Short Story
その笑顔は美しい

 目を開いた時、私は白い天井を見上げていた。
 次いで聞こえたのは「あ、気が付いた」と女性の声。初めてのものではない、聞き慣れた声だ。
 そうぼんやりと思っていた矢庭、慌てたような足音が聞こえてきたのでそちらに首を傾けると、まるで迷子の如く、不安を面持ちに露わにした双眸と視線が交わった。
――こよみ、さん?
 目の前の人をはっきり認識するよりも早く、彼女は忽ち表情を安堵と脱力に変えて矢継ぎ早に私に体調の良し悪しを問い掛けてきた。
 一体どういう状況なのか、まだ整理がついていない。しかし傍に居る硝子さんに「うるさい」とこよみさんが窘められているのを聞いて、漸く合点がいった。
 どうも私は任務中に気絶するという失態を演じたらしい。

……この日の任務は、珍しく安曇さんが休暇を取っていた為、普段は裏方として事務回りの仕事を担っている鬼怒川こよみさんが私の補助監督として同行してくれた。
 任務内容は廃ビルに現れる準二級程度の呪霊の祓除。非術師が施設内に居たり襲われている可能性はほぼ無く、低難易度であるとの認識で任に当たった。
 しかし、その過信が失態を招いたのだ。
 呪術高専の二年生として迎えるこの夏。漸く私は二級に昇格を果たし、単独での任務に出させてもらえるようになった。
 愚かながら、何度か成功を重ねる内にもう十分慣れたと思い込んでしまっていた。

 呪霊との戦闘時、私は完全に呪霊を祓い切った確認を怠り、任務終了だとこよみさんに報告をした。
 けれどその直後、呪霊の能力により材木が放たれ飛来した。それに紛れ込む鋸が視界に映った瞬間、身が硬直してこの様である。

 そういえば、建設途中に会社が倒産したとかで作業が頓挫しそのまま放置されている、だなんて事前に聞いていた気がする。私が苦手とするような工具が置き去りになっていても可笑しくはなかったのだ。
 恐らく術師が任務終了の連絡を寄越しながら一向に帰ってこない状況に、こよみさんは多大に心慮した事だろう。
 更にいくら彼女が補助監督として術師に同行するに十分な能力を持っていたとして、私をここまで運ぶに軽々抱えてとはいかなかったに違いない。

――……これは、後で一人反省会ですね。
 その前に、まずは多大な迷惑を掛けてしまった彼女を安心させるのが先決だ。私が起き上がるのを優しく手助けしてくれるこよみさんへ笑みを向け、明朗な声音で返答した。
 すると、予期せず彼女は切なそうな面持ちになってしまい、遂には目に涙を湛え出した。
 何故。と疑問が浮かんだが、答えを導くのに時間は掛からなかった。気を遣い私に話を振る硝子さんと言葉を交わしながら思う。

……こよみさんについて、人づてに聞いた事がある。
 彼女は総務的、経理的な業務をこなす中で一つ、重大ながら嫌忌される仕事を担っているのだと。
 高専が請け負う事件や事象に関連した落命者の後処理である。遺族への報告を伴った弔問、死因の記録等々、その仕事が彼女に掛ける精神的負荷は計り知れない。ましてや高専関係者のみならず、見ず知らずの死者への墓にまで律儀に赴くのだという。
 私にはその心緒は理解できない。始めはそう、思った。悪い言い方をすれば、何処までも呪術師に向いていない人だな、と。

 けれど、今ではこよみさんらしい、とひとえに尊敬している。
 彼女は何処までも慈悲深く、そして純粋な人だ。
 だから他人に躊躇なく寄り添ってしまう。そして、彼女自身も深く傷を負ってしまうのだ。それ故の涙だったのだと思う。

 ふとこよみさんを見遣ると、呼吸を整えて自身を落ち着かせていた。きっとこの間も己のことではなく、他人……つまりは私を慮っているのだろう。
 そんな無益で不毛な気性では苦労が絶えず、いずれ壊れる。そんな風に以前の私は淡白に思った事だろう。けれど、今は違う。
 私の視線に気付いたこよみさんと目があった時、私は再び頬を緩めた。
「ほんとに、心配いらないですよ!」
「……ありがとう。頼りにならなくてごめんね」
「いえ!」
 むしろ今回の任務での大健闘は貴女だというのに。それを全く無かったことのようにしてしまう性分は、やはりこよみさんらしい。

「白主さんは、笑顔が可愛いね。元気になるよ。ありがとう」
 俄かに、彼女は相好を穏やかに崩した。
――その笑顔は、初めて見た。
 正直、予想しなかったこよみさんの言葉とその表情に驚いた。同時に、胸の内に生まれた心地良い情緒の正体が分からなくて少し困惑した。
……多分。彼女が内包する無償の優しさが唐突に、そしてはっきりと「美しい」という強い感情を伴って見えて、驚いたのだと思う。
 ひいては、そんな美しいものにこうして触れられるのが嬉しい、のだと……思う。

「こよみさんの笑顔は美しいですね」そう口に出しても、きっと彼女は全身全霊で否定してしまうだろう。だからこの思いは嚥下し、今はまだ私の胸の奥に秘めておく事にした。
 今度は、満面の笑みを湛えて出迎える貴女を見たい。貴女のその純朴で温かい笑顔を。