Short Story
金魚の願い、涙珠の罪

1

 金魚鉢の中で、一匹の金魚が紗の裾を揺らすように泳いでいる。
 ガラスに指先を近付けると、金魚はたおやかに体を揺らして近付いてきた。

 私にとって、金魚は愛しさと願いの象徴。
 そして、願いの為に家族も、家も、何もかもを捨てて逃げた、罪の顕現。
 あの日からもう六年も経つけれど、この小さな命が数年毎に潰えるたび、新たな命を向かい入れ、遊泳の姿を眺める。それが日課でもあり楽しみのひとつだ。

「毎日よく飽きねぇな」
 真上から声が落ちてきた。見上げれば、切れ長の双眸と視線が交わった。呆れた声に反して、彼の眼差しはいつものように優しい色を湛えている。
 私は片笑みを返して鉢の中へと目を戻した。

「知ってるでしょ? 金魚、大好きですから。……それに」
 金魚が悠揚に旋回し、尾ひれが水草を揺らす。水の揺蕩う様は、涙に濡れる視界とよく似ている。
「……こうしていると、あの日のことを鮮明に思い出せるから……」

2

――六年前の夏、私達は京都……禪院家に在った――

 午前中の習い事を終え、私は赤と白に染め上げられた紗の着物に着替える。
 長襦袢の色味から帯の生地、髪型から草履まで。小物も漏れ無く不恰好がないのを何度も姿見の前で確認をした。

「……よし!」
 大急ぎで自分の部屋を出た。炎天にも負けず、意気揚々と向かうのは禪院家の本邸だ。
 武家屋敷さながらの広い邸内を脇目に、庭を突っ切って奥へ奥へと進む。橋の架かった大きな池も更に越え、目指すは訓練場間近の屋敷の一角。

 この頃、晴れている日の午後は、決まってこのあたりの回廊で彼が陽を避け涼んでいるのだ。
 外からその一角を回って目探しすれば、すぐに目的の背を見つけた。私は心の躍るままに履き物を脱ぎ捨てると、駆け寄って後ろから思い切り飛びつく。

「甚爾さんっ!」
「……また来たか」
「今、夏休みですから! 会える日は毎日でも会いたいんだもん」
 ぶつかる勢いでしがみついても、甚爾さんの身体はびくともしないし、驚きもない。日陰の廊下みたいな冷めた声を返されても、全部がいつも通りなので何も気にしない。
 私は甚爾さんの正面に廻って、両手を広げて見せた。

「見て! 新しく買ってもらったんです。どうですか?」
「……。金魚みてぇだな」
「ありがとうございます!」
「いや何でだよ」
「金魚みたいで可愛いってことでしょ? 私、金魚大好きなんです。嬉しいなぁ」
「はいはい、それは良かったな」

 甚爾さんは、七つ上の少し遠めの親族だ。再従兄妹だとかなんとかだと言われていた気がするけれど、そんなことは割とどうでもよかった。

 彼と出逢ったのは、遡ることおよそ七年。八つの頃の春だった。
 分家が集う別邸――そう呼称しているものの、その広さは本邸に劣らず藩邸さながら。ちなみに本邸との距離は子供が徒歩で難なく行ける程に近い――に身を置いている私は、初めて訪れた敷地を駆け回るうち、はしゃぎすぎて広大な庭園に迷い込んでしまった。
 いよいよ途方に暮れて橋の上に座り込み、誰かが近くを通るのを待ちながら、この池の中に金魚はいないだろうかと橋の下を覗き込んだら、頭から落ちた。
 運悪く周りには誰もいなくて、叫んでも助けは来なかった。どんどん体が水に埋もれていって、意識を失いかけたその時、私を救い出してくれたのが甚爾さんだった。
 安心と同時に、初めて感じた死への恐怖が込み上げてきて、私は抱きすがって哭泣した。

 今でも甚爾さんは馬鹿にしてくるけど「金魚がいない、金魚がいない」って泣き喚いていたらしい。自分でもちょっと意味がわからない。
 けれど、そんな意味不明な私が泣き止むまで、彼は何も言わずに胸をかしてくれた。

 それ以来、私は一方的かつ熱烈に甚爾さんを好いている。
 何故か周りの大人達は彼の事を随分酷く言うけれど、私は一欠片もそうは思わない。
 私は、禪院家の相伝術式を継いで生まれた。甚爾さんは、呪力を一切持たずに生まれた。ただそれだけの違いしかない。
 言ってしまえば、甚爾さんは呪力なんか無くたって此処の誰よりも強くて聡明だ。
 それなのに、呪術を扱えるかどうかだけで、まるで身分が違うもののように人を扱うこの家の在り方は好きじゃない。

 子供ながらに、私がひとり立ちできるくらいに大きくなったら、甚爾さんと一緒にこの家を出て行ってしまおうと毎日夢を膨らませていた。
 私が大きくなるのを待てずに、甚爾さんはこの家に愛想を尽かして出て行ってしまうかも知れないけれど、後から追いかければいいだけのこと。全部が簡単なことだ。

――親の加護を受け、苦労なく暮らしてきた齢十五の稚拙で無知な感性は、この世界を侮っていた。
 自分の周りには、彼のように優しいものしかないのだと、安心の中に慣れていた……。

3

「……髪、切っちゃったんですね。少し長いの、可愛くて好きだったのに」
「伸ばしてた訳じゃない。切んのが面倒で放ったらかしてただけだ」
「だいぶ暑くなりましたもんね。でも、甚爾さんは今くらいの長さがやっぱり一番カッコいい」
 胡座をかいた足の間に入り込むように腰を下ろして、そのまま甚爾さんの身体に凭れかかった。
「はぁー。まいにち、あついあつい!」
「言ってる事とやってる事が噛み合ってねぇぞ」
「いいんです! 暑くても甚爾さんにぴったりしてたいんです!」
 頭の上から小さい溜息が聞こえてきた。けれど、私は分かっている。どかしもしなければ文句も言わないのは、甚爾さんは別に嫌がってないということを。

「ねえ、甚爾さん。私東京に住みたい」
「何だ急に」
「東京って色んなものがあって、とっても高いビルがたくさん並んでて、それから東京タワーがあるんですよ!」
「行きたくないですか、東京タワー!」と意気込んで振り返ると、甚爾さんは少し目を細めるだけで、黙って私を見つめていた。

……これも、分かっている。
 少し寂しそうな顔をして、それから何も言ってくれないのは、私と約束をしたくないからだと。
 いつもそうだ。彼は「ずっと一緒にいたい」だとか「いつか一緒にこの家を出て行こう」という未来の話題に、何の返事も寄越してはくれない。
 それは、私が子供だから相手にしてくれないだけ。そう思っていた。
 だから魅力的な大人の女性になったあかつきには、きっと甚爾さんは私と一緒にいたいと答えてくれる筈だ、と……。

 だから、立派な女性になる為の最低限の嗜みと両親に言われ習う茶道や華道、書道にお琴などは勿論、学業、それに炊事などの家事、最近では美容に至るまで、気づいたことには何でも真剣に取り組んでいた。

――この時分の私は「自分の未来は不明瞭だからこそ頑張れば頑張っただけ報われる」と、そう愚直に信じていた。

4

 日が暮れて家に帰ると、お父さんが嬉々として親戚の叔父さんと話す声が聞こえてきた。

「約束の日まであと一年だ。先週撮った写真を送ったら、縁談の変更は無しだと回答があったよ」
「習い事やら花嫁修行も熱心に取り組んでるようだしな。まあ澪のあの容姿なら、逐一写真なんて送らなくても何の支障もなかっただろうよ」
「それでも掛けられる保険は幾つでも掛けておきたいんだよ。つい先日、やっと初潮が来たと嫁が言っていたし、世継ぎも問題なく産めるだろう」

(約束、縁談、世継ぎ?…………なに、それ)

 立ち尽くしたまま、障子を隔てた大人達の会話を全て聞いてしまった。
 来年の夏、十六の誕生日を迎えたら、私は顔も知らない人の妻となる為に、この家を出されるのだという。相手の名前も、盗み聞きで初めて聞いた。
 私は、世の中を知らず知識も少ない子供だ。だから相手の家に行き、それから結婚したら私はどうなってしまうのか。この生活がどう変わってしまうのか、具体的なことは、なにひとつ分からない。……けれど。

「…………もう甚爾さんには会えない」

 胸の奥で大切に育んでいたものが、無残に引き千切られた気がした。私は障子を開け放って会話に割り込んだ。

「いやです、お父さん……! 私、そんな人と結婚なんてしたくない!」
「……聞いていたのか」
「ごめんなさい、盗み聞きするつもりはなかったんです……でも」
 私の人生は私が決めたい。そう口にしようとした矢庭だった。
「そろそろ話さなければと思っていたからなぁ。いい機会だろう。ほら、そこに座りなさい」
「はい……」

……私は馬鹿だった。
 落ち着いて自分の気持ちを丁寧に伝えれば、想いを受け止めてもらえると信じていた。けれど、お父さんが私に向けたのは慈愛じゃなかった。
 いかにこの縁談が家系にとって名誉であるかという利己的な価値観だった。
 それを延々聞かされ、そして締め括りには、今後甚爾さんに二度と会うなという理不尽な命令を押し付けられ、私は立ち上がって反論した。

「私は、……自分の事は自分で決めます……!」
「五月蝿い、言うことを聞け! 何の為にこれまでお前に金と労力を掛けてきたと思っているんだ!」
「お父さん……。お願い、聞いて」
「いいか。それでもあの男に会うと我儘を言うのなら、来年とは言わず直ぐにでも向こうの家に嫁がせる。……全く、婚前だというのに、もしもあんなのと間違いでもあったら、たまったもんじゃない」

 視界が急に澱み出して、それから吐き気がした。お父さんがこんなにも声を荒げるのを見たのは初めてだ。大好きだったはずのお父さんの顔が、化け物みたいに見えてしまった。
 それから畳み掛けるように怒鳴られたけれど、何も聞こえなかった。

 覚束ない足取りで部屋を出て、自分の部屋に閉じこもった。
 室内には昼間の熱気が残っていて、素肌に生暖かく湿った空気が張り付いてくる。それが更に気持ちの悪さを助長して、ずっと身体の震えが止まらない。

(私が頑張ってきたのは、全部、全部、知らない人の為だった)

 こんなにも、明日が近付くのを怖いと感じたことはなかった。

5

 食事を摂る気にもなれず、寝付くことも出来ず、深更の時刻になっても私は部屋の隅でうずくまって泣いていた。
 ふいに、水音がしたような気がした。弾かれたように顔を上げて、見上げたのは金魚鉢。……思わず涙が止まった。
 赤と白の愛らしい私の金魚が、底に沈んでいた。
 嫌な予感がした。いつもの寝ている姿とは違う。恐る恐る近付いて、ガラス越しに金魚を見る。体の細部を目を凝らしてみても、全く動いていない。綺麗だった漆黒の目が、白く濁っていた。

 窓から裸足のまま外に出た。
 外気は室内よりも涼しく、草木の近くを通ると、足元に漂う空気が眠りに沈む冷たさだった。
 引き摺るような足取りで辿り着いたのは、在りし日に落ちた本邸の池だ。橋の上でしゃがみ込んで水面を覗く。
 凪いだ池はほとんど音がなく静かで、中を泳ぐ魚の姿は何一つ見えない。
 淡い光を纏う丸い月だけが、静止した水の鏡に浮かんでいた。
 けれど、その美しい月さえも、私を監視する眼のように思えてならない。

(叱られたばかりなのに。……もしもここに来たのがお父さんにばれてしまったら、そしたら私は)

 目に映る全てのものが、恐怖を与えてくる。そんな風にしか世界を見られなくなってしまった自分が悲しい。
……月も花も木々も水面も、何もかもが美しく、希望で輝いて見えていたときに戻りたい。
 じわじわと月明かりの水面が滲み出した。
 
(……少しの時間でいい。今すぐに会いたい。最後に、あなたに……)

「この池に金魚はいねぇつったろ。また落ちんぞ」
「…………とうじさん」
 にわかに背後から声が落ちてきた。いつものように淡々としていて、ほのかな優しさをはらんだ声。嬉しいのか、悲しいのか、分からない。無性に切なくなって、苦しくなった。
「オマエ、何でこんな時間に……」
 ぼろぼろ落ちる涙を拭いもせずに見上げると、甚爾さんの声が途中で止まった。

「……何があった」
 私の傍らに屈み込んだその表情は険しかった。
 少しだけ、本当のことを伝えるのが怖かった。
 けれど声を震わせながら、私は訴えるように途切れ途切れの言葉を繋いだ。

「私、来年……この家を出て。知らない人と、結婚するんだって……」
 彼は少しも表情を変えずに、ただ黙っていた。
「ばかみたい。自由だと思ってたのに、ちがった。…………私の未来は、ずっと前から決まってたんだって。何にも知らなくて、いつもはしゃいでて、……ばかみたい」
 自分の情けなさを口にする程、みじめになって涙が止まらない。喉に力がこもって声も上手く出せない。

「甚爾さんは。知っていたんですか」
 彼はかすかに眉をひそめて、私から目を逸らす。それが肯定を意味していることは、考えるまでもなく明白だった。
「…………。だから、なにも言ってくれなかったんだ……」

 約束をしてくれなかったのは、それが叶わないと分かっていたから。私との未来は有り得ないと、甚爾さんも最初から決めていたから。
 目の前が真っ暗になりそうだった。

「……オマエはまだ知らないだけだ。俺を選ぶことがどれだけ苦痛か。まず今の裕福な生活には二度と戻れない」
「分かってる!……分かっています。でも、貴方に会えなくなる方が、ずっと、ずっと苦しい。どんなに辛くても、大変な思いをしても、それでも私は甚爾さんといたい……!」
 懇願するように、必死で声を上げた。でも甚爾さんは私を諭そうとする眼差しで、冷静な相貌を崩さない。
「私は……っ、会ったこともない人の為に生きてきたんじゃない!」
 私は甚爾さんに縋り付き、袖を強く握り込んで訴えた。けれど、彼の眼差しが少しだけ見開かれたのを見て、手を離す。
「ごめんなさい。……なにも、甚爾さんのせいじゃないのに……」
 これでは、己の思い通りにならないからと、私を怒鳴りつけた父と何ら変わらない。口をつぐんで奥歯を噛み締める。

 その瞬間、脳裏に金魚の亡骸が浮かんだ。
 私があの子にした仕打ちを、今度は私が受けるのだと言われた気がした。他人の意思で金魚鉢に閉じ込められて、飼い殺される。それが私の運命なのだと。
 
「…………私は、死ぬんです。きっと。私が死なせてしまったあの子みたいに、水の底に、ゆっくり落ちて、目が濁っていって、死んでいくんだ……」

 居た堪れず肩を落として項垂れたその時、にわかにそっと背中が温かくなって、それから抱き寄せられた。
 それがどういう意味かは分からない。
 けれど、もうこの匂いも感触も温もりも、これが最後なのだろう。しがみついて無意味に泣くしかなかった。
 私だけが我儘を言っていることも、もうどうにも出来ないことも分かっている。だから、残された道は一つしかないと思った。

――そんな人生なら、今すぐにでも、沈んでしまおう……。

「澪」
 優しい声音が、暗く淀む思考を遮った。考えるのをやめて顔を上げた。そうすると、甚爾さんは私の頬に大きな掌を添えて、涙を拭ってくれる。そして、少しの沈黙の後、彼は口を開いた。

「…………新しい金魚が欲しいか」
「きん、ぎょ……?」
 何を問われているのかすぐに理解が追いつかず、何度か目を瞬かせた。けれど何故か、彼が言葉のままの意味を問うているようには聞こえなかった。
 なんだか甚爾さんが迷っているようにも見えて、とても大きな判断を問われている気がした。
 けれど私は、戸惑いながらもひとつだけ確信があった。
 彼は望んでいるのだと思う。……私が「欲しい」と答えることを。
 彼の胸に顔を埋め、しがみつく手に目一杯力を込めて、必死に願いを返した。

「ほ、しい……。……欲しい……っ」
「……。分かった」
 少しの沈黙を経てそう呟いた甚爾さんの声は、こころもち険しいように感じた。けれど、時を交わさず彼は優しく私の身体を離すと、かすかに眦を綻ばせる。
 その眼差しはうっすらと清艶を帯びて美しく、それでいて安心も与えてくれて、見惚れているうちに涙がぴたりと止んでしまった。

 甚爾さんは私を抱えて部屋まで運んでくれた。幸い、部屋の窓は開けっぱなしのままで、私がいないことには誰も気づいていないようだ。
「もう裸足で外には出るなよ」
「はい……」
それから、ほとんど言葉を交わすことなく、私たちは別れた。金魚の亡骸は甚爾さんが連れて行ってしまった。それが少しだけ、羨ましいと思った。

6

 翌日。やはり家を抜け出たことは誰にも気付かれなかったようで、特に何の咎めもなかった。
 けれど、外出には厳しくなって、習い事以外の用事で部屋の外に出ようとすると理由を逐一聞かれる。この先もこんな状態が続くのかと思うと息が詰まりそうだった。
 甚爾さんには、別れ際にただ「待ってろ」と言われたのみで、具体的な約束は何もしていない。だから交わしたあの言葉の意味はいまだに知り得ないままだ。
 部屋に一人きりでいると不安と寂しさに襲われる。これから自分はどうなるのかを想像すると、ぎりぎりと胸の奥が押し潰されそうだった。そのたびに苦しくて勝手に涙が溢れ出した。

 更に翌日の夕方。お父さんが不在にしているのを見計らってか、甚爾さんが突然私の所に現れた。
「…………お祭り、ですか?」
小さな声で聞き返すと、甚爾さんは頷いた。
 少し離れた所にある神社のお祭りへと、秘密で連れ出してくれるらしい。私は嬉しくて彼に飛び付いて喜んだ。

 深い青へと沈み始めた境内に、橙の灯りを掲げた夜店が無数に並んでいる。周囲に満ちる声はどれも弾んで楽しげだ。
 早速夜店を廻りたいとせがめば、甚爾さんはいつもみたいに仕方がなさそうに笑った。
 射的に挑んでみたけれど全て外したり、綿飴をせがんで買ってもらったものの、食べ歩いていたら口の周りがべたべたになってしまったり、りんご飴を上手く食べられなくて半分以上を地面に落としてしまったりと、私はドジばかり踏む。
 あげく、金魚掬いに挑んだけれど、ことごとくポイを破いてしまい、悔しさに頬を膨らませていると、見兼ねた甚爾さんが一匹だけ金魚を取ってくれた。
 透明な袋の中、赤と白に色付く紗を纏ったような、雅やかな金魚が緩やかに身体を揺らす。

(……これが、二日前の約束と、新しい金魚が欲しいかを訊いた理由なのかな……)
 きっと私を哀れに思って、最後に二人きりで過ごす時間を作ってくれたのだ。嬉しいけれど、何かが変わるかもと期待をしてしまったことを少しだけ後悔した。

 折角の夏祭りに何ひとつ上手くいくことがなくても、隣に甚爾さんがいてくれるだけで、ただ楽しかった。一瞬一瞬が、幸せだった

けれど、これからもこの幸せを望むことは許されない。どうして許されないのか、どれだけ考えても理由は分からないし、納得なんて出来ない。
 だからもう終わりにしなければならない。この心を。彼の傍にいられる、この夏だけの命として。

 しばらくして宵の口の終わりが近付くと、花火が濃紺の空に打ち上がり始めた。私達は寄り添ってそれを見上げた。
 赤、青、緑、橙。色とりどりに濃紺に開く炎の花は、命の鼓動のような音を上げながら、次々に打ち上がっては弾け、朽ち果てるように光を失う。
 空の煌めきに向かって金魚袋をかかげると、水を透かして弾ける輝きがあえかで綺麗だった。
 そして、水の中を揺蕩う可憐な金魚を眺めていると、急に羨ましく思えて涙が溢れだした。

――この金魚がたやすく掬われたように、その手で私のことも攫って欲しい。ずっと一緒にいたい。

 滲んで揺れる視界にあっても、眼前の景色は変わらず綺麗で、それがよりいっそう悲しい。
 次の年、また同じ景色を見たとしても、きっと私には濁った水底のようにしか映らない。景観だけではない。この世界の何もかもが、鮮やかな色を喪失するだろう。

 甚爾さんは私が泣いているのに気付いたようで、優しく肩を抱き寄せてくれた。けれど私の方には目を向けず、空を睨みつけるように見上げていた。
 触れる手に、少し力が篭っているような気がした。

――やがてお祭の喧騒が鎮まり、辺りが夜半に沈む。それから私達は、二度とあの家には帰らなかった――……。

7

 記憶のさざなみに合わせるように、金魚の尻尾が水草を揺らした。
「…………お別れ前の思い出作りのつもりでいたから、まさかそのまま駆け落ちすることになるとは思わなかったなぁ」
 思わず愛おしさが溢れる。
「新しい金魚が欲しいかって、ふふ……。さすがにあの時は、どういう意味か全然分からなかった」
「そりゃ悪かったな」

 後ろから聞こえる淡白な声は、なんだか不貞腐れているみたいで可愛らしい。振り向けば、甚爾さんは感情の薄い面持ちで床に座り直していた。
「恨み言じゃありませんよ。だってあの日、ずっと、ずっと、このまま甚爾さんと一緒にいさせて欲しいってお願いしてましたから」
 私は立ち上がると彼に近寄って、正面から跨るようにして座り込んだ。
 すると、触れ合う部分を汗ばませようとするように、外に響く蝉の声がさらに激しさを増す。

「オマエは夏でも冬でも関係ないな」
「うん。ふやけて溶けても甚爾さんとくっついているのが好き」
「俺は勘弁だ」
 そうは言いながらも、何気なく彼の手は私の腰に添えられている。月日が経っても彼のそういう所は変わらない。変わらなく、愛おしい。

……京都を後にした私達は、東京は郊外のやや辺鄙な土地へと身を寄せた。ここからは東京タワーは見えないし、大きなビルの林立する都会でもないけれど、不自由はない。
 こちらでの生活が落ち着いた頃合いに、甚爾さんは私を東京タワーに連れて行ってくれたし、今でも時々都心に遊びに行くこともある。
 私はこの暮らしに満足と感謝をするばかりだ。
 これまでに私は高校に通わせてもらって、卒業後は非術師の仕事にも就けた。今は少し古めのアパートにひっそりと二人きりで暮らす生活だ。
 六年間、苦労することは確かにたくさんあった。けれど、いつも傍に甚爾さんがいてくれたから、辛く思うことはなかった。
 それにから、両親が私を連れ戻そうとする動きが、今に至るまで何一つ見受けられなかった。……多分、私の知らない所で、もっと多くの苦労を甚爾さんが受け負っているのだと思う。尋ねても適当に誤魔化されてしまって、真意は分からないままだ。
 なんの力にもなれないのは辛いけれど、だからこそ私に出来るのは、甚爾さんを支えることだけではなく、この選択が間違っていなかったと証明することだと信じている。

「いま、幸せです。……とっても」
 頸に手を回して甘えると、彼は仕方のなさそうな笑みを見せて、顔を近づけてくる。
 重なる口唇がひどく熱っぽく感じるのは、茹る夏の所以か、それとも昂り故の錯覚か。どちらにしても、私の身体の熱は彼への愛しさで倍加していくだけ。

――涙と引き換えに罪を犯した夏の日。他人に定められていた私の未来は、甚爾さんが壊し、そして救ってくれた。
この先の生涯、二度とあの家に帰れずとも、家族に忘れられたとしても、構わない。
彼と共に生きる未来が此処にあるのなら、他には何もいらない――

 汗の滲む姿体が合わさるのを、金魚だけが見つめている。