Short Story
My silly lilly

「少し出かけてきます」と、珍しく澪は特に行き先も要件も言わずに出掛けて行った。
 特に何をするでもなくソファーに座りながら、甚爾は彼女の帰りをひとまず待った。
 すると彼女は小一時間程で戻ってきたが、声音はやけに嬉しそうで、笑みを満面に湛えていた。ついでに、後ろ手に何かを持っているようである。
 半ば駆けるように近寄って来たかと思えば、隠していたものを甚爾の前に掲げた。
 大きめの長方形の箱だ。特段華美な装飾は無く白一色。蓋の中心には、ロゴとフランス語らしき名称が、控えめな大きさで記されている。

「甚爾さん、今日はお待ちかねのバレンタインです!」
「今買って来たのか」
「まさか! しっかり事前に用意してましたよ。甚爾さんに気付かれないようにと、先輩のお家に置かせてもらっていたのを取りに行ってたんです」

 彼女は己の有能を主張するように胸を張って見せたが、彼からすれば、わざわざ当日まで隠しておく必要性がいまいち分からなかった。
 チョコレートにもバレンタインにも、大して興味はない。仮にその箱が何日も前から堂々と冷蔵庫に鎮座していたとて、気にも留めなかっただろう。

 にこやかに差し出されるそれを無感動に受け取った。
 すると澪は隣に座り、身を寄せてきた。そしてどこか期待のこもった眼差しで見上げてくる。

「何」
「開けないのですか?」
「後でな」
 箱をソファーの端に置こうとすれば、速攻で抗議の声が上がった。
「何故ですか!」
「俺の勝手だろ。逆になんでオマエがそんなにそわついてんだよ」
「私も食べるからですが」
「はあ?」

 実に厚かましいしい女だ。そもそも自分も食べたいのなら別に買って来ればいい。……しかし、澪の事だ。「甚爾さんと一緒に食べるからいいんじゃないですか」だなんて、さも当然のように抜かしそうである。
 それを想像出来てしまう自分自身にも、彼は悩ましいため息が出そうだった。

 しかしながら、無視すれば更に面倒が起こるのは明白だ。仕方なく澪のわがままに付き合ってやる事にした。
 甚爾が箱を開けるその間も、彼女は真横にぴったりとくっついて、箱が開くのを今か今かと目を輝かせていた。

 開けてみると、まずそこにあったのは箱と同じ大きさの紙が一枚だ。
 何が書かれているのかを確認せず、それを退ける。
 するとその下には、正方形に型取られた一口大のチョコレートが並んでいた。数は二十五粒、それぞれ微妙に色味やコーティングが違う。恐らく全て異なる味なのだろう。
 隣で「綺麗」と感嘆の声が上がるが、やはり彼は無感動であった。

「これはですね、このお店定番のプラリネ、ガナッシュにプラスして、今年の新作八種類も入ったショコラアソートでございます!」

 意気揚々とした紹介に「そうか」と一言返す。
 その返答があまりに淡白だった所以か、澪は一生懸命に、このショコラティエは世界的になの知れた師の元で何年学び云々と、希少性を語り出す。だが当然聞かされている当人は興味が無い。
 取り敢えず適当な一粒を摘んで食べようとした矢先だった。

「ああー!」
「なんだよ」
「それは私が食べたかった……」
「知るか」
 眉尻を下げて訴えかけてくる澪を無視して手に取ったそれを口に含んだ。しかし、彼はにわかに眉根を寄せる。
「…………甘」
「ほら。だから言ったのに。甚爾さん、これを確認しないで食べちゃうから」

 ひらひらと澪が自身の顔の前に一枚の紙をかざす。並びに合わせて、それぞれ味の説明がなされている物だったらしい。
 彼女はそれをまじまじと眺め、次に箱の中身を指差した。

「甚爾さんが好きそうなのは、これかなぁ?」
 口の中に濃厚な甘みが残っているのも相まって、澪が楽しそうに指差しながら歌っているのがやや苛つく。
 そして、選んだ一粒を摘んだ澪は、何を思ったのかそれを唇で控えめにくわえた。眦を細めながら、くわえたそれを甚爾に向かってつきだす。

「ん!」
「……。ああ……。そういうのはいらん」
 あまい睦みへの誘いを完全に無視し、甚爾は指で奪い取って自身の口に放り込んだ。

「むあーッ!!」
 滋味を堪能する隙もなく、いきなり澪が声を上げて彼の太ももを殴り出す。しかも鉄槌打ちを的確に同じ場所へ振り下ろしてくる。当然痛くはないが割と鬱陶しい。

「こんな事で喚くな。口に捻じ込まれてぇのか」
 頭を掴んで上向かせ、適当な一粒を取って澪に向けると、途端に殴打が止む。
 しかし何故か彼女の頬はみるみる内に紅潮し、恥じらう瞳が横に流れた。
「はい……。甚爾さんになら……」
「………………」
 甚爾は深くため息をついた。

 無造作に掴んだ頭を離してやり、少し乱れた髪を整えてやる。
 そして、顎の下に指を添えるように支える。
「……口開けろ」

 たちまち彼女は花が朝露を喜ぶような顔を見せて、小さな口を開いた。
 美しく血の色が浮かぶ口唇に、摘んだそれをはませてやると、埋もれるように、ゆっくりと口の中に入っていく。
 それから二、三度咀嚼した澪は、にわかに顔を渋く歪ませた。

「みんと…………」
 敢えて、である。
 澪が清涼感の強い食べ物が苦手なのは知っている。
 故に先ほど助言された通り、甚爾はきっちり種類を確認した上でそれを与えたのだ。
 目も開けられない程の心底険しい顔つきで、澪は小刻みに身悶えている。
 そこまで嫌なら吐き出せばいい。たが彼女は懸命に口を動かして口の中のミントと格闘している。意地でも食べきろうとする理由は、聞かずとも分かっているつもりだ。

 そんな思惟を巡らせてしまえば、だんだんと澪の必死な姿が愛らしく見えてくるので困りものだ。彼は緩く笑みを浮かべた。

「可愛いな。オマエは」
「んぐむ……?」
 澪が聞き返すように片目を開いたその折柄、身を寄せて口付けた。
 味の程は知らないが、香ばしい香気に紛れた爽涼は悪くはない。
 唇を離すと、驚きと呆けが混ざった面持ちの澪と視線が交わる。まるで夢を見ていると言わんばかりに彼女は目を何度も瞬かせ、小さな音を立てて嚥下に喉を震わせた。

「か……わいい……? 甚爾さん、今何て言ったんです……?」
「何も」
「嘘! ワンモア!」
「言わねーよ」

 するとたちまち彼女は悔しそうに下唇を噛んだ。そうかと思うと、上体を崩して甚爾の膝に顔を埋める。

「変な顔しててちゃんと聞けなかったあぁ……っ!」
「残念だったな」
「もう一回言ってくれなきゃいやです!」
「ミント二十グラムを十分以内に食い切ったら言ってやらんこともない」
「それはやだぁ……!」
「だったら諦めろ」

 澪はそれも嫌だと首を振ってぐりぐりと額を足に押し付けてくる。
 我儘ばかり言うその頭を緩く撫でてやれば、膨れっ面がこちらを見上げてきた。
 仕方なくご機嫌取りに、箱から新たに一粒を出して澪の口元に近付けた。だが口唇は訝しさに固く閉ざされてしまっている。

「……それは何ですか」
「パッションフルーツのガナッシュ」

 次の瞬間、瞳を期待に変貌させた澪は、すぐさまそれを奪うように口の中に収めていた。
 本当に切り替えが早く、そして純粋な女ある。数秒前まで疑心暗鬼だった癖に、簡単に甚爾の言葉を信じてしまう。
 そんな気性を普段ならもう少しからかってやる所だ。
 しかし、もう既に真逆の情緒をかき立てられている彼は、嘘を用いず、尚且つ澪の喜びそうな選択をした。

 予想通り、彼女は上機嫌に甚爾を見上げていたが、ふと何かを思い付いたように身を起こす。
 次いで座面に膝立ちになったかと思うと、甚爾の両頬に手を添えた。
 何をしたいのかはすぐに理解した。拒む理由はなかった。むしろ、この流れを多少期待していたとも言えよう。
……それ故だろうか。先程よりもずっと芳烈に鼻腔へと匂いが充満しているようだった。

「私の好みを分かってくれているご褒美です」
「安い褒美だな」
「ではお高いご褒美とは?」
「知りたいのか」
「はい。……いますぐ、教えて」

 側から見れば、なんと馬鹿な二人組かと嘲られるだろう。彼自身も、冷静な思考が自己を俯瞰したら間違いなくそう思う。
 しかし、今日くらいは滑稽を楽しむ己を受け入れてやる事にした。