衝動がうずうずと湧いていた。虫が花の香りに誘われるように歩み寄る。
 無警戒な姿体を見下ろせば、清艶さばかりが目についてならない。風呂から出たばかりなのだろう。僅かに濡れた毛先が艶かしく照り、微かな熱をはらんだ甘い香りがたちのぼってくる。
 エアコンはついているものの、窓を開けている所為でこの部屋は蒸し暑い。彼の情緒を乱し誘うように、澪の首筋に汗が滲んでいる。「どうするのか」と催促するように、自分の首筋にも汗がつたった。

 その時、にわかに風鈴が鳴った。うなじを撫でながら、湿った風が吹き込んでくる。
 生暖かい色風が、あやしい音色を奏で、青少年の健全な心を扇情する。
 澪の寝顔に映る無垢が、本能に突き動かされる行為を許容しているように錯覚する。
 閉じ合わさった瞼が微動もしないのを確認して、彼はそっとスカートに手を伸ばす。
 一秒に満たない時間。頭の中で廻る葛藤は実に激しかった。

 そして渦のような思考の果て。彼は捲れたスカートの端をつまみ、そして慎重に、丁重に、本来あるべき形に戻してやった。
 すると緊張が解け、脱力するままにその場にしゃがみ込む。目の前にある安らかな寝顔を見て、淫靡に打ち勝ったのだと確信した。
……確信したのだが。

 ふと無意識に笑みをこぼした彼は、そのまま彼女に顔を寄せ、唇を重ねていた。
 こちらの葛藤など知りもしない寝顔さえ、可愛い。そう思った途端、体が勝手に動いてしまっていた。理性が介入する間も無かった。
 けれども。言葉にし難い罪悪感は、思春期の青少年の身内からすぐに消え失せて、その情緒はひとえに触れ合う口唇の柔らかさと温かさの虜になった。

 名残惜しくもそっと唇を離せば、思いがけず丸く見開いた双眸と視線が交わった。
「…………さと、る、くん……?」
 相対する瞳は、何が起きたのかを処理するように五条を見つめて動かない。しかし、ついと彼が顔を遠ざけると、理解したように口元をわななかせた。

「悟くんって……紳士なの? ケダモノなの……っ?」
 澪は声を震わせ、顔を真っ赤に上気させながら、自分の口唇を隠すように顔を覆った。
 どうにも弁解が出来ない。彼もそっぽを向いて至極無意味な答えを返す。
「……。起きてんなら言えよ」
「だって。今、さっき、風鈴の音が聞こえて……、でもきっと夢なんだろうなって、思ったんだもん……」

 段々と声を小さくする彼女を見て、どこかへ行ってしまった筈の罪悪感が何倍にもなって帰って来た。しかし彼の心は実に天邪鬼で、苦し紛れの憎まれ口しか思い浮かばない。

「つーかオマエ無用心なんだよ。制服着てんのも意味分かんねぇし。傑とかが入ってきたらどうすんの」
「あ、……あれっ、ほんとだ、制服……だ。……でっ、でも、傑くんは絶対に窓からは入ってこないよ……?」

 澪は困ったように口をすぼめた。
「…………あっそ」
 余程そいつの事は信頼していると言いたいのか。たちまち心は不機嫌一色に染まり、立ち上がって背を向けた。
 窓の方へ一歩を踏み出そうとしたその時、後ろから強く袖を引っ張られた。

「ま、待ってよ……っ。……私を試してるの? それとも、頭いいクセにバカなの……!?」
「あ?」
「私、寝る時はちゃんとドアの鍵かけるし……。いつも開けてて無用心なのは……。窓だけ、だよ」
「なんで?」
「…………悟くんがいつでも入ってこれるように!!」

 これこそ青天の霹靂。もはやそれ以上の衝撃だ。空が真っ逆さまに落ちてしまったかのように、大騒ぎする蝉の声が何も聞こえなくなった。

「ほんとは、何となく、気付いてたんでしょ。悟くんなら……もう……」
「………………いや。何にも」
「やっぱ悟くんバカ!」
「ちげーよ! てか紛らわしいんだよ!」
「何が!」
「事あるごとに傑ばっか庇いやがって……。普通そっちが好きだと思うだろ!」
「だから庇ってな………………えっ、そうなの……?」
「俺が好きならもっとわかりやすくしろよ。バカはオマエの方じゃねーか」
「違う! だって、桃鉄二人でやろうって言ったじゃん!」
「はあ? それだけで何が分かるんだよ」
「二日間も二人っきりで! 九十九年完走して抱き合った!」
「二徹のテンションでおかしくなっただけかと思ったわ」
「無断でっ、き、キスしてきた悟くんの事、私、全然怒ってないもん!」
 訴えるように声を荒げる彼女の目の縁が潤んでいた。五条は思わず口を噤む。澪は声を震わせて消えそうな声で言った。
「は……初めてだった、けど……でも私」

 彼は恋愛においていかに自分が稚拙な思考しか持ち合わせていなかったのかを理解した。これ以上の押し問答は彼女に恥をかかせることをさとった。

「ごめん。……俺の方がバカだった」
「……。ううん、私も、ごめんね。言いすぎて。悟くんはバカじゃないよ。最強で天才でかっこいいです」
「そんなあからさまに持ち上げなくていーから」

 彼女の小さい頭に手を置いて、雑に撫でる。
「持ち上げてなんかないよ。ほんとにそう思ってる」
 目に涙を湛えながらも、彼女は許容するようにあえかに笑ってくれた。それがより一層その存在を愛おしくさせる。

 ベッドの上に座り込み澪と横並びになると、彼は今にも縁から零れ落ちそうな涙に指先で触れた。そうすると、少しくすぐったそうに彼女が眦を細めるので、指を伝ってあたたかな雫が滑り落ちてきた。

「なあ、澪。焼肉の奢りより豪華なもん思いついた」
「なに?」
「付き合って」
 澪は面食らったように目を見開いて、口も半開きのまま固まった。

「……分かってる? ゲームとか任務に付き合えって意味じゃねぇよ。彼女になってって意味」
 同じ事を言い直すのは流石の彼も羞恥心を揺さぶられる。面映さにふいと顔を逸らしてしまえば、触れたままの手に、彼女の指先が添えられた。
 たちまち隣からもれてきたのは楽しそうな声だった。
「ふ……、ふふ……。大丈夫、ちゃんと分かるよ」
 横目で彼女に視線を戻せば、笑いを含んだ声とは裏腹に、憂いたような相貌が俯いていた。
「でも、そんなこと、……勝ち負けの賭けにしないで」
「……どういう意味」
「賭けにしちゃったら、どれだけ私が悟くんのことが大好きか、伝わらなくなっちゃう気がするの」

 頬を赤らめて、澪は彼の手を両手で大切そうに包みこむ。俯きがちで恥ずかしそうに、彼女は上目で彼を見つめた。

「だからいいよ、悟くん。もっと他の事でも」
 それは心を許す甘い声音の囁きだった。ともすれば健全で血気盛ん、思春期真っ只中の青少年が行き着く思考は一つしかない。

「じゃあ、エッ……」
「チ以外でお願いします」
「はぁ? 告白オッケーで、そんで何でもしていいって言われたら、そういう流れになるだろ」
「ならないよ! ていうか何でもしていいとは言ってないし! それからっ、まだ全然、心とか、色々……準備出来てないし!」
「準備とかいんの?」
「えっ? いる、でしょ……? 分かんないけど、なんか色々……」
「へー。……なら今はこれで我慢してやるか」

 五条は悪巧みを思いついたと言わんばかりの笑みを向け、サングラスを取ってベッドボードに置く。
 次いで澪の体を包み込むように抱き寄せると、二人一緒に倒れ込むようにベッドに転がった。

「え、っちょ……っと!?」
「ここで一緒に寝る。それくらいは許してくんない?」
「……寝るだけなら……、うん……いいよ」

 体勢を整え、それから少し間を空けて、二人は向かい合って横臥する。
 本当は抱き合うくらいにくっついていたかったが、それこそ彼女が嫌がる行為への歯止めが効かなくなるのを惟てやめた。
 とはいえ、少しくらいは心を許された実感が欲しい。せめてものわがままとして、片手を彼女の腰の上にそっと乗せる。

「これも、いい?」
「……ん」

 鴇色に頬を染め、彼女は頷く。そうして沈黙が生まれるが、しかしどちらも目を閉じようとはしなかった。
 それどころか、澪は眩むように、あるいは妙なるものでも見ているかのように、目を細めた。
 その瞳の奥に悦楽じみたなまめかしさが揺れているように思えるのは、彼の欲が見せる錯覚だろうか。

「悟くんの目、綺麗。……こういうのも、初めてだから……。ちょっとドキドキしちゃうね……」
「…………。煽るなよ」
「え、……ご、ごめん」
「あー……、澪。やっぱこれ無理かも。ケダモノスイッチ入りそう」
「何それ……。……あっ!? 手がっ、な、なんかもぞもぞしてる! 耐えて、頑張れ悟くん!」
「別の悟くんが頑張り始めました」
「わあ、最低!」

 笑いながら澪は彼の手を掴んで、自分の体から離す。けれどもその手を放るでもなく、自分の胸元に引き寄せて、抱きしめるように両手で掴んで離さない。

「捕まえちゃえば、何にもできないよね」
「どうでしょーか」

 我ながら往生際が悪いと思いながら、彼は指先を折り曲げて澪の手の甲を撫でたり、指の間で彼女の指を撫でたり、果ては小指を弄んだりとささやかに抵抗した。
 下らない触れ合いだが、くすぐったそうに無邪気に喉を鳴らす彼女を見ていると、それだけで満たされる。
 にわかに、風鈴が鳴った。
 冷気と湿った熱の混じる風が二人の間に落ちてきた。

「窓、しめよっか?」
「いい。あの音、結構好きだし」
「ん……。それじゃあ、このまま……」

 そうして互いに手遊びし合いながら、次第に二人は眠りの淵に落ちていく。
 先に目を閉じて寝息を立て始めたのは澪で、その寝顔を見ているうちに彼もつられて眠気を受け入れ瞼を落とした。

 陽が沈みだし、蝉と入れ替わるように日暮の声が響き渡る。
 すっかり居所を忘れ去られた携帯が喚き出すまで、寄り添って眠る健全な二人なのであった。