96さまへ!:アビエル





あれは何番目の家だったろうか。
夏だったから4、いや、5番目だったろうか。
空き家の割にはずいぶん整然としていて、庭にもまだ花が残っていた。
手入れする人間から自由になった草木が好き勝手に伸びて花を咲かせて、楽しそうに日差しを受けていた。
エルは、彼女はその庭をとても気に入って、まだ涼しい朝方に散歩するのが日課になった。

「パパ、ひまわり!」

庭の隅で歓声が上がる。

「ねぇねぇ、エルより大きいよう!」

ぐん、と、太陽に首を伸ばす花を見上げる彼女は、まだ幼く小柄だ。
抱えあげて花の正面に連れていくと、「これみんなタネになるんだね」と神妙な声を出した。
少し日が高くなってきた。日差しが強くなる前にエルを家に入れなければならない。

「パパはひまわりより大きいんだね」

歩き始めた腕の中で、彼女は感動したようにつぶやいた。

「エルもいつかひまわりよりずっと大きくなるさ」
「ほんと?」
「本当さ。エルがお姉さんになったらね」
「今がいいー」

むくれながら細い足をぶらぶらと揺らした。
棒のようで、青白く、かさついている。

町に出ると子供の足を食い入るように見てしまう。
欲情するのではない。
彼女と比べてしまうのだ。

「エルはひまわりが好きかい」
「うーん、大きすぎてわかんない」
「はは、そうか」
「だからね、大きくなったら好きになるかもしれない」
「そうだね。大きくなったら、いろんなことを知るだろう」

いろんな美しいものを見るだろう。
いろんな歌を聞くだろう。
その未来を守るためには金が必要だった。




凍てつく外を眺めながら、エルが小さく咳き込んだ。
あれからずいぶん経って花という花はみな雪の下へ眠ってしまった。
さびしげな彼女を見ていられなくて、いつも私は希望の話をしてしまう。

「地平線の果てには楽園があって、」

彼女はこの話が好きだ。

「いがみあったものも、殺しあったものも、病めるものも死せるものも皆、そこでは幸せになることを赦される」
「兄を失った妹も、妹を失った兄も」
「そうだ。失った光は取り戻され、幸せをとがめるものはなにもない」
「そこでなら、ずっといっしょにいられるの?」
「…いられるとも」

焼け付くような赤い地平線の果てには楽園があるのだ。
繰り返し話すうちに自分の声に熱がこもってくるのがわかる。
楽園にさえ行ければ…

ふとエルが呟いた。

「地平線で燃えているのはリコリスかしら…」
「違う」

冷水を浴びせられたようになってアビスは答えた。

「リコリスの先は楽園ではないよ。あそこは、檻だ。君を二度とあそこに戻しはしない」

掻き抱いた娘の表情を父親は知らない。
エルは父の肩に顔を埋めて言う。

「楽園ではどんな花が咲くのかしら」

ひまわりと背比べした夏はもう遠い。
小さな体を抱いているとアビスは胸をかきむしりたくなる。
すべてが隙間なくぴったり合わさってしまうような愛しさと、この世界の何もかもへのたぎるような憎しみと、存在が砂のようにこぼれ落ちていく恐怖と。
吹き荒れる嵐のような感情を抑えるのに必死のアビスは、エルが小さくささやいた言葉に気付かなかった。

でも、パパがいればそれがわたしの楽園なのよ。

その声は慈しんでいるような、泣いているような。
そのどちらだとしても、アビスはまた夜も明けないうちに彼女を置いて家を出る。










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