企画 | ナノ
伸ばしっぱなしの後ろ髪を掴まれたように、体が後ろに引き戻された。
只でさえ強い引力を持つその名前。加えて本の表紙、と来ている。見えざる手が背負った鞄の中から伸びて、喉を締め付ける。そんな心地の中、男は息を殺しながら女の手元を見遣る。
其処にあったのは、やはり、あの忌々しい作家の書いた本であった。
「土産のポストカード持って帰った時、母さんが言ってた。実際そうなのかどうか分かんないけど、多分そうなんじゃないか〜って言われてんだって」
「そうなんだぁ……知らなかった」
よもや、あの女二人が追手なのか。偶然にしては出来過ぎた邂逅に、男の心臓が不穏に高鳴る。
あの女達はその鼓動を、心の中で嘲笑っているのではないか。文庫本サイズに縮められた彼の絵をしげしげと眺める女達に男は身を強張らせ、二人を怯えを孕んだ眼で見据える。
何時、自分の首が取られるかも分からない緊迫感。真後ろに誰かが立っているかのような錯覚。一人でに追い詰められていく男を余所に、女達は呑気にこの本に纏わる巷説について考えを巡らせていく。
「でもなんか、この絵は何からしくないよな。やっぱ小説の表紙だからか?」
「うーん…………多分、だけどね」
本を持っていた女の方が、その絵と同じ色をした眼を細める。
文庫本サイズに縮められた知られざる名画。青の濃淡だけで描かれた花々が咲き誇る丘と、透き通るような空。それが何を意味しているものなのか、彼女の瞳は見据えていた。
「きっとこの絵は、このお話を読んだ人を見ながら描いたものだと思うの」
指に足にこびり付き、皮膚の一部のように纏い続けた泥が、根こそぎ洗い流されたような気がした。
それは乾いた大地に降り注ぐ慈雨の如く、男の心を強烈に穿つ。
「私、”ネモフィラヶ丘”を読み終えた時、この絵に描かれてるお花畑が胸の中に広がるような……そんな気持ちになったの。この絵を描いたのがコウヤマ・フミノリさんかどうかは確かじゃないけど……でも、この絵に描かれているのは、そういう気持ちなんじゃないかなって。そう思うの」
「じゃあコレ、仮にコウヤマ・フミノリの絵だとしたら心象画なんだな。すげー珍しいじゃん」
「そうだね。あの人、風景画家だもんね」
嗚呼、そうだ。そうなのだ。
彼は風景画家だ。その眼に見たものを見たままに、感じたままに描く。あの人の作品は、そういう物なのだ。
だから、彼が架空の景色を描くとすればそれは、心象画なのだ。
”青花候”は物語の中に在る景色を描いたものではない。このキャンバスの中にあるのは、”ネモフィラヶ丘”という物語に触れた人が見せた心なのだ。
それこそが、真実。それこそが、この絵に宿る本当の、本物の、価値。
泣き咽びたくなるような想いをぐっと飲み込み、男はベンチから腰を上げる。
もうこんな所には居られない。行き着くべき場所が此処であったなら、果たさねばならない。
嘘のように軽くなった体で、冗談のように重くなった鞄を背負いながら、男は歩く。それはまるで、自ら首を差し出すかのような、そんな歩みだった。