Short Story
やさしいことばが足りないよ

「甚爾さん。お願いがあります」
「断る」

 ソファーで寛ぐ甚爾に一瞥もされず最速で拒まれた澪であるが、こんな遣り取りは今や日常茶飯事である。
 彼女は全く意に介さず隣に腰を下ろし主張を続けた。

「多少は私に優しくして下さいませんか」
 すると顔を上げた甚爾は彼女を見遣り、訝しげに眉を顰めた。

 どうやら少しも聞き入れる気はなさそうだ。全く反省の気色がない悪態を諭すべく、日頃彼から受ける扱いを思い返す。
 まずは本日。寝坊した澪がリビングへ入って来た時の事だ。甚爾は自分の分だけではなく彼女の朝食まで簡易ながら用意していてくれていた。
……。本日はまだ蔑視に該当する行動はない。
 では昨夜。我が儘を言って一番風呂の権限を得た彼女は、湯船に浸かりながら熱唱に熱唱を重ね普段以上に次を待たせたのだが、それでも文句ひとつ言われなかった。
…………。昼間はというと。新設のカフェに行こうと甚爾をほぼ強制的に連れ出した。挙句、調子に乗って頼み過ぎた料理を食べ切れず、店に申し訳が立たない……と、残食を渋る彼女に代わり、結局残りを食してくれたのは彼だった。

 どれ程記憶を漁っても蔑ろにされた経験が見当たらない。

「もしかして。私、普段から十分優しくして頂いてます……?」
「忘恩不義ってのは正にこの事だな」
「ぐっ……」

 議論する間も無くあっさりと身内の記憶によって論破された澪だったが、言い掛けた謝罪を咽頭に引っ込めたのは、何故優しくして欲しいだなんて思い立ったのかという疑問だった。
 俄かに、漠然としていた彼女の願望は鮮明に浮かぶ。

「それです、それ! 私がいつも引っ掛かっていたのは!」
 すると甚爾は、また面倒臭い事を言い出したと目で呆れを語るが、全く気に留めずに澪は続ける。

「甚爾さんは、発言が行動にそぐわないので優しくないと勘違いされるのですよ」
 人差し指を甚爾に向けた澪は、次いでその指先を彼の胸元に軽く添えた。

「このままでいいのですか、甚爾さん?」
「別にいい」
 冷淡な即答にむくれながら澪は眉根を寄せ、目で不満を訴える。

「あー、分かった分かった。で、何を言えって?」
「それは勿論、……ええと」
 言いかけて澪は口を噤む。僅かに逡巡した後、淀む口振りで続けた。
「あの。一般的な愛の言葉を、ですね」
「例えば」
「……。あ、あい……」
「何だよ」
「…………てる。……と……」
 改めて言い直し、漸く捻り出すように極小の声で告げたものの、冒頭は声にならず、気恥ずかしさを隠すために口元を手で隠して視線を逸らす始末だ。

「自分で言えもしない台詞を人に言わせんのか」
「ち、違います! 言えないのではなく、恥ずかしいというか、その」
 まごつく澪をよそに、甚爾は軽く鼻で笑うと「はいはい、愛してる」と淡白に言葉を放った。その態度はあからさまに「これで満足だろ」と告げている。

「ちっがいます!!」
「何が」
 澪は勢いよく立ち上がり、目線が明後日の方向を向いていた事、ふんぞりかえるようにソファーに背を預ける姿勢が居丈高だという事、そもそも全く心が籠っていない事、それらを細かく論う。

「うるせえ奴だな……。ならオマエが手本を見せろ」
「エッ」
「偉そうに語った癖に出来ないのか」
「で、出来ますとも! 受けて立ちます!」
「なんの勝負だよ」

 澪は目を閉じて一つ深呼吸をし、意を決してソファーの上に乗る。恭しく正座して甚爾を正面に据えた。
 対して彼は向き合う事なく僅かに顔だけを傾けて、横目がちに視線を向ける。

「甚爾さん」
 普段よりも僅かに低く、軽々しさを排除した真摯な声音で澪は言う。

「愛しています」
 見上げる澪の面持ちには、円やかさは欠片もない。まるで「娘さんを僕に下さい」と真剣な面持ちで恋人の父親に許しを乞う若人さながら。人生最大にして渾身の気合いじみた熱が入っている。
 見下ろす甚爾の面持ちは微動もしないが、ただ一つ、ほんの一瞬だけ、瞳がかそけく揺れたかのように彼女の目には映った。だが見極める間も無くその顔は反対側に反らされる。

「必死過ぎんだろ」
 瞬間、澪はまんまと自分が嵌められ、弄ばれたのだと察した。
「笑っていらっしゃいますね!?」
 半ば縋るように盛大に抗議する彼女は耳まで赤々と染め、その内心は羞恥が溢れて決壊寸前だ。
「そうやって笑っていられるのも今のうちですから、覚えてらっしゃい!」
 妙な捨て台詞を吐いて澪はソファーから降りる。
 この情けない顔を見られて更に揶揄われてしまう前に、一旦この場から離れたい。
 その一心で、彼女はドアに向かい一目散に駆けようとした。

 その途端。
 唐突に腰を掴まれたかと思うと後方に強く引っ張られ、体勢を崩す。
 為す術無く彼女が乗ったのは甚爾の膝の上だ。
 驚きに目を瞬かせていると、腰を掴んでいた腕は肩に回り、その体を包み込むように抱き竦めた。

「笑ってねぇよ」
 耳元に低く落ちる声音で、彼女は自身の勘違いを覚った。甚爾は笑いを隠す為に顔を背けたのではなかったのだと。その理由は、きっと。

――……。優しくないのは私の方だ。

 澪は背に触れる温もりに凭れ、軽く首を反るようにして顔を傾ける。
 触れ合う髪の柔らかな感触が少しむず痒くもあり心地良い。

――甚爾さんはとっても不器用な人。でも、言葉では表せない慈しみを与えてくれる人。だからこそ。
「……愛しています」

 自分が彼に与えられるものは余りにも少ない。ならばせめて陳腐でも凡庸でも心からの言葉を送り続けよう。彼女は密やかに誓った。

(2021/05/19)

「彗星図鑑とタルトタタン」様 提出作品