Short Story
蕾は未だ深更に埋む

 廊下を歩きながら、澪はふと手元に携えたクリアファイルを見遣る。その中に入っているのは、先程事務室で受け取った制服の注文表だ。
 これを澪に手渡した事務員、鬼怒川こよみの相貌を想起しながら前を歩く野薔薇に向かってぽつりと呟く。

「野薔薇先輩。……こよみさんは、呪術師なのですか」
 軽く振り返った野薔薇は「うーん」と少々悩んだ声を伸ばす。
「呪術師、とはちょっと違うかもしれないけど。時々補助監督もやってくれるし、呪術も使えるわよ」
 その言葉に澪は目を丸くした。内心では問いかけの答えは限りなく否定形に近いはずだと予想していたからだ。

「そう、なのですか」
 澪が意外性を感じていた理由は一つ。こよみの纏う雰囲気が、呪術師の持つそれと同一であると思考が直結しなかった為である。
 事実、彼女からは強い呪力を感じられたので非術師ではない事はすぐに分かった。

 しかし、鬼怒川こよみという大人は、子供である澪にとって、実に真っ当で純粋であるように感じられた。それはまるで呪いという歪んだ感情の生み出す力とは相反するような印象だった。
 人間であるのだから、一切負の感情と無縁だなんて有り得ない。それは十分承知しているが澪自身、上手く言語化して纏められずにいる。

 校舎を出て陽の光に出迎えられた時、より澪自身が納得出来る表現が浮かび上がった。
 こよみは呪術師とは無縁の人間であるように思えたのだ、と。悪い言い方をすれば、呪術師には向いていなさそう、である。
 そして所感の決着と共に、次に澪の心緒に湧いたのは興味である。
――何故、こよみさんは呪術高専で働いているのでしょう。

 澪と野薔薇は五条悟の適当な応対に因って、困り果てた先に事務室に行き着き、こよみに手厚く対応された。
 その手際の良さもさることながら、二人の生徒に限らず、こよみ自身も五条の適当の被害者とも言える状況であった。
 けれど彼女が最も慮っていたのは、己ではなく二人の学生である。
「きっと五条さんに振り回されて困っているはず」と澪達を待っていたのだ。
 そうして急に舞い込んだ仕事を素早く、且つ無知の人間への分かりやすい説明まで添え付けて熟す、後援としての能力の高さは、高専にとっては決して手放したくない人材だと言えよう。
 だが、こよみにとってはどうだろう。

 結界に守られた敷地内とは言っても、ここは不便な山奥であるし、サポート業務とは言っても、支える相手は企業に勤める営業社員などではなく、呪霊の祓除或いは呪詛師による非術師呪殺の阻止等、危険度の高い使命を担う人間だ。同僚を失う可能性の高い職場だと言えよう。
 それに止まらず野薔薇が言っていた通り、場合によっては補助監督として呪術師に同行もあり得る。己の身の安全も確固たる保証は無い。
 思えば思う程に澪の内では純粋な疑問が浮かび上がっていく。

 両親や友人を密かに憂う自身と何処か重なる部分があるのだろう。しかし、澪と決定的に異なるのは出会ったばかりの人間にもその心虜を向けられる点であった。
 今の澪は己の身を守る事で精一杯だ。そうでなくとも、彼女は気を許す人間を選ぶ性分にある。
 ある意味真逆の性分と推察できるが故に好奇心が湧くものの、しかし何故、これ程気になるのかが分からない。

 澪は五条の丸投げ業務に対する手際の良さから事務室を「総務兼五条先生対策課」と勝手に脳内で命名している。
 なんとなく察したが、五条の無茶振り丸投げは恐らく日常茶飯事で、それをこよみのみならず、もしかしたら事務室で業務行う職員は全員対応してきているのかも知れない。
 高専の学生である内はおおよその処理は大人である彼らが代理として請け負ってくれるようだったので、余程困った事が発生しなければ直接訪れて厄介になることはない。

 小、中学校に於いても教員から勉学や学校生活で気になることがあれば、気兼ねなく聞きに来ても良い、と似たような声を掛けられた事はあった。しかし澪はその必要性を感じなかったので、職員室に赴く事は一度もなかった。思っていた通り、大人達と関わらずともこうして卒業まで辿り着こうとしているのだから、間違いではない。
 だから、こよみとは学生である内は。まして以降も事務的な依頼や手続き以外で関わる機会はないのだ。

 しかしその思考に反して浮かんだのはこよみの言葉だ。何気無く告げられた、事務室へと気軽に寄っても良いという柔らかな誘い。
 その言葉は、もしも澪が掛けたのだとしたら間違いなく外面を良く見せかける為だっただろう。
 しかしこよみからはそういった虚栄は内在していないように思える。だからと言って、常に本心を曝け出しているわけではなさそうだ。

 ならばあの人の秘める想いは一体どんな感情で形作られ、そしてどんな信念が生み出すのか。
 仄かに珈琲の香りの余韻が残り、暖かな静寂の広がる部屋を脳裏に描く。
 出迎えるあの人はその時も緩やかに笑うのだろうか。

 不思議な好奇心に動かされるまま、澪が再び想起の場所へ足を運ぶ日は、然程遠くはない未来の話である。