Short Story
Downright Dirty

1

 昨夜買い置いていた惣菜が見つからない。そう思いつつ、甚爾はそれをどこかへ仕舞った彼女に所在を訊ねようとするも、当人の姿もまた見当たらない。
 後で訊けばいいかとソファーに向かった時、テーブルの上に見慣れないものが置いてある事に気が付いた。
 手紙だ。特に何の装飾もないただの白い封筒で、表裏を見ても、宛名や差出人らしきものは何も書かれていなかった。封もされておらず、開いてみると丁寧に三つ折りにされた便箋が一枚だけ入っていたので、取り敢えずソファーに腰を下ろし、目を通す事にした。

『甚爾さん。
“分からぬは夏の日和と人心”ということわざをご存知でしょうか。似た言葉に”女心と秋の空”なんてものもありますね。
天候に限らず、例えば木の葉が若く瑞々しい色から鮮やかに命を燃やす色へと変わるように、自然から生まれた私達人間の心も、ふとしたきっかけや時の経過で容易く移ろうものです。
聡明な貴方ならもう私の言わんとしている事はお分かりでしょう。

ですが私の過ちについて、許しを乞うつもりはありません。私の心変わりを貴方が止められないように、貴方の感情が動くのを私が鎮められる筈がないのは承知していますから。
こんな私が言えたことではありませんが、本当に人間というのは愚かな生物で、溢れる好奇心に、欲に、飲み込まれてしまった結果がそれなのです。どうしても、抗えなかったのです。
そして私は更に愚かしいことに、揺れた心緒がもたらした結果に少しも後悔をしていません。むしろ満たされています。

貴方はこんな身勝手な私に何を思うでしょうか。怒りを抱くでしょうか、嘲笑うでしょうか、それとも呆れるでしょうか。
私には知る由もないことですが、ただ一つ確信を持ってお伝え出来る事があります。
今、貴方が失ったものは、どれ程時間が経ったとしても、再び手に入れられるでしょう。揺るぎないこの未来が、なるべく早く貴方に訪れるよう切に願っています。』

最後に、手紙は「追伸、」で途切れていた。

2

「…………甚爾さん」
 読み終えたと同時に、真横から澪の声がした。しかし特に甚爾は驚きもせず、便箋から声の主に目を向ける。
 実の所、彼女の姿は確かに部屋のどこにも見当たらなかったのだが、正確には姿が見える所に居ないだけでこの家にはいたのである。具体的にはキッチンの収納の中だ。
 甚爾はそれを始めから分かってはいたが、一体何がしたいのか訳が分からないので放置していた次第だ。

 そして手紙を読んでいる途中にも、澪が収納から出てきた事、それからなるべく視界に入らないようそろそろと静かに近寄って来ていた事にも、彼は気付いていた。
 敢えて気付かぬ振りをしていたのは、突っ込むのが面倒臭いからだったが、たまには澪の奇行に付き合ってやってもいい、という気紛れが僅かに生まれていた事も否定は出来ない。
 しかし、澪が手紙で述べた「過ち」とやらには言及するつもりである。

「……食ったな」
「食いました。大変美味でした」
 手紙の内容は、かなり紛らわしい文章だったが要するに「甚爾さんが昨日買っていたどて煮が美味しそうだったので食べてしまいました。美味しかったし後悔してません。食べたかったらまたあのお店で買えば無問題ですよね」と長たらしく述べていたに過ぎない。

 罪をあっさり白状した澪は、深々頷きながら「あの明らかにこってりな見た目につい誘惑されてしまいましたね」と悪びれる様子はない。
「で? これで弁明は全部か」
 澪の眼前で紙をひらひらと振って見せると、彼女は自信満々な面持ちを見せる。
「いいえ。まだ終わりではありませんよ」
 そう言って彼女は便箋をさりげなく避け、膝立ちで彼に半ば跨る格好で正面に移った。やや落としがちな視線を保ちながら目を妖しく細め、色付きのいい口唇を緩く湾曲させた。

「追伸」
 と、彼女は顔を寄せながら囁き、口付けた。その柔らかな感触はすぐに一旦離れるが、角度を変えて再び戻ってくる。肩に置かれた澪の手は頸へ滑り行き、応えて甚爾が閉口を緩めると、触れるだけであった口唇は忽ち深く重なった。

3

 ささやかな睦みを終わらせ唇を離した澪は、嫋やかに笑むと、甚爾の膝の上に座り込んで甘えるように首元に撓垂れかかる。次いで猫が見せる仕草のように頬を擦り寄せた。
 普段の彼ならば、じゃれついて誤魔化すのを許さず冷淡に「とっとと同じものを買って来い」で済ませただろう。しかしその内心は色気の無い選択を拒んでいた。詰まる所、今回は甚爾の気紛れに付け込み上手く情緒を煽った澪の作戦勝ちだと認めざるを得ない。

 しかし、潜在的に勝ち負けに拘るきらいのある彼であるから、せめて表面上でも自身の敗北を有耶無耶にしたい。
 寄り添う澪の背に指を添え、背骨に沿って這うように下から上へとなぞり首筋へ抜けていく。すると、彼女は高い声を短く上げて、上半身を仰け反らせた。
 密着する身体が離れた隙に、細い肩を掴んで真横に向かって軽く力を込めると、容易くその身体はソファーの上に転がった。そのまま組み敷いて優越の景色を眺める。

「これで丸く収まると思ったら大間違いだ」
「ではどうしたら丸く収めて下さいますか」
 決して口には出さないが、甚爾は澪を許容し、加えて暫く澪の訳の分からない遊びに付き合ってやった。それを引き合いとして、負けた勝負はさっさと折り畳み次は根比べにもつれ込むつもりだ。

「俺の気が済むまで付き合え」
 彼が挑発的な面持ちで相対する小さな頬をひと撫ですると、彼女は応戦の受諾の如く眦を清艶に細めながら甚爾の腰に手を回す。
 だがその勝負に関しては、どれだけ悠然としていても澪が早々に根を上げる結末が決まり切っている。
 「追伸」だなんて後付けの締め括りに嬌態を選んだ事を心底悔やめばいい。そう思いながら、彼はまだ余力の満ちている瞳に近付いていった。

(2021/07/23)