猫の災難
早朝。
もうこの時間帯に起きている者は多いだろう。
だが空都は早起きが得意な方ではないため、未だに布団の中で寝ていた。
ガサガサ。
ガチャガチャ。
物音が煩くて、俺は身を丸ませる。
だが物音は止むことなく耳に入ってくるものだから渋々目を開く。
全身がすっぽりと布団の中に入っていたが、特に気にする事なく布団から起き上がろうとした。
…が。
「……?」
起き上がれない。
いや、それよりも目を擦ろうとした手が黒い事に気が付く。
だがそれを寝ぼけてるのだろう、と思った空都は特に気にはしなかった。
「……」
もう一度体を起こしてみたが上手くいかない。
仕方なく布団から這い出す様な形で、どうにか出れる事が出来た。
「……?」
そこで違和感に気が付く。
視界に入る物が、異様なまでに゙高い"のだ。
テント内でさえとてつもなく広く見える。そう、まるで空都自身が小さくなった様な…。
「……ッ?!」
いや、小さくなっていた。
空都が体に目を向けようとして下を見れば、何故かふさふさした毛が目に入る。それにいやに恐ろしく寝床が近く見える。
顔を触るために手を持ってこようとすれば、可愛い獣の手が目の前に入ってきた。
「……!!」
ちょっと待て。
獣の手って何だ?!
驚いて声を上げればこれまた可愛い声が耳に入る。
「ニャ、…ニャァッ?!」
はあ?何なんだこれ!
自分の声が丸っきり猫じゃねぇか!
起きたら猫になってました、なんてあり得ない冗談だろう。
夢を、これは夢を見ているんだ。
空都は頭の整理がつかないまま寝床を見れば、そこには空都が着ていた服であろう物が、散乱していた。
「……ニャーーッ!!」
確実に俺は猫だー!!
驚いた勢いのあまり、空都はテントから飛び出していた。
「……!?」
だがテントの外に出てみれば、世界が丸ごと変わった感覚に戸惑った。何もかもが大きくて広く見えてしまう。
こんな事今まで体験した事がない為、段々と動悸が激しくなっていく。
「ニ…ニャ……!」
と、とにかく義経の所に…!困ったときは義経だ……!
頭はまだ混乱している中で、取り敢えず義経の元に行けばなんとかなるだろう、と考えはあり踏み出したのだが…。
「……ニ゙ャッ」
上手く歩けない事に戸惑っていた。
足を一歩踏み出すのだが、獣の様に軽快にいけない。
必ず何処かで足がもつれてしまい、転んでしまう。
如何に四本足で歩くことが難しいのか身を持って知った瞬間である。
「ニ゙ャ……ッ!」
それでも何とか前に進もうとしたのだが、踏み出す度に転けてしまう。
この調子だと義経がいる場所までまだまだ程遠く、思わず泣きたくなった。
何でこんな目に合わなければならないのか。どうして猫になってしまったのか。
そんな事を考える内に気が付けば、足を動かすのを止めてしまっていた。
「……ニャ」
どうしてこんな事に。
空都は頭を項垂れ、小さい手…ではなく前足を見る。
ふと、地面が影に覆われている事に気付いた。
と、同時に首根っこの部分をむんずと掴まれ空都の体が浮いてしまう。
「ニ、ニャァッ?!」
な、何だ何だ?!
驚いて手足をばたつかせれば、目に入り込んでくる顔があった。
「……」
「……ニ」
「……猫?」
「…ニャーーッ!!!」
お、鬼だーーっ!!!
赤髪に角。
それはまさしく鬼というのに相応しい見た目をした男であるのが即座に分かる。
な、何て言うことだ!
まさかこんな時に鬼に捕まるとは思わなかった……!
空都の体は一気に毛がフサァと膨らんでいく。
それは焦りと驚きからだ。
「……む」
反応を見た鬼は少し考えるように、猫である空都を見る。
「……私が怖いか」
「……ニャー!」
いや、怖いよりも俺を離してくんねーかな!
その前に仏頂面を俺に近付けさせるんじゃねー!!それが怖いわ!!!
一鳴きではあるが、空都にとっては沢山話してはいる。
…のだが、猫の空都は人の言葉など言える訳がないので男には伝わらない。
「……そうか、猫でも私を怖がるのか…」
「ニャァ!」
お前馬鹿だろ!離せって言ってんだよ俺は!
バタバタと暴れてみるのだが、男の手は空都を一向に離してはくれない。
するとそこへ通りかかる者が一人現れる。
「酒呑童子か。…何をしている?」
「ニャ……」
太 公 望 だ。
いつもの様に涼しい顔で男を見る太公望。
ふと、男が掴んでいる物に目が向けられた。
「その猫はどうしたのだ?」
「……先程、拾った」
「ほう……」
太公望はそう言うなり猫をジッと見つめる。
「……」
何見てんだ…。
太公望の物珍しげに見るような目が嫌で、キッと睨み返す空都。
暫く無言が続いたが、太公望が静かに口を開いた。
「酒呑童子、その黒猫の面倒を見てやれ。…何、怪我が治るまでの間でいいだろう」
「……私が、か?」
「ニャッ?!」
はあ?!俺怪我なんかしてないぞ!
おい!目が節穴なのかこの仙人もどきッ!
思わず太公望に暴言を吐くが、人の言葉ではない空都の声は届かない。
もう一度暴れてみるが、男や太公望には何の効果もないまま話が勝手に進んで行く。
「ニャー…」
くっそー!猫じゃなかったらこんな鬼や仙人位、一発入れてやれるのに…!
暴れすぎて疲労がドッと流れてきた為、空都は男に掴まれたまま大人しくする他なかった。
それから話を聞いていれば、あるかどうかも怪しい怪我が治るまで数日間は、酒呑童子と言われた鬼と過ごす事になった様で。
「……」
こればかりはどうしようもない。
俺自身よく考えてみたけど猫の姿がいつまでなのかが、全く分からない。
そもそもどうして猫になったのかが分からないんだ。
前日に変な物を食べた訳でも無し。
いつもと変わらない感じで過ごしていたんだ。
本当に意味が分からない。
「……精々、その黒猫を踏み潰さぬようにな」
話が終わったのか、太公望はくるりと背を向いてそのまま歩き出してしまっていた。
今気付いた事だけど、俺はどうやら全身黒いらしい。
太公望が黒猫、と言うんだからそうなんだろう。俺は全身を見たことがないから分からないけども。
「黒猫」
「……?」
不意に鬼が話しかけてきた。
話しかける様にしたのだから、どうやら空都の事を黒猫と呼ぶ様にしたらしい。
「……私の事が怖いのは分かる。だが太公望が私に任せたのだ…数日間、お前の面倒を見る事になった」
「ニャ……」
何猫相手に丁寧に話してんだ、この鬼…頭大丈夫か。
空都がそんな事を言っているのを知る由もなく、鬼は首根っこを掴んだまま歩き出した。
空都はそれに対して喉が苦しいとかはないが、鬼が歩く度に小さな体が大きく揺れるのが辛い様で時たま気持ち悪さに吐きそうになる。
だがそこは鬼が帰るであろうテントまで、何とか気力で耐える事にした空都だった。
「ニャ……」
義経、俺どうなるんだ…。
空都の悲しい鳴き声は誰にも聞かれる事はない。
片手には瓢箪。
もう片手には黒猫の空都。
その鬼の歩く後ろ姿には何とも奇妙な光景だったのは、目撃した者にしか分からないのであった。