Short Story
ようこそわたしの楽園へ


 甚爾を眠りの淵から引き上げたのは、右の口端にぴたりと触れた体温であった。誰の仕業であるのかは容易に想像がつく。

 どうやら軽く出掛けると言った同居人を待ちながらソファーで横になっているうちに眠りこけていたらしい。
 在りし日を思えば随分と平和へ零落したものである。かつての彼からしたら他人に触れられるまで気付かぬ程深く寝入るなど、天地が一変しても有り得ない怠慢だ。
……もとい。今ではない過去、僅かな一時だけなら、驚天動地を超えた状況に身を置いていた事もあった。そして、それは堕落ではなく安息であると教えてくれた人があった。しかし、甚爾に平穏の時を齎した人物は過去と現在では異なる。
 彼に瞬く間の眩しい幸福を与え、そして彼が唯一最愛に位置付けていた初めての存在はもういない。その人を失ってから随分と長い年月が経つ。
 以前の甚爾は幸福が再びその身に訪れるなどとは一欠片も思ってはいなかった。二度と手に入らないと分かっていたので無意味に切望するのはやめて、真の頽廃へと身を落とした。

 そして現在に至り。口の端に触れるもの……恐らく指であろう。その主にして、彼へと止めどなく愛だの慈しみだのを顕在的にも潜在的にも押し付けてくる女、白主澪と出会った。
 だがこの女が今の最愛かと問われると甚だ疑問だ。というのも、この女は冷静に考えれば少しも彼の気性とは交われそうにない面倒で強引で厄介な性格だからだ。
 それにまんまと絆され傾いてしまったのは、一体いつからで、何が理由だったのだろうか。
 認めたくないが故に延々と問答を繰り返した日々もあったが、彼にとってはもうどうでもいい事だ。

 少しも離れる気配のない彼女の指は、皮膚の感覚が麻痺しそうなまでに微動もしない。互いの体温を移し合って中和しているような心地さえある。そのまま放っておけば、鼓動さえもいつか同じ調律を鳴らし始めるのではと、実に柄にもない気色悪い錯覚が生まれた。じわじわと脳内を支配し始める理解不能な知覚を一旦切り離すべく、目を開くより先に口を開き触れる違和を再認識した。

「澪」
 口唇の動きに合わせて僅かに彼女の指が動く。しかし、やはりと言うべきか離れてはいかない。返答もなければ何をしたいのかもよく分からない。
 澪が触れている位置には、とうの昔に渇き切った小さな傷がある。因習を好む連中より拷問紛いの当て付けの果てに付けられたものだ。
 大した治療も施さなかった皮膚の上には跡として蔑視の記憶が残ってしまっているが、さして当人は気に留めておらず、例えば当時の記憶に苛まれるだとか痛みの残滓に苦しむという弊害もない。

 今更この傷の何が彼女の気を引いたのか。
 戻ってきたのに甚爾を起こしもせず、密かに傷跡に指を当ててひたすら静止するという奇行は実に澪らしい。しかし「らしい」と思いはするものの、意図は不明である。本人に聞いた方が早い。どうせ予想したところで当たりはしない。

 目を開けてまず映ったのは予想通り、澪の姿である。屈んでいるのか視線の高さは横臥する甚爾と揃っている。対面の双眸が嫋やかに細められた。
「ただいま戻りました、そしておはようございます」
「何してんだオマエ」
「甚爾さんがお目覚めになるまで、痛いの痛いの飛んでいけって念じていたんです」
「……馬鹿か。こんなもん未だに痛え訳ねぇだろ」
 相変わらず彼女は甚爾の感覚より斜めにずれた返答をする。冷淡な誹りを返す甚爾だったが、澪は特段堪える様子もなく「プリンを買ってきたので食べませんか?」と至極呑気に問うた。

 対して彼は何も言わない。その反応は彼にとってはごく自然で、別にどちらでも良かったので無言だったに過ぎない。
 大概そういう反応をすれば、澪は赴くままの行動に甚爾を巻き込む。否、仮に拒否しても問答無用で彼女は巨大な緩い渦の如く巻き込んでくる。ある意味、甚爾は無反応を返して身を委ねているとも言えよう。

 しかし、離れていく指先が視界に映った途端、彼は衝動的に遠ざかりかける手首を掴んでいた。
 是非の判別がつかない甚爾の行動に、澪は小首を傾げて疑問の眼差しを向けたが、何より甚爾本人が突然の欲望の出所も所以も、正体を見極められずにいた。
 けれどその胸懐は、訳もなく不可解の心任せに受容的だった。
 彼は視線を返しながら拳の力を緩め、包む手のひらを手の甲へ滑らせる。先ほどまで傷跡に触れていた人差し指に向かって指を這わせ、身動きできないように絡めて捕まえた。容易く折れてしまいそうな細さで、肌理は柔らかい。

 互いの双眸を交わらせたままに、繊麗な指先にある爪が丁寧に整えられているのを指の腹で弄り確かめる。
 すると澪はほんの少しの動揺を瞳の奥へ隠したように瞼を震わせた。
 時折こんな他愛のない肌の会話を交わす事があるのだが、澪は下手くそな欺瞞で情動を遮ろうとするのが常だ。必ず見抜かれてしまうのを分かっていて、まるで子供が同じ遊びを何度も何度も繰り返すように、飽きもせず宝探しをさせようとする。
 甚爾もまた、彼女に付き合って、分かり易い隠され方のそれを何度も何度も探し当ててやるのである。

 徐に彼は自身の口元に澪の人差し指を寄せ、軽く唇に押し当てた。彼女の指先は傷跡に触れていた時よりも熱が籠っていて、指同士で触れるよりもずっと、柔く感じる。
 間近で短く声を押し込める音が聞こえた。反して変わらず澪はきっちりと口を結び、瞳に本心を映そうとはしない。

 ならば、と彼は僅かに口唇を開く。指の腹より先、皮膚が薄く熱を孕んで赤みを帯びた部分を緩く食む。
 いよいよ観念した澪は、堰き止めた水が流れ出すように感情を露わにした眦を細め、くすぐったそうに喉の奥で笑った。
 取り止めのない戯れ合いの終わりの合図として、彼が指を解放してやると、澪は気恥ずかしそうに視線を逸らす。引っ込めた手を胸元に寄せ、反対の手で甚爾に捕まっていた指をひどく愛おしそうに撫でた。

「指で、満足ですか」
「満足だ」
 淡白に返すが実の所、体の自然的な反応としての淡い熱は芯まで冷めてはいない。
 だが、決して見栄ではない。彼にとっては確かに満足に違いなかった。
 怠惰で淫靡めいている意味のない遣り取りだろうが、どこまでも尋常一様で刺激もない平穏な会話だろうが、ひとえに中心に“それ”さえあれば他には望まない。今以上を求めるつもりはなかった。

「…………。嘘つき」
 けれど、清艶に笑む眼差しが包含する甘い囁きは、静謐の水面へ重く大きな何かを投げ込むように、彼の欲を扇ぎ立てる。忽ちうねりを肥大させる波は、もう凪いではくれないだろう。
 得も言えぬ昂りはこの女の欲張りな性分が伝染しているからに違いない。
……しかしながら、身内に生まれるあらゆる反応を彼女の所為と決めつけながら、この関係を良しとしている時点で、澪の我儘を論う権利などは一切持ち得ない。
 不毛で面倒な理性の思考を頭の片隅に追いやった甚爾は、再び澪に手を伸ばす。艶やかな髪と白くも血色のいい頬の隙間に掌を差し込んだ。

「俺を満足させられんのか」
「勿論。これ以上は不要と言われてもやめませんよ」
 まるで挑まれた勝負を受けて立つと返答するが如く澪が浮かべる相好は挑発的である。
 そのくせ、瞳が表す色は果てなく円やかな慈愛を思わせる穏やかさで、何処か釣り合いが取れていない表情だ。
 しかしその不統一には偽りも淀みもない。彼女の本心が綯い交ぜとなって成形するからこそであると、彼は知っている。そうでなければ彼女足らしめないのだと。

 熱を伴って何かが止めどなく注ぎ込まれているような気配が止まない。それは果てなく熱く、果てなく瑞々しく、緩慢に流れ落ちて溶け入るものだ。純真な蠱惑だ。
 頬に添えた彼の手の甲に澪の手のひらが重なる。近付く唇が、耽溺を胚胎する囁きを紡いだ。
「覚悟は出来ていますか? 甚爾さん」

(2021/06/14)

吝嗇家様 提出作品
タイトル「パニエ」様