だれかのよぶこえがきこえた。
ああ、ないている、の。
やっと手に入れた幸せを、壊そうとする化け物が私の胸の中にいるのだとお医者様は言った。
パパは、それをやっつけるために何度も何度も遠いところへ行く。
せきがでるのは、化け物が暴れているから。
苦しいのは、パパがいないから。
「エル、」
「どうしたのパパ」
「楽園の話をしてあげよう」
「らくえん?」
「そこでなら誰でも、幸せになれる。エルも必ず幸せに、」
男にとって彼女のいる家の中こそが楽園。
彼女にとって病に苦しみ続ける家の中こそが奈落。
二人を隔てる確かな境界。
望んだのは二人でいることだけなの、に。
男の提案に、少女はうれしそうに顔を輝かせた。
「ねえパパ、楽園はどんな鳥が歌うの?ずうっとまえに二人で見たヒバリはいるかしら?」
「いるとも。そこはいつも春みたいに暖かいからね」
「きれいな花も?」
「もちろんだよ、エル」
「アザミは?スミレは?」
「それだけじゃない。木苺やタンポポだってある」
きゃあっ、と、歓声をあげて少女は男に抱きついた。
「すてき!ね、もっとお話して!」
せがむ少女を優しく押し戻して、男は首を横に振る。
「だめだエル。また咳が出るといけない」
男は、毛布を肩まで掛けてやってから、そっと頭を撫でた。
赤い瞳がこちらを見上げている。
たまらずに、抱きしめた。
(彼女の、)
男は思う。
(彼女の胸に巣食うのは、私の罪への罰だろうか)
けれど、もう、どうすることもできないのだった。
罪の上に罪を上塗りし、他人の血で命をあがなうより他に、男は方法を知らない。
彼は赦しを乞うように、少女の胸に額を寄せた。
(彼女を血にまみれさせるばかりで、天秤を浮かび上がらせることもできない)
赦して、赦さないで。
相反する願いを胸に抱いたままで、彼は少女を抱きしめる。
「大丈夫よ、パパ、大丈夫」
少女は諭すように、男の頬に手をあてる。
「だれもパパをおこってなんかいないよ」
男は黙って目を閉じた。
眉間には皺が刻まれたままだ。
少女は切なげに目を伏せた。
(わたしの知らない遠いところで、パパは何度も何度も化け物を殺す。
赤くなった腕を見て、ほんとうは泣きたかった彼を、わたしは知っている)
ねえ、パパ、
わたしをよぶ声が聞こえた。
パパ、きれいな花や鳥にかこまれたってうれしくないの。
赤い目から涙が落ちた。
楽園の外側で彼が泣いている。
彼はわたしに楽園をくれた。
そして、わたしはひとりぼっちになった。
もう二度とあの太い腕に抱えられることも、頬にふれることもない。
ああ、目を閉じれば聞こえる。
聞こえるのに。
(――わたしがいなければだれが彼の血を、罪を、ぬぐってやれるというの)