鴉雛A | ナノ


「月が綺麗ですね」


気まぐれにベランダに出て酒を飲んでいた鴉は、ひょっこりとリビングから顔を出してきた雛鳴子を暫し見遣った後、再び正面に浮かぶ月へ目を向けた。


「俺、今口説かれてんの?」

「はぁ?何でそうな…………あー、成る程」


一瞬、本気で何の事かと訝った雛鳴子であったが、そう言えばそんな言い回しがあったと思い出すや、至極迷惑そうに肩を竦めた。

月が綺麗だというのは、見たままのことを言っただけに過ぎない。
今日は珍しくゴミ町の空が晴れ、ぽっかりと浮かぶ丸い月も一際輝いて見える。その景観を褒めただけのことだと、雛鳴子は鴉に釘を刺した。彼がそれを理解してきた上で冷やかしているのは分かっているが、言っておかないとどうにも落ち着かないのだ。


「今のは感想であって、他意はありません。全くクソ面倒くさい翻訳してくれたものですね、昔の偉い人も」

「カッ、浪漫の欠片もねーな」

「不用品回収に出しましたので」


そう言って、雛鳴子はリビングへサッと引っ込んで行った――かと思えば、ほんの二、三分程度で戻ってきた。


「よいしょっと」

「何それ」

「私のお月見セットです」


どうも、此方の軽口に嫌気が差したのではなく、自分も月見に洒落込むべくあれこれ用意する為に戻っていたらしい。ベランダに乗り出してきた雛鳴子の手には、急須、湯呑み、貰い物の饅頭が乗った盆が握られていた。

それを室外機の上に置くと、雛鳴子は鴉の傍らに腰掛け、饅頭の封を開け始めた。
室外機の上に盆を置いているので、その近くに座りたいだけなのだろうが、それにしても此方との距離が近い気がした。

以前の雛鳴子であれば「鴉さんもっと向こうに詰めてください」と自分を無理矢理奥に追いやるか、そもそも隣に来てまで月見をしようとしていないだろう。
随分懐かれたものだと胸中で茶化しつつ、鴉が缶ビールを呷ると、饅頭をはぐりと齧っていた雛鳴子が、満足そうに微笑んだ。


「うん、美味しい。鴉さんにも特別に、一個だけあげましょうか?」

「あー……半分で良い」


酒を飲む時に甘いツマミは好んでいないが、断る気にもなれず、半分だけ貰い受けることにした。すると雛鳴子は、手持ちの饅頭を縦に割いて、やや小さく見える方を躊躇いなく渡してきた。


「はい、どーぞ」


そんなに食べたいのなら、一個要るかなどと聞かなければいい物をと思いつつ、鴉は手渡された饅頭の欠片を口に放った。

そう言えば、普通に食べかけの物で口が付いていた部分もあるが、雛鳴子は気にしないのかと今更考えてみたが、雛鳴子の方はまるで気付いていないらしい。残った半分の饅頭を食べながら、謎に得意げな顔で此方を見つめている。


「美味しいでしょ」

「ん」

「黒丸さんに貰ったんですよ。お店の場所教えてもらったので、今度行こうと思ってるんです」

「へぇ」

「お団子も美味しいらしいので、迷っちゃいそうです。餡子かみたらしか……まずそこから迷いますよね」

「そうだな」


適当に相槌を打ちつつ、饅頭を咀嚼し、嚥下する。

黒丸が持って来たというだけあって、成るほど確かに美味い。饅頭がこのクオリティであれば、他の商品にも期待が持てるだろう。
店前でどれにしようかと迷いに迷い、うんうんと唸る雛鳴子の姿が想像に易い。きっと散々悩んだ末に選びきれず、明らかに食べ過ぎだろう量を抱えて帰って来るのだろう――などと思惟していた時だった。


「…………あの」

「ん?」

「……私の顔、何かついてます?」


言われてやっと、鴉は気が付いた。

いつの間にか、顔が月ではなく雛鳴子の方を向いていたらしい。
しかも、随分しっかりと彼女を見つめていたようだ。何故にそんなにも此方を見てくるのだと困惑した様子の雛鳴子を更に暫し見つめた後、鴉は彼女の瞳を覗き込むようにしながら呟いた。


「いや。月より綺麗だから眺めてただけ」


数秒のインターバルを経た後、雛鳴子の顔がボッと紅潮した。

何を言われたのか理解するのに時間を要したのか、意味を理解した後から恥ずかしくなったのか。雛鳴子は丸めていた眼を吊り上げ、込み上げる気恥しさを晴らすかのように、鴉の肩を力任せに叩いた。


「ば、馬鹿なんじゃないですか?!な、何しれっとめちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってるんですか!!?」

「クク、照れてやんの」

「ちが……コレは、鴉さんがあまりに恥ずかしいこと言うからですよ!!き、綺麗とか、そういうこと言われて照れてる訳じゃないですから!!」


こうもキャンキャンと吠えられては風情も糞も無いが、一人で月を眺めていた時よりも不思議と酒が進む。

鴉はクククと肩を震わせながら、缶の中に残ったビールを呷り、耳まで真っ赤になった雛鳴子に目を細めた。


「可愛いなァ、お前」

「うるさい……」


これ以上からかえば、雛鳴子は拗ねて自室に逃げ込んでしまうだろう。もう少し戯れていたい所だが、何事も引き際が肝心だと鴉は口を閉ざし、再び月へ顔を向けた。


あの月よりも美しいと思ったのは、本心だ。

饅頭を齧りながら他愛の無い話をするその横顔も、そんなに見られては穴が空くだろうと訴えるような表情も、笑ってしまうほど赤くなった照れ顔も。心の底から美しく、愛おしいと、そう思った。


だから、月が綺麗だ程度では足りない。

この、世界で最も近くて遠い星を掴むには、もっと確かで強い言葉が必要なのだと、鴉は新しいビール缶のプルタブを開けた。


「…………明日のご飯、おうどんにしましょうか」

「卵のやつ?」

「はい」

「いいな。蒲鉾も入れてくれよ」

「勿論です」


また食い入るように見つめては、小鳥のように逃げ出すだろうと、彼女を横目で見遣る。

視界の端に映った気恥しそうにはにかむその顔は、やはり月よりも美しかった。








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