Short Story
吐く濁


 人間が生きる意味とは何か。彼にとってそんなものは人類が逐うべき難解な疑問などではない。愚問だ。
 もしも馬鹿面下げてそれを訊いてくる輩がいたならば、さっさとくたばれと蔑む位には不愉快な問いである。

 彼……伏黒甚爾は故人だ。しかし今、現世にて当然のように生者として在るのは白主澪という一人の少女の力で甦生したところに因る。理由だとか背景はさておき、彼女はその力を降霊術だと言った。
 しかし、これを一般的に認知されている降霊術と同列の扱いにしても良いのかは甚だ疑問だ。
 彼の身体には、復活の代償として生き血を啜らねばならないだとか、夜の闇の中でしか生きられないだとか、はたまた生を享受できる時間に限りがあるだとかいう死霊の咎は一切ない。紛うことなき人間として彼はここに在る。
 人が踏み込める領域を超越し、自然のあるべき摂理から逸脱した業。完璧な甦りの施しを身に受けた彼こそがそれを最も強く理解している。
 彼に於ける生きるという概念は崩壊していると言えよう。

 身体機能の糧を取り込む過程で溜まった異物を排出する。生物はその単調で自律的な作業を繰り返しているだけで「生きる」という単語は、生命活動を維持すべく自然的に起こる循環の簡素な言い回しに過ぎない。
 故に意味を求めようとする意味が無い。

「……甚爾さん。生きるとは、一体どういう事なのでしょうか」
 夕方頃には戻ると告げて出掛けたはずの澪が、家を出て一時間も経たぬ内に戻って来ると、甚爾の前へやってきて開口一番にそう言った。
 最大級の侮蔑の返事を投げたい衝動を一旦しまいつつ、ソファーに座ったまま彼女を見上げる。淡白に「知らん」と答えようとしたが、彼女の口唇に目が止まると思わず口を閉ざした。

 脣に赤みが全く無い。肌と殆ど変わらない色をしている。元より色白なのも手伝って、その姿は自立する奇妙な死人だ。俄かに信じ難い相貌だった。
 いつも見慣れた彼女のそれは、本来ならば薄い皮膚を隔て血の色を淡く映す。まるで最も赤を愛らしく魅せる薄皮の厚さを識っているのかと思わせる色付きだ。幾度も見つめ、触れてきたものなのだから見間違える筈がない。
 忽ち脳裏に浮かんだのは、この色は彼女の色ではない偽物ではという予想だった。恐らく化粧で脣に肌色を乗せたのだろう。
 思い返せば出掛け前の澪の顔を見ていない。時間が押していたのか、忙しなく部屋を行き来していた彼女は、甚爾が一瞥する間もなく通りの良い声をリビングの入り口から飛ばして行ってしまったのである。
 動揺は早々と冷めて黙り込んだ。しかしあまりにも不自然なその色味は、どうも目に付くので言及せざるを得ない。

「その死にかけたツラは何だ」
「……うう、やっぱり。甚爾さんにも言われた……っ」
 悔しそうに表情を歪めて頭を抱えるのが花の朽ちるよろめきに錯覚し、甚爾は咄嗟に立ち上がると頽れそうな肩を掴んで支えた。すると小さな身体は胸に凭れ掛かってきて、細々と呟いた。
「…………メイクに失敗しました」

 やはり。という理解と共に、一瞬にしてこれを慰めてやらねばならない面倒臭さと呆れが胸懐に満ちる。
 案の定、彼女は腰に腕を回して離れようとしない。渋々話を聞いてやった所、先日観た海外ドラマの女優の化粧が大層美しかったので真似をしようとした結果、死相が出来上がってしまったのだという。
「私、これぞ完璧と思ってドヤ顔で街を闊歩してたんです。ひとりウォーキング・デッドです……」
 会ってきた友人にも出会い拍子に体調を心配されたらしい。あまりの痛切な雰囲気に「メイクに大失敗しました」とは言い出せず、家の近くまで送り届けられ現在に至るという事だ。
 それであの愚かしい問いを吐くに繋がったのだろう。ほとほと仕方のない女である。

 さめざめと泣き濡れるような落胆の姿を見下ろしていると、ふと伏せる睫毛の影がかすかに揺れた。その矢庭、言いようもない胸懐の騒めきと心底の細濁りをさとった。
 これは澪と共に過ごすようになってから頻繁に起こる異変である。この濁りは純粋な白であり、濃さを増すにつれて彼の心を眩ませるのだ。
 それは一体いつからだったか、初めて起きたのは何が端緒だったかはもう覚えていない。ただ、この現象は澪に接する間でしか起こらない。

 甚爾が嫌う愚問を投げ掛けておきながら唯一心中に濁りを生むこの少女は、どんな存在かと問われても答えを明示出来ない。解明不能の存在である。
 彼としても、恨み厭うているわけではないが、かといって愛しているとも表現できない。これまでに抱いた事のない複雑な情ばかりが浮かぶので、とうの昔に不明確の追究は遥かへと放り投げてしまった。
 ただ、常日頃「笑顔が私の標準装備です」と豪語する彼女が些細な事で気落ちする様を見ていると、次第に見慣れた愛嬌が慕わしく思える。

「澪」
 呼べば心許ない色を湛えた瞳が上目にこちらを見遣った。頭に手の平を添え軽く撫でる。そんな大した事のない行為に、澪は面映そうに笑みを返してきた。
 また濁る。濃さを増せば忽ちそれは小さな衝動に変わって、考える間も与えずに彼の体の主導を奪ってしまう。
 細い肩に手を掛け寄り掛かる身体を起こす。片方の手で彼女の片頬から顎下までを包み込み上を向かせた。澪は不思議がって目を瞬かせているが、彼の殉情は推察の余地を与えない。身をかがめ、脣を重ねた。手の内で小さな震えを感じたが、構わず頬を覆う手を後頭へ滑らせ、細く柔らかな髪の間に指を梳き入れるようにして頭を掌に収めた。
 そうしてやっと濁りの失せるのと同時に、自由が戻ってきたので口唇を離す。向き合う表情は驚きに染まっていた。

「さっさとそれを落としてこい」
「……は、い」
 調律の狂った機械が如く振り返った澪は、右手足を同時に前へ出しながら、放心状態の典型とも言える動作で洗面室に向かっていったのだった。

 部屋に戻ってきた彼女は小走りに彼の許へ寄って来て、ソファーに並んで座り込んだ。横目に見遣ると何故か正座だ。更に彼の真横に正面を向け、躊躇うように俯いていた。甚爾が無言のままでいると、澪は辿々しく指先で彼の袖を控えめに引き、消え入りそうな切ない声を出した。
「甚爾さん。……もういっかい」
「……。それじゃ出来ねぇだろ」
 意味を察したらしく、ぱっと上げた彼女の顔は分かりやすい期待が浮かんでおり、十分過ぎる程に血の色がのぼっていた。しかし甚爾と目があった途端、気恥ずかしそうに逸らす。
 今更恥じらう事だろうか。いつまでも生娘さながらの反応をする女だ。
 身内で悪態をつく甚爾であるが、紅潮の狼狽を何度見せられたとて苛つくでもなく、結果として毎回心緒を揺さぶられてしまうのは彼の方だ。かつてはそれに納得出来ない時分があったが、あがいても無駄だと諦めたのは、いつの事だっただろうか。

……もうどうでもいい事だ。
 とうに過去へ捨てた思考は振り払い、乞われるままに彼女の望みを叶えてやる。
 普段の色を取り戻した口唇は、不意打の先程より随分と温かい。重なりを解けば、澪はこころもち満足そうで柔らかな目を真直ぐにこちらへ向けてきた。肌にほのかな上気の余韻を残しながらも、屈託ない頬の緩みを見せる。

「単純だな」
「私がずっとしょげていたら、甚爾さんが悲しむかと思いまして」
「逆だろ。静かになって清々する」
「まるでいつも騒がしいみたいじゃないですか!」
「早速騒がしくなってんじゃねぇか」
「むっ……」
 口をつぐんだ澪は、負けを認めたくなさそうに甚爾を見遣った。
 他愛無い言葉の交わし合いの中で甚爾が本心を隠し敢えて突っかかるのは、喜怒哀楽を豊かに表現する彼女の心模様を忍びやかに楽しんでいるからである。当然そんな内心を澪に吐露した事はないし、今後も覚られるつもりはない。
 しかし不意に、澪は抗議の表情を柔らかく崩し、指先で甚爾の口端に触れた。

「ほら。私が元気になれば、甚爾さんも笑ってくれる」
 嘲笑っているだけだ、という一言は音にはならずに咽頭の奥へ下っていった。
 まるで彼の心の全てを理解しているかのように、澪が眦をあまく優しげに綻ばせたからだ。

 普段は無邪気で無防備でなんの気苦労もなさそうにしている癖に、時折こんな微笑を見せる。もしくは彼自身が都合良く見紛っているだけかも知れない。けれど例え虚構だったとしても、彼女が心から笑んだのならば何だって構わない。そう感じた途端にまた白が濃さを増した。
 いよいよ身内で抱えきれないと、無意識に甚爾は手を伸ばした。

 澪の柔らかな頬と横髪の隙間に手を差し込む。すると彼女は触れる手の甲に自分の手の平を添えながら、寄り添うように首をかすかに傾げた。掌の体温が懐の奥を燃え滾らせんと一直線に向かってくるようだった。
 彼女の眼差しは、艶かしい衝動を胚胎しながらも、慈愛めいた安穏を孕んでいる。
 どうして相反する情を綯交ぜた目色を生みだせるのかが分からない。瞳の奥に隠れた不可解な情動に触れたい。姿体の全てを余す事なく暴きたい。

 しかし、どれだけ和肌をまさぐり本能の奥へ受け入れられようとも、彼の望みが満たされた事は一度もない。恐らくはこの先も永久に。
 戯曲の哀しい結末を理解していても、彼は深々と白んだ濁りが衝き動かすままに口付けた。彼女を座面に横たわらせ覆い被さり、何度も何度も脣を重ね合わせる。白濁を移し睦む。
 こうして一方的に移される情がどんなものなのか、あまつさえ、ただならぬものを移されている事さえも、きっと彼女は知らないのだろう。
 だからこそ、飽きもせず幸福そうに甚爾を受け入れるのだろう。

 澪は少し温度の低い指先を彼の頸に添え、柔らかな手つきで髪を撫でてくる。折角吐き出せたというのに、彼の底は再び湧き上がるものを感じていた。
 言葉を吐き、欲を吐き、幾度繰り返しても終わることのない渇望。深みへ落ちている筈なのに、心底の白は眩さを生み、彼を惑溺させていく。
 触れる肌理は、もっと傍へと求め掌に吸いつくようで、誘われるままに手を滑らせ次いで唇を寄せれば、どこか楽しげに澪の声は可憐に弾む。その楽悦の表情と眼差しのなまめかしさを確かめようと顔を上げ、交わった視線の先、あえかに和らいだ清艶な眼に、彼は白の光を見た。

 ゆくりなく、大いなる謎の断片が剥落した。
 身内に湧き上がるこれが白いのは、濃くなるにつれて眩んでいくのは、元より澪から与えられたものであり、そして澪の内を通り巡るからだったのだと。
 長らく不可解だった。何故、淀むでもなく滾るでもなく、そして赤でもなく黒でもなく、潔白と違わぬ濁りを感じていたのか。
 ようやく疑問が解けた。澪が何の躊躇もなく甚爾を受け入れるのは、何も知らないからではなかった。自分が注ぐものと同じものを彼が移し返そうとしているのを理解していたからだったのだ。

 だがそんな小さな解決を得たところで、この行為自体は一体何の意味を持ち、何を生み出せるのか。やはり答えなどありはしない。
 容易く言語化できる解答など必要ないだろう。いっそ永遠に解らないままでいい。
 ただ一つ明らかにできる答えは、延々と白濁の交わし合いは続くという事だけだ。飽きるまで、或いは互いがくたばるまでこのいとなみが赦されるのならば、それだけで満足だ。

 もしも彼に人としての生を感じる瞬間があるとすれば、与えられた白の濁りが深まり、彼女にうつろう刹那の時だ。これが彼が生きる時だ。
「……澪」
 身を寄せ、口移しするように囁く。彼が吐く音に色を宿せたのなら、恵愛の緒たる権化を示すこの名は如何なる言葉よりも白く濁り、そして眩む。

(2021/09/29)

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