レナが帰ってこなかった。
少し、風が冷たくなった日のことだった。
いつものように背中を押して、つとめを終えて、部屋へ戻って、そうして、彼女は帰ってこなかった。
思い返せば、最近私以外に笑顔を向けることが増えたかな、なんて。
背中を押すと決めてから、覚悟はしていたことだった。
いずれ彼女には、私以外に大切な人が増えていく。
わかっていた。
「これが、正しいの」
爪先からすっ、と、感覚が消えた。
胸が、重い。
誰かとこんなに話し込んだのは久しぶりだな、と、レナは思った。
月は空の真上を過ぎている。
すっかり帰りが遅くなってしまった。
なんなら部屋に泊まっていったら、と言われたけど、丁重に断った。
カティアが待ってる。
深夜、昼間の疲れもあって眠いはずなのに、その足取りは軽い。
(…ミーシャとこんなにいっしょにいたのは初めてね)
ミーシャが好きではなかった。
けど、夕食の帰りにつまずいたところを助けてくれたのは彼女だったし、自室で処置をしてくれたのも彼女だった。
(面白い子、だったな)
あんなに敵視していたのが馬鹿らしくなるぐらい、あっけからんとした性格。
側にいる人間が、息のしやすい人だなと思った。
(カティアに報告しよ)
何て言おうかな。
『ごめんカティア、わたし、ミーシャを誤解してた』?
ううん、ごめんは変かも。
『あのねカティア、ミーシャと仲良くなれたわ!』
うん、多分、こっちの方がカティアは喜ぶ。
部屋の前についた。
明かりは消えているから、カティアはもう寝てしまったのだろう。
報告は、明日の朝一番だ。
そう思って、ドアを開けた。
「…カティア?」
窓辺の椅子に座る人影に呼びかけると、それはゆっくり振り向いた。
月の光のせいだろうか、ひどく青白い。
(…ちがう)
月のせいなんかじゃない、カティアは酷い顔色で、泣きそうな表情をしていた。
「ど、どうしたのカティア…!」
慌て駆け寄るレナに、カティアは瞳を揺らした。
何か嫌なことがあったのかしら。
誰かに悪口を言われた?
怪我をした?
悪い夢を見た?
色々思い付くのに、言葉は一つも出てこない。
握った手は冷たかった。
いつかのように、別れの温度。
レナは訳もわからず不安になって、自分の両手でカティアの両手を包んだ。
少しでも、温まればいいと思った。
「あら、レナ、遅かったのね」
そっと手を外して、カティアは笑った。
なんでもないかのような態度にレナは戸惑う。
「え、あ、ごめんね、ミーシャと話し込んじゃって」
慌てて言ってから、しまった、と思った。
せっかくのニュースなのだから、もっと驚かすような、素敵な打ち明け方をしたかったのに。
カティアは目を見張って、それからにっこりと笑った。
「そう、ミーシャと仲良くなったの」
「…カティア?」
無理に、笑ってるの?
カティアは何時だって、私に他の人と仲良くするように言っていた。
私はカティアがいればよかったから、不満だった。
でも、カティアがそれを望むから、カティアがそれを大切なことと言うから。
(だからね、カティア、私は喜ばせたかっただけなの。そんな顔をさせたかったわけじゃない、の)
「なあに、レナ?」
不思議そうな声に、一瞬、返す言葉が見つけられなかった。
ただ焦燥に任せて口を開く。
「カティア、なにかあったんでしょ、教えて?どうしたの?ねぇ」
「…なんでもないわ。ちょっと、そう、夢から覚めて」
前から覚悟してたことだった、と、彼女は呟いた。
明らかに私に向かっていない言葉だったから、聞き返すこともできない。
彼女は穏やかな表情でこちらを見つめた。
(穏やかな?いいえ、あれは、なにかを諦めたような)
「レナの仲良しが増えてうれしいわ」
うそ。
うれしいなら、そんな顔で笑わないで。
カティアは「さぁ、寝ましょう」と言ってレナの背を押した。
優しくて、有無を言わせない手付き。
何かが壊れたのがわかるのに、それを直すことも、見つけることさえも、彼女は許してくれない。
(カティア、私の一番)
レナは布団の中で声を圧し殺して泣いた。
(あなたを幸せにしたいだけなのに、どうしてうまくいかないのだろう)
幸せを願っても傷つけてしまうなら、ねえ、私はあなたに出会ってはいけなかったのかしら。