FREAK OUT | ナノ
悲劇は、既に胎動を始めていた。
「……芥花さんの、お母さん」
「そう。あの子から、話を聞いたことあるかしら?」
「……一、応」
「あら、それは意外。あの子は私のこと苦手だから、黙ってるとばかり」
此処に愛が至るよりも、遥か以前から。悪意めいた奔流は形作られて、脈々と悲しみを育んできていた。
そうとも知らず、知る由もなく。愛は、自身を喰らい尽くす、運命という名の魔物が眠る場所へと、歩み寄ってしまった。
「それより、愛ちゃん。貴方、どうして此処に?さっき慈島くんが運ばれてきたのと、何か関係あるの?」
「あの、えっと、その…………ちょっと、色々あって……慈島さんがお仕事から戻るまで、待ってるんです」
「あぁ、だから……」
もし、彼女が待ち受ける未来を、その片鱗でも知ることが出来ていたのなら。カオルが声を掛けてきた時点で立ち上がって、何処ともなく逃げ出していただろうに。
誰もが真実を語ることを恐れ、口籠ってきたが為に、愛は踵を返すこともなく、破滅への一歩を踏み出してしまった。
「ねぇ。それなら、ちょっといいかしら。前々から……貴方に会えたら、話したいことがあったの」
悲劇は、既に胎動を始めていた。
あとはもう、産声を上げるだけだった。
FREAK OUT本部。その東館は、科学部と技術部が使用しており、各部長、或いは、これらを管理する統轄部の古池司令官の許可が降りなければ、本部勤務の能力者でさえ立ち入ることは許されない。
そんな場所に、何故自分が通されることになったのか。
そも、初対面であるカオルが、予てから話したいと望んでいたこととは何なのか。
不明瞭さと緊張で、どうにも足取りが重い愛に対し、前を先導するカオルは非常に上機嫌な様子だった。
カツカツとヒールを鳴らし、白衣と結髪を揺らし、カオルは意気揚々と愛を連れ、薄暗い東館の廊下を行く。
鼻をちりりと焼くような薬品の匂い、ブーーンと静かに鳴り響く機械音、控えめな蛍光灯の明かり。
地下の医療部も、空気自体は似たようなものだったというのに。どうしてこうも不気味な場所に感じられるのかと、愛はカオルの後ろを必死について歩いた。
一人取り残されたら最後。そのまま帰ってこれなくなってしまうような。そんな漠然とした鬼胎に背を押されながら進むと、間もなく「科学部長室」と書かれたプレートが目に入った。
問うまでもない。この部屋は、カオルの城なのだろうと、愛はぴったりと閉じられた扉の前で、そう感じた。
「ごめんなさいね。ちょっと散らかってて……今、お茶淹れてくるから待ってて。あ、コーヒーの方がいいかしら?」
「あ、いえ……お茶で、大丈夫です」
「そう」
室内は、散らかっているというより、物が犇いているという印象を受けた。
大きな机の上に積み重なった無数の書類、本棚に引き出しにぎっちりと詰まった付箋だらけの本やファイル。備え付けのカウンターデスクには、試験官やビーカーがずらりと並び、壁際の棚には何かのホルマリン漬けや薬品の瓶類が見える。
また別の方へ眼をやれば、ハツカネズミが入ったプラスティックケージや、鮒か何かが泳ぐ水槽もあって、まるで理科室のような部屋だと、愛はソファの上で、肩を窄めた。
カオル自体は、厳格な人物ではない。寧ろ友好的かつフランクで、そうした点は芥花によく似ていると言える。正しくは、彼がカオルに似ているのだろうが。
だが、所狭しと物が並んでいる為か、例に漏れずこの部屋も薄暗い為か、見慣れぬ器具が多い為か。此方を押し潰すような圧迫感が感ぜられて、どうにも落ち着かない。
肩が凝りそうな場所だと、愛が小さく溜め息を吐く頃。電気ポットから湯を出して、紅茶を作ってきたカオルが戻ってきた。
安い市販品の紅茶のティーパックが、じわじわと色を吐き出していく。
何となくその様を眺めていると、インスタントコーヒーを淹れたカップをぐるぐるとマドラーでかき混ぜながら、カオルが堪え切れないというように、口を開いた。
「突然だけど、愛ちゃん。貴方……能力を得たいと思ってはいないかしら」
カップに伸ばし掛けた手が、雷撃を受けたような衝撃でぴたりと止まる。
彼女の前では一切見せたつもりのない核心を突かれ、愛は呼吸を呑み込んだ。
此処に至るまでの会話で、愛が覚醒を望んでいることに繋がるような応答は、していない。
未だ慈島と、事務所の面々しか知らない筈の心根を、何故今日初めて出会った間柄であるカオルが知っているのか。
尋ねようにも言葉が出ず、絶句する愛の前で、カオルは取り繕うように補足した。
「いや、ね。貴方、慈島くんのところで、手伝いをしてるって聞いたの。それで、もしかしたら……って思ったのだけれど」
カオルは、「違う?」と確かめるように首を傾げ、愛は黙って小さく頷いた。
愛がFREAK OUTの業務を手伝っているということは、慈島の口から上層部に伝えられている。
かの”英雄”の娘とはいえ、一般人であり、部外者である愛を、黙って仕事に携わらせる訳にはいかない。
あくまで簡単な雑務の手伝いのみ。業務中に知った情報は、決して口外しないことを彼女に約束させたと、慈島が上に話を通してくれたということは、愛も聞いていた。
だから、カオルがそれを耳にして、もしやと踏んでいたのもおかしくはないかと、一つ疑問は消えた。
間もなく、その空白を埋めるようにして、胸に不安と期待が込み上げてきて。
愛は無自覚に、明らかに食い入るような面持ちをして、カオルの話に耳を向けてしまっていた。
それはまさに、釣り餌に掛かった魚そのものだというのに。カオルの笑みに邪悪の色を差したことにさえ気付けぬまま、愛は引き込まれていく。
一線を越えれば決して戻れぬ、血の道の入口へと。
「私ね、能力の覚醒研究をしているの。偶発的にしか起こりえない覚醒を、人工的に促すことが出来たら……それは侵略区域奪還の為の、大きな希望になるでしょう?
だからね、私はFREAK OUTに来てからずっと、その研究をしてきたわ。
色んな研究をして、色んな実験をして……実に多くの時間と資金を費やしてきた。その果てに、最近あることを発見したの」
「あること、って…………」
カオルは、開幕時の突如切り掛かるようなやり方をがらりと変え、今度は焦らすような回りくどい方法で、更にコーヒーを飲みながら、じりじりと話を進めた。
それが、最も愛を上手く捕えることになるという、策略の上で。
「愛ちゃん。貴方は、どうして人が能力に目覚めるか知ってる?」
「えっと……セフィロトの花粉が脳にどうたらって…………」
「そう。セフィロトの花粉は、それを吸い込んだ生物の脳に寄生し……そこで、何かしらの切っ掛けを経ると活性化して、腫瘍を作るの」
一般市民の不安を増長させぬよう、帝京政府の一部と、FREAK OUTのみが知る非公開の情報というのは多い。
よって、”英雄の娘”であり、慈島のもとで手伝いをしている愛も、知識量は他の非能力者とほぼ変わりない。
フリークスに関して、クリフォト・セフィロトに関して、能力について。全て、テレビで取り扱われる程度の、最低限の基礎知識しか持っていない。
誰も、率先して教えようとしてこなかったのだ。
戦わずに済むやもしれない者に対し、運が悪ければ立ち向かうことになるだろう脅威について、詳しく説こうとする人間が、帝京の社会には存在しない。
全貌を知るのは、知らなければならない者のみ。後は素知らぬ顔をして、安穏と日々を過ごしていればいい。
そういうシステムのもとに成り立つ帝京に於いて、保護される立場に居続けた愛は、限りなく無知であり、周囲もそれを当たり前のように許してきた。
故に。カオルはゆるりゆるりと真実と紐解いた。
誰も語らずにいた秘密を打ち明かすようにすることで、愛の期待と感心を煽り、深みへと落とし込む為に。
「それはとても小さな腫瘍で、命に別状はないわ。けど、それは脳に掛けられたリミッターを解除して、生物が持つ超能力を引き出す。これが、能力の覚醒現象。
じゃあ一体、どうしたらこの現象が起こるのか……長年研究してきたけれど、結論から言えば、覚醒は完全に運で、タイミングもランダムだったわ。
けど、つい最近……動物の能力付与実験をして、判明したの。セフィロトの花粉を、強制的に活性化させる方法が、ね」
「――!」
もし愛が、芥花の話をもっと聞き込んでいたのなら。もし芥花が、愛に根掘り葉掘り話をしていたのなら。
彼女はカオルの狡猾さに気付いて、引き下がることが出来ただろうか。
いや、恐らく――芥花カオルがどのような女か熟知していたとしても、愛は、逃れることが出来なかっただろう。
「勿論、百パーセント上手くはいかない……とてもハイリスクな方法だわ。
でもね、愛ちゃん……”英雄”の娘である貴方なら、きっと上手くいく……必ず、私達の希望になってくれると、そう思う。
だから……もし貴方が、お父さんのように力を得て、慈島くんを助けたいと思うなら……是非、協力してほしいの」
手を伸ばしても、その影すら見えない程に途方もない望みを、目の前にちらつかされて。耳触りの良い言葉で巧みに煽動されて、踵を返すことなど、愛には出来ない。
(それでも俺は、君を一人にはしない。例え何があっても俺は…必ず君の元へ帰ってくる。だから、君も……一人になろうとしないでくれ)
(俺は、あの海の向こうで…まだ徹雄さんが戦っていると信じている。あの人は本物の”英雄”で…フリークスなんかにやられる人じゃないと…そう思っているからだ)
(……俺達の仕事になんか、関わるべきじゃない。君が思っているよりずっと…この世界は、残酷で、惨忍だ。見なくて済むのなら……見るべきじゃない)
(……それが、君の望む贖いなら)
(俺は……絶対に、帰って来るから。怪我して、騒がせて、どの口がって思うだろうけど…………何があっても、愛ちゃんとの約束は守るから)
カオルの差し出す手を取れば、愛は羽ばたける。
慈島が一人で立つ場所へ――”英雄”さえも呑まれた戦場へ、正面から踏み込むことが出来る。彼と肩を並べて、戦うことが出来る。
渇望していた未来が、予期せぬ形で訪れようとしていた。
その喜びと困惑で掻き乱された心が、ばくばくと音を上げていく。
それは今にも、卵の殻を破り、外の世界へ飛び出さんとしているような――浅はかな希望の鼓動であった。
「私が……お父さんみたいに…………」
「えぇ、そうよ、愛ちゃん」
未だ迷いにぐらつく愛に止めを刺すように、カオルはにったりと口角を吊り上げながら、囁いた。
愛にとって何よりも魅惑的で、甘美な言葉を。彼女の心に搦めるように。
「貴方は、”英雄”になれる」