企画 | ナノ
食後のコーヒーを淹れたカップを手に、昼行灯はベランダの向こうに眼を遣る。
彼女のことを考えて、帝都管理局から程近い場所にしようと選んだ新居からは、アマテラスカンパニー本社ビルが見える。帝都有数の巨大ビルティングだ。凡そ何処に居ても見えるものだが、かつてツキカゲを構える時は、意識して見えない場所を選んでいた。
あのビルの頂上から、あの場所にある全てが、惨めな自分を見下しているような――そんな被害妄想めいた理由で、視界に映すことを避けていた。
だのに、此処から本社ビルが見えることに気付いたのは引っ越してから暫くしてからだというのだから、可笑しなものだ。
自分にとって忌々しいものとなった、輝かしい過去の象徴。この世界の何処にもいなくなった、アマガハラ・テルヒサという人間の墓標。それが恐ろしく些末なものに成り下がっていることに昼行灯は眉を顰めた。
忘れ去ってしまいたいと思っていた筈なのに、今は何故か、忘れてはならないと思うのだ。
まるで幼い子どもが、取るに足らないようなことで腹を立て、いつまでも拗ねているような。そんな気持ちがあるからこそ、彼はいつまでもヒナミを疑っている。
「そうでなければ、安請け合いが過ぎる。あの姉様が、弟の頼みだからと言って自分の立場が揺らぐような真似を二つ返事でするなど有り得ない。だから、彼女は最初から全て見通した上で私の頼みを聞き入れたのではないかと思うのですが」
ヒナミが”青花候”を探し、その為に弟を動かし、結果として失われていたコウヤマ・フミノリの真作四点が戻った。結果論に過ぎないが、本件を経て彼女は、帝都芸術史珠玉の至宝を取り戻したメシアとなった。
それが表沙汰にされることは無いが、この機を逃してなるものかとヒナミと美術業界は互いに手を取った。
再び注目を集めるコウヤマ・フミノリと、今最も帝都で名を馳せるアマガハラ・ヒナミ。この二人が交わることで、美術業界は未だかつてない盛り上がりを見せるだろう。
芸術を金にするというのはナンセンスな話だが、金があるから芸術は人の世に残り続ける。それに、昔から美術と政治というのは切り離せないものだと、来たる”真コウヤマ・フミノリ展”のイメージキャラクターの打ち合わせが決まったヒナミの言葉を思い返し、昼行灯は深く溜め息を吐く。
その傍らでクスクスとこそばゆい声を零しながら、彼女はコーヒーに溶けるミルクのように甘く微笑む。
「テルヒサさん、その方が安心するって言ってるみたい」
「そんなこと…………いや、そうですね。私は彼女に、何処までも打算的な人であってほしいのだと思います」
彼女に利用されるだけなど真っ平御免だと思っているのに、そうであった方が安堵出来る己がいる。
無償の愛を謳いながら、その裏で策略を張り巡らせ、全て己に還元しようと企んでいてほしい。そうでないと、自分一人がいつまでもムキになっているようで、困るのだ。
「姉だからとか弟だからとか……そういう感情を向けられるより、道具のように使われていたい。そうしたら……私は、彼女を許さないでいられるから」
彼女達から受けた仕打ちを許してなるものかと、憎悪の火が胸の奥で燻り続けている。
家の為、会社の為、財産の為、従業員達の為にと自分一人を切り捨てて、散々良いように使ってきたくせに、今更、どの面下げて。
それが正しいことだとは分かっている。自分だって、父や姉が呪いを受けていたのなら、同じようにした筈だ。
だから、納得はしている。彼女達を恨む気持ちだって、今はもう、落ち着いている。それでもヒナミからの施しを受け入れられないのは、許したくないという想いに苦悩したくないからだ。
許してしまえばそれで済むのに、頷けない。そんな自分を嫌悪するより、彼女達を恨み続けていた方が楽でいられるから、そうしたいのだ。
流石に軽蔑するだろうかと、僅かに恐れを孕んだ眼を向ける。だが、その杞憂はすぐに溶かされて、消えた。
「それでいいと思います」
夕日よりも温かく、柔らかい声が胸の中に射し込む。
何度醜い胸の内を曝そうと、彼女はちっぽけな心に寄り添って、穏やかに微笑んでくれる。それにどれだけ救われているか、きっと、彼女は知らない。
「ヒナミさんは……テルヒサさんに許されたいとか、これまでのことを無かったことにしたいとか、そういう気持ちは持ってないと思うんです。お姉ちゃんとして出来ることが出来たことや、テルヒサさんに頼ってもらえるようになったことが嬉しい。ヒナミさんの中にあるのはそういう気持ちだから、テルヒサさんに疑われても困惑されても、それでいいんじゃないかなって……私は、そう思います」
許してくれなくていい。許さなくていい。
何も無かったようにするには、余りに多くのことが在り過ぎた。最後に全て報われたからで済ませられる程、二人の溝は浅く無い。
ヒナミはそれを理解しているからこそ、何も求めない。ただ一方的に、見返りの無い愛を注ぐ。それが正し過ぎる程に正しい彼女の、今の正しさなのだ。
であれば、自分にはそれを止める術など無い。
飲み切れない想いを喉に痞えさせたまま、カップに残ったコーヒーを呷った昼行灯は、ベランダの策に俯せて、深く溜め息を吐いた。
「……やはり私は、あの人が苦手だ」
「ふふ。テルヒサさん、眉毛の間がしわくちゃです」
人差し指を使って眉間に皺を作って、悪戯っぽく笑う彼女の膝に置かれた本を見遣る。
――貴方を、許そう。
海と空が交わる所まで行っても、そんな言葉を口にすることは出来ないだろう。けれど、そんなちっぽけな呪いすら抱えていたいと今は思う。この中途半端に纏わり付いた、異形の呪いと共に。
「あ、戻った」
「……今のは意図して戻しました」
「自分で切り替えられるようになったんですか?」
「此方に戻る時だけは、自分の意志で出来るようになりました。あともう少しで、ランプから人も出来るようになると思うのですが…………やはり人の顔の方が良かったですか?」
「いいえ」
サッシに下ろしていた彼女が腰を上げ、温度のない鉄とガラスに唇を寄せる。
この顔が人のものであっても、ランプに変じていても、彼女は躊躇わず口付ける。それが嬉しくもあり、時に、少しばかし憎たらしかった。
「どっちも私の大好きなテルヒサさんですから」
どうしてこうも、無意識的に人の心を掻き乱してくれるのか。
幾ら現人神とはいえ、息をするように誰も彼も陥落させるのは勘弁願いたい。
キヅネから”青花候”を渡されて来た時もそうだと、昼行灯は意図せず戻った人の顔を、意図して意地悪そうに歪めて笑った。
「人たらし」
そのチャチな独占欲から来る悪態さえ、彼女は愛しそうに口づけてくれた。