〈4、すなおにおねがいする〉

「ほう」

これには否定がついていない。
直球なのがいかにも彼らしいと思った。
その「おねがい」を練習したのか、下には書いては塗りつぶした跡がたくさんあった。
そのせいで裏表紙の右隅は真っ黒だ。
隅の、最後の一センチほどの隙間。
塗りつぶされなかった言葉を見つけて、骸は顔を寄せた。

〈骸の余生を俺にくれ〉

瞬間、頭が真っ白になった。
そこだけ丁寧な、整った文字だった。
そのまま骸はしばらく微動だにしなかった。
食い入るようにじっと、カタログに顔を寄せていた。
そんな馬鹿な。
日本行きを幹部連中に納得させるための願いではなかったのか。
かつての家庭教師や、暗殺部隊や、次世代に向けた言葉なのではないのか。
なぜ。
いくら読み返しても文面は変わらない。

〈骸の余生を俺にくれ〉

立ち尽くすうちに、彼の息子の言葉が頭をよぎる。

『父の書類には他にもいろいろありました。いくつかの物件と株と、それから、離婚届』

離婚届は夫人の署名を待つばかりの状態だった。
家族思いの彼がなぜそんなものを、と、骸はあの時いぶかった。
だが、だけれども。もしかしたら。

『五十まで、生きてよ』

耳元で、彼の死以来何度も思い返した声がする。
骸が五十。綱吉は四十九。
彼はその年に引退すべく、次代の地盤固めに奔走していた。
五十まで。
目を細めた彼がどんなつもりだったかは知らない。
「おねがい」は発されることなく土に埋まった。
大人になると同時に押しつぶされた、あの幼稚な関係の続きを望んでいたのか。それとも単に隠居仲間が欲しかったのか。
分からない。
どちらにせよ。

「どちらも、もうない」

掠れた声を吐き出した。
二脚の椅子。
二つのワイングラス。
カタログのマル、バツ、サンカク。
君が細めた目の先で描いていた空間は、どんなものだったのか。
綱吉。
返事がないのが分かっているから名前を呼べない。
傷つけあい、軽蔑しあい、長い歳月。
恋というには冷え固まり、愛というには淡白で。
関係に名前があったかもさだかではない
それなのに、この家でふたり暮らす自分と彼とを思い描いて目が熱くなるのはなぜだ。
今、気が狂いそうなほど彼に会いたいのはなぜだ。
どこだ。どこに行けばいい。
君の呼吸はどこにある。

どこに!

くいしばった歯の隙間から唸り声を漏らして、カタログを胸に押し付けた。
それでもなおえぐれた空間は埋まらない。
目から溢れたのもがぼたぼたと床に落ちる。

綱吉。

失ったのだと、気づいた。
何をあてがったところでこの欠落は埋まらない。
しわの寄ったカタログを手のひらで押し伸ばした。
欠落の自覚は同時に未来の存在を骸に思い出させた。
目の前に広がっているのはがらんとした空間。しかしそれだけではない。
彼のいないこれからの時間そのものなのだ。
彼が地球上のどこにもいなくても自分は食事をして、睡眠をとって、呼吸をしなければいけない。
そんなあたりまえの事実に今ようやく、気づいた。
これからどうしようというのか。
この不完全な空間を抱いて。
骸はぼんやりと窓の外を見つめた。
明るい日差しに芝は青々と輝いている。


果たされなかった夢の家









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