Short Story
ではまた夕暮れがむらさき色の日に

 澪が窓際ではしゃいでいる。しきりに「甚爾さん、甚爾さん」と呼ぶので、渋々彼はソファーから腰を上げて隣に行った。
「空が紫ですよ!」
 言葉の通り、薄暗い雲に覆われた空がやや赤みの強い紫に染まっている。しかしお世辞にも鮮やかとは言えない色味の様相は不吉の気配を胚胎していた。すると見計らったように背後から、台風が接近しているので海や河川には近付かないように等と、注意を促す予報の音声が聞こえてきた。
 しかし災害を予兆する空を見上げる隣の瞳はどこか楽しげである。
「何だか不気味ですね。終末の景色みたいじゃないですか?」
 屈託ない笑顔を向けられたものの、何が嬉しいのか理解に苦しむ。だが返答が無くとも彼女は気にもとめずに続けた。

「このまま、全部吹き飛んでしまったらいいのに」
 その目は子供さながら真剣に輝いている。きっと頭の中では幼稚なアニメのように人や建物が物理法則を無視して飛び回る景色が描かれているに違いない。果たしてこいつは本当に成人しているのかと猜疑心が生まれる発想だ。
「甚爾さんは頑なに飛ばされなさそうだから、私はしがみついていようかな」
 そうしたら最後に私達だけが残りますよね。と衒いもなく言ってのける。何の企みも憂いもなく、ひとえに二人きりの世界を楽しもうと誘う微笑だった。

「ねえ甚爾さん。私を離さないでいてくれますか」
「さあな」
 淡白に返した甚爾は窓に背を向け元の場所に戻った。意味があるようで無い彼女の戯言にはもう慣れたものだ。相手にせずとも問題ない。
 予想通り澪は全く拗ねる様子もなく付いて来た。そして横には座らず、向かい合わせに膝の上へと乗ってくると、軽く背を反らし細い腕を彼の首に回しながら身を寄せた。

 彼女は秋の台風に似ている。
 突然甚爾の前に現れ、突拍子もない言動で情緒をかき回し、深く根付く偏向を駆けるような速さで勝手気ままに破壊し尽くした。
 天気の如く何にも縛られないこの女を繋ぎ止めていられる訳がない。むしろ台風のような存在のままでいて欲しいとさえ思う。

 こんな風に彼の頭に抒情的な文学崩れの思考が浮かぶようになってしまったのも、澪に全てを乱された結果であろう。
 彼女に侵された気色の悪い所感を余す事なく述べるなら、雲が薙ぎ払われて青々と晴れた空や、湿気を蹴散らした為に涼やかに吹く風は、悪くない。
 彼女が彼女らしく在るために遥かへ行かねばならないのなら、どこにでも去ってしまえばいい。そして季節が過ぎた時、暮色を紫に塗り変えながら、派手にこの心緒を荒すべく平然と帰ってくればいい。

「……マジで気色悪ぃな」
 自嘲の含み笑いを滲ませた途端、澪がぱっと体を離し頬を赤らめて不服をあらわにした。どうも自分に言われたと勘違いしている様子だ。
「何が何でも離れませんからね!」
「いいぜ。じゃ一緒に風呂入るか」
「おあっ……、では、わたくしはこれにて……」
 緩々と首に回した腕を解きそそくさと膝の上から降りようとするのを彼はすかさず腰を抱いて引き留めた。
「たまにはいいだろ」
「わ、私は! お風呂にはゆっくりまったり入りたい派なんです!」
「だから?」
「甚爾さんと一緒だと、……その。変なこと、してくるじゃ、ないですか……」
 澪は口を小さくすぼませながら語尾が殆ど聞き取れない声で呟く。みるみるうちに耳まで紅潮させると、ふいと顔を逸らした。

「何だよ。変なことって」
 言ってみろという意を込めて、甚爾は手の平を彼女の顎の下に滑り込ませ両頬を掴んで自身の方を向かせた。澪は抵抗はしなかったが、代わりに困り果てて懇願するかのような瞳を向けてきた。
「甚爾さん……」
 あどけなさの残る目に映った光が小さく揺れている。これ以上苛めれば今にも泣き出してしまいそうな目色だ。
 本当なら堪えきれなくなる限界まで揶揄ってやりたいところだが、今回ばかりは折れてやらんこともない。そう思いながら甚爾は掌の力を緩めた。
 本人は一切認めるつもりはないものの、彼は専ら澪が真直ぐ向ける哀の眼差しに弱いのである。

 しかしながら、優しく引いてやりはしない。時にはこの身を振り回す台風を翻弄しても構わないだろう。
 甚爾は澪の安堵の表情を見逃さず、唇を柔く食んだ。
 気抜けした彼女の唇は容易く中へ侵入するのを許してくれたので、口腔の最も湿るものを下から絡めるように舐めた。
 腕の中の身体がくぐもった声を上げて強張るのを感じながら舌を睦み合わせる。すると求愛に応えるように彼女の滑らかなそれが動き出した。
 だが、もつれ合いが互いの口唇の境に差しかかった途端、彼は徐に顔を離す。次いで軽く突き放すように澪の姿体をソファーに転がし立ち上がる。
 疑問に染まって瞬く瞳を見下ろし、大層意地悪く笑んだ。

「また後でな」
「え。……あ、と……?」
 つかつかと廊下に向かっていく最中、後ろから澪が懸命に何かを訴えていたが「風の音で聞こえない」と適当に返してドアを閉めた。

(2021/09/23)

「彗星図鑑とタルトタタン」様 提出作品