霊食主義者の調理人 | ナノ


完食と同時に、キッチンの空気がふっと軽くなったような気がして、オーナーシェフは目を瞠った。

よく見れば、床や壁を濡らしていたポルターガイストの血も、今は一滴たりとて見当たらず。伊調が使った油でさえ、綺麗さっぱり消えて無くなっていた。

後に残っているのは、投げつけられた包丁や皿の残骸のみ。これは、後から来る教会の掃除人が片付けてくれるというので案じることはないが、そんなことを気にしている余裕は未だ無かった。


――本当に、終わったのだ。

三ヶ月に渡りこのレストランを苛んでいたモノが完全に消滅したことを認識し、オーナーシェフはずる、と脱力した。


この眼で見るまでとても信じられなかった超常現象のオンパレード。思い返すと、震えがぶり返してきそうだと、オーナーシェフは力無く乾いた笑いを零す。

そんな彼を余所に、伊調は初仕事が無事に終えた余韻に浸り、羽美子は手持ちのナプキンで口元を拭いながら満足げな笑みを浮かべていた。


「久し振りに、いい食事だったわ。ありがとう、伊調」

「……久し振り、ね」


意味深な言葉を反芻しながら、伊調は苦々しい微笑を返した。


羽美子のことは、悪霊調理術を伝授される前から聞かされている。

霊喰らいの退魔師一族・神喰。その先代当主である彼女の母親が五年前に逝去し、当時五歳の身で神喰当主の座に就くことになった少女。
彼女の専属調理人として、悪霊調理術を学ぶことになった時、伊調は師から聞かされていた。
俄かには信じ難い、神喰羽美子という人物の、あまりに特異な食性を。


「あんた、本当に霊しか食べないんだな」

「えぇ。別に、普通の食事も食べれないことはないのだけれどね」


この世には、星の数程の食材と料理があるというのに、羽美子はそれらに見向きもせず、霊のみを食べる”霊食主義者”であった。

霊餐の使い手が、霊だけを食べるということはなく。彼女が言った通り、普通の食事も普通に摂れるし、寧ろ其方を主とする者が殆どだった。
霊というのは好んで食べるものでもないし、歴代当主の中には出来る限り霊を口にしたくない、という者もいたくらいだ。


しかし、羽美子は違った。

彼女は霊こそ至高の食であると、通常の食事をほぼ摂らず。霊という霊を端から喰らい尽くしていくことを求めるようになった、稀代の奇人。

それが自分の主なのだと再認識して、伊調は溜め息を吐いたが、恍惚と己の美食自論を語る羽美子には、聴こえていないだろう。


「この世ならざるモノの味を堪能出来るのは、私が神喰に生まれた故に与えられた特権だもの。その特権を存分に使い、あらゆる霊を食い尽くす……それは、今の私にしか出来ないこと。そうでしょう?」

「……よくもまぁ、その歳でその考えに至ったモンだ」

「子供らしくないとはよく言われるわ」

「だろうな」


五歳という幼い時分から、霊餐使いの退魔師として各地を連れ回されていた為だろうか。
彼女がやたら大人びている理由は何となく嗅ぎ取れたが、この粋狂っぷりは果たして生まれながらのものなのか。
はたまた、霊を食べ続けている内に目覚めた結果なのか。

何にせよ、これから彼女の専属調理人として仕えていくのは、中々どうして苦労そうだと伊調が肩を落とした時だった。


「まぁ、そういう訳だから。今後、私の為によろしくね、伊調」


遅ればせながら、と挨拶を交えつつ、羽美子が差し出してきた物を見て、伊調は数秒固まった。


目の前にあるは、此処に来る前、資料にと渡された茶封筒と全く同じ物。

もしや、と伊調が冷や汗を掻く中。羽美子はニコニコと、随分子供らしい笑顔をしてみせた。


「……お嬢、これは?」

「次の仕事先」


やっぱりか、と膝から崩れ落ちそうになる伊調にはお構いなしに、羽美子は上機嫌で身を翻し、スカートを躍らせた。

もう彼女の頭の中は、次の食事のことでいっぱいらしい。
キラキラ、憎たらしいくらい眼を輝かせ、羽美子は伊調を急かすように彼の手を引いていく。


「前菜がこれだけ見事だったから、拍子抜けしてしまうかもしれないけれど、近くだし、せっかくだから食べていきましょう」

「待て待て待て! あんたまさか、三食フルコースで悪霊食べる気じゃあねぇだろうな?!」

「腹もち次第ね」

「アレじゃまだ足りないっつーのか?! そんな細っこいくせに、どんだけ大食漢だよ!!」


ブラック企業務めに嫌気が差し、飛び出した先でスカウトを受け、退魔師に転職。
数十年に一度の傑物と褒めそやされ、悪霊調理人免許まで取得したが、この選択は果たして、正しかったのだろうか。

少なくとも、給料は前の比にならない程高額だし、休日も確保されているようだが、この主のもとで、自分はいつまでまともでいられるか。


羽美子に手を引かれながら、伊調は祈った。

どうか自分が名誉の死を遂げ、彼女の腹に納められる日が来ないように、と。


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