彼は柔らかな笑みを浮かべてやってきた。
そして上機嫌で、こんばんは、と言った。
ふらついた足元に、酒には弱くなかったはずだけど、と首を捻る。
「おまえ飲み過ぎだろ」
「クフフ、そうですかねぇ。おかげで眠くてたまりませんよ」
妙に上機嫌。
彼が酔った所を見るのは初めてじゃあなかったけど、こんなに浮かれた様子は見たことがない。
違和感とよくわからない焦りをもてあましながら、綱吉はとりあえず水をグラスに注いだ。
「まあ飲めよ」
「…いいです。それより眠くて」
彼は目をそらしてソファに倒れ込んだ。
ますますおかしい。
彼がこんな風に隙を見せることがあっただろうか。
「骸、おまえ、具合悪いの」
「いいえ。いいえ、凄く良い気分です」
幸せそうに彼は笑った。
「じゃあなにかいいことでもあった?」
青味がかった髪をすいてやりながら聞く。
あんまり彼が幸せそうなので、綱吉の口元もゆるんでいた。
骸は頭を撫でる手の感触に目を細めている。
「そうですね、君に逢えて本当によかった」
「なにそれ。いつも会ってるじゃん」
頭上から降ってくる、呆れたような笑い声を彼は気持ちよさそうに聞いていた。
綱吉の喉元まで焦燥がせりあがっている。
この違和感の正体は、何だ?
「骸、やっぱり寝る前に水飲んどけよ。二日酔いとか怖いし。な?」
そう言ってそばを離れようとした綱吉の手を、彼は柔らかく握って引き止めた。
「もう寝ちゃいそうなんです。ねぇ、寝るまでそばにいて…」
「むくろ?」
呼びかけると彼は微笑んだ。
微笑んだまま、静かに目を閉じていく。
そのまま眠ってしまったようだった。
穏やかな寝顔に少し安心して、綱吉はため息をつく。
「甘えたかっただけなのかなぁ」
綱吉はひとりごちて、そっと骨ばった手を外した。
「毛布かけてやんないと。あ、その前にコートたたまないとシワになる」
部屋に来て早々に彼はコートを脱ぎ捨てていた。
ドアの前にある布の塊に思わずため息が出る。
「しょーがないなぁ」
口調とは裏腹な優しい手つきでコートを拾い上げた、その拍子に、ポケットから何かがこぼれ落ちた。
「ん?薬のゴミか」
ちゃんと捨てろよなー、と苦笑して、それをゴミ箱に捨てようとして、…やめた。
妙に見覚えのあるそれは、綱吉が就任してまもないころお世話になった代物である。
その名を睡眠導入剤という。
毒性はもちろんないし、大量に服用したところで死にもしない。
不規則な生活をしている彼だから、それを使うことがおかしいわけでもない。
けれどどうしてだか焦燥が膨れ上がって、綱吉はコートのポケットをひっくり返した。
バラバラと床に落ちる。
「なんだよ、これ」
錠剤のゴミ。
薬包紙。
次々と転がり出るそれに、綱吉は指が震えた。
それらのゴミが絨毯の上に小さな山を作る。
杞憂かもしれない。
これらは皆実はビタミン剤で、たまたま捨て忘れてこんな量になったのかもしれない。
でも、じゃあこの頭の中で鳴り響く警報はどう説明するのだ。
「骸」
肩を揺らす。
反応はない。
「骸!」
耳元で怒鳴る。
反応はない。
それが意味することは意識の喪失だ。
「っの馬鹿野郎ッ!!」
綱吉は彼を抱き上げると部屋のドアを蹴破った。
医療班を呼ぶより自分で運んだ方が速かった。
骸は目を覚ますなり気の抜けた声で、ああ生きてますね、と言った。
「バカ!」
「酷いいわれようだ」
普段通りに笑って言ってみせるものだから綱吉は悔しくてたまらない。
でもその悔しさを大きく上回るのものがあった。
それが滲み出して、眼球で膜を張る。
「ないて、」
「ああ泣いてるよこの野郎!…よかった、よかった」
生きててくれてよかったという安堵。
それを伝えると、彼はしみじみとうなずいた。
「ほんとに生きてるんですねぇ…」
「当たり前だろ!心配させやがって、」
「おやおや、死後の面倒がないように身辺整理はキチンとしておいたつもりでしたが」
「ふっざけんな!そんなのどうだっていいんだよ!なんでこんな真似したんだ!」
怒鳴り付けると、彼は思案するように宙を見つめた。
言葉を選びながら口を開く。
「ただ、」
「ただ?」
「死が眠りと同義であるならば、眠るとき寄り添うように…そばにいて欲しいと、」
凪いだ口調に、綱吉は呆然とした。
「一人じゃ眠れないんです、もう」
彼は言って、こちらを見つめる。
色違いの瞳が微笑みの形に細められるのを、綱吉はただ黙って見た。
愛する人が死ぬ間際そばにいてくれること。
それは、自分達にとってどれだけ途方もない願いなのだろう。
「いるよ」
出した声は掠れていた。
それでも綱吉は言葉を紡ぐ。
「いる。絶対いるから。最期は絶対そばにいるから、だからもっと、オレと、生きて」
探るようにして骸の手を握った。
生きて。
まだ一緒にやりたいことがある。
繰り返したいことがある。
まだ終わりにしないで。
だって、こんなにも愛してしまった。
「…しかたありませんね」
骸が手を握り返した。
うつむいて表情は見えない。
いつ死ぬか分からない世界で生きている。
いつ会えなくなるか分からない世界で生きている。
それでも子供のような、根拠のない約束を、どうか信じていて。