玄関のドアの先にいたのは、無表情の綱吉だった。
その顔を見た瞬間、クロームは「あっ」と声を上げた。
口の端が下を向いている。力が入っていないのだ。これは、無感動からくる無表情ではない。むしろ、顔を歪めないための、
「骸が、いなくなった」
クロームの思考が止まった。
「どうしよう・・・いなくなっちゃった・・・!」
それだけ言葉にすると、危惧した通り、彼の顔は見る見るうちにぐしゃぐしゃになった。
腕で顔を抑えてうめき声をあげる彼を、クロームは黙って中へ通す。
クロームを驚かせたのは二点。
六道骸が姿を消したこと。そして、綱吉が「骸」と呼んだこと。
その名前は、一生、彼が知ることのないはずの名前だった。
「その名前は、あの人から聞いたの?」
ぽつりと聞いた彼女に、綱吉は責めるように視線を向けた。
「やっぱり、父さんの名前なんだ」
「そう、聞いたんじゃないのね」
「どうして隠してたんだよ!」
「それは、」
クロームはねばつく唾液を飲み込んだ。
「そうすることで、彼は、あなたを愛したの」
光の中で笑う凡庸さを。
お互いの気持ちが伝わってしまうクロームにだけは、骸も事情を話していた。きっとそれだってすべてじゃなかったけれど。
クロームには前世の記憶なんてものはない。見ず知らずの人間がそんな物を持ち出してきたら胡散臭く思ったろう。
でも、彼が言うならそれはあるのだ。
混乱の中に納得がある。すべては、この日のためだったのだろうという、納得。
(骸様。どこにいらっしゃるのですか)
遠く、飛ばした思念は、闇に吸い込まれたように手応えがない。それでも彼が穏やかな気持ちでいることは分かった。
クロームは綱吉を椅子に座らせると、マグカップにコーヒーを注いだ。
真っ黒の液体を彼の前に置いてやりながら、時間の流れを考えた。
小さい頃の綱吉に、骸は砂糖とミルクをたっぷり溶かしてカフェオレを作っていた。
「何を聞きたいの」
自分も椅子に座って、クロームは静かに聞いた。
綱吉はコーヒーに手を付けず、マグカップを睨み付けている。
「どうして名前を隠す必要があったのかと、どうして出て行ったのかと、」
彼は息継ぎをした。
「今、どこにいるのか、知りたい・・・」
うつむいて声を絞り出した彼を見つめながら、クロームはゆっくりとコーヒーを流し込んだ。
綱吉の背後には、ついさっき脱いだばかりのワンピースが抜け殻のように吊り下げられている。さっきまで薄い紫は朝焼けの色だと思っていた。
けれど昼間からは想像のつかないこの部屋の寒々しさ。
「名前を隠した理由は、私にもはっきりとは分からない」
嘘だった。クロームは聞いている。
彼の言葉を借りるなら、彼は「骸の名前を鍵に、綱吉の前世の記憶すべてを封じた」のだった。
綱吉は骸と言う名前を思い出した。その他はどうなのか。
注意深く様子をうかがったが、うつむいた顔からは何も読み取れない。
分からない以上、前世がどうのとか、暗示がどうのとか、そんな話をするつもりはない。
骸は目の前の男を愛していたのだし、彼のやり方でずっと愛そうとしているのだ。
つまり、すべてを綱吉から隠すということで。
クロームは骸を愛していたし、だからこそ彼の意志に敬意を払っていた。
「でも、彼はずっと、こうしていなくなる準備をしていたのだわ」
「ずっと?」
「たぶん、あなたを育てると決めた時からずっと。その証拠に、何も知らないでしょう、骸様のこと」
久しぶりに口にした名前はずっしりと重かった。
その重みは喪失感だと遅れて気づいた。
綱吉が傷ついたように顔を上げる。
「じゃあ教えてよ。クロームは知ってるんだろ!」
大声で叫んでから、彼はしまったという顔をした。
「ごめん」
「なんで?」
「これじゃ八つ当たりだ・・・」
クロームは黙って焦げ茶の頭を見下ろす。
綱吉はやさしいまま育ったと思う。
自分が、骸が、かつていたような場所からは想像できないほど善良な男に育ったと思う。
それがひどくうれしい。ひどくいとおしい。同時に、今、ひどく憎らしい。
いっそ挫折に負けてひねくれたりすればよかったのに。
私ですらそうなのだから、彼の、骸の愛憎はいかほどだっただろう。
思い切り傷つけてやりたくなって言葉を探すうちに、どんどん指先が冷えていった。
ふと、綱吉と目があった。
心配そうな眼をしていた。
「泣かないで、クローム」
彼は小さいころから変わらない、情けない顔をしていた。
優しい綱吉。私たちの綱吉。
ああ、と、声が漏れた。
(八つ当たりをしていたのは私の方だ)
顔を覆った。
情けない。自分の気持ちも把握できないで、同じく傷ついている人間にあたったのだ。
綱吉が遠慮がちに頭をなでる。
それにすら昔を思い出して重ねてしまう。
喧嘩した午後、泣く私をオロオロとなでる綱吉と、呆れたように声をかける骸。
彼はもういない。もういない。
必死にクロームの頭をなでながら、綱吉も泣きそうになっている。
それに気づけばもうだめだ。
二人して子供みたいにしがみついて、わんわん声を上げて泣いた。
胸の中で繰り返すのは、彼への問いかけだ。
(骸様、なんで、私たちをおいていったの)
答えはない。