楽園のシラベ | ナノ


ぱち、と開いた眼には、暗い天井が映った。

随分長い夢を見ていたと思ったのだが、未だ夜更けらしい。頭を横にすれば、窓の外には満天の星と、青白い月が見える。

かなり、疲れていたんだがなと思いながら、リヴェルはベッドから体を起こし、窓際に備えられた椅子に腰かけた。


キャロラベル大陸を余すとこなく回って、いよいよ別の大陸に乗り出るしかないと、海を渡った。

母親は、自分のことは気にせず、好きなだけ旅をしろと言ってくれた。
その言葉に甘えて、果てしなく広大な世界を周って、数年。
未だ、希望の光は見えず。ついに、二つ目の大陸にまで来てしまった。

そろそろ潮時と言われても、仕方ない頃だ。
しかし、リヴェルは寧ろ、此処まで来たのならば、世界の隅々まで行くべきだと思っていた。

中途半端に足を運んで、諦めた方が、後悔は大きい。ならば、最後まで貫き通してみるのだって、悪くない筈だ。
そう、自身に言い聞かせでもしないと、胸が痛むのだ。

特にこんな、彼を思い出させる星夜には――。


「起キタノカ、リヴェル」


星空に攫われていた意識が、背後から投げかけられた声によって戻ってきた。

はっとなって振り向けば、案の定。寝静まっていた筈のシソツクネが、じっと此方を見ていた。


「悪い。起こしちまったか?」

「イヤ。ナントナク、目ガ覚メタダケダ」


言いながら、シソツクネは羽ばたき、窓の桟に腰を下ろした。

リヴェルは自分が物音を立てて、シソツクネを起こしてしまったのではないかと思っていたが、彼が起きたのは偶然であった。

何となく、意識が水面の上に浮いて来て。そのまま微睡もおうか悩みながら、薄ら目蓋を開いたところで、窓際で空を眺めるリヴェルの姿が見えた。

体は窓の方を向いていたので、リヴェルの顔は窺えなかった。
それでも。丸められ、小さくなった背中が、何によって押し潰されそうになっているのか、彼には理解出来て。
今にもぺしゃんこになってしまいそうなリヴェルをそのままに眠れやしないと、シソツクネは体を起こし、彼女に声を掛け、わざわざ近くまで飛んできた。


――気を遣わせてしまった、か。


リヴェルは、やや申し訳なさそうにしながら、寝癖のついたシソツクネの頭を指先で撫でた。

今彼女達がいるジプターは、昼夜の温度差が激しい土地だ。
昼間は灼熱の太陽が容赦なく照り付ける炎天下だが、夜は着こまなければ震える程に寒い。

そんなジプターの夜の空気で、きんと冷えた指と、寂寥に脅かされた心に、シソツクネの羽毛はとても温かい。
その温度に、凍えていた表情が融かされていくのを感じながら、リヴェルは眼を伏せた。


夜風が砂を運ぶ音さえ聴こえるような静けさが、鼓膜を撫ぜる。

そんな静寂の中、彼を思い出すような景色を眺めるのは、あまりに寂しい気がして。リヴェルは小さく唇を動かして、歌を口遊んだ。


ふと脳裏を過った、あの、ただのとびきり古い歌。彼が歌っていたものと知ってから、頭を離れなくなってしまった、古めかしい旋律。

何処で生まれたものなのか、誰が作ったものかも分からないその歌を、深層で彼の面影を追う時、つい口にしてしまう。

訳も分からず懐かしいこのメロディが、過去にしかいない彼と、今の自分を繋いでくれるようで。リヴェルは、彼の影を手繰り寄せるように、歌った。
意味さえ知らない歌詞に、彼への想いをひた乗せて。

やがて、歌が終わり、再び部屋に静寂が訪れた頃。ぽつりと、思い出したようにシソツクネが口を開いた。


「……前ニ、コノ宿ニ泊マッタ時。アイツモ、コウシテ外ヲ眺メテ歌ッテタナ」

「この歌を、か?」

「アア」


この宿は、かつてシラベが宿泊していた場所だった。

それを知っていて、此処で夜を明かすことを決めたリヴェルであったが。まさか、彼も自分と同じようなことをしていたとは。

小さく驚くリヴェルにシソツクネは、此処でもう一つ秘蔵の情報を、と得意気な面持ちで、一言付け加えた。


「コノ、タダノトビキリ古イ歌……実ハ、子守リ歌ナンダゼ」

「子守り歌?」

「ソウ。コノ星ガ、《イニシエート》達自身ノ調律ノ為ニ作ッタノガ、コノ歌ラシイ。シラベガ、オレニ全テ放リ投ゲテ行ッタ時……オ前ラニ手紙ヲ渡スコトヲ条件ニ、聞イタンダ。コノ歌ノ正体ヲ」


そういうことだったのか、とリヴェルは妙に納得してしまった。

自分が初めてこの歌を耳にした時に覚えたのも、旅を始めてから各地でこれを口遊んだ時に言われたのも、同じ。
誰もが共通して、この、ただのとびきり古い歌を、懐かしいと感じていた。

発祥も、ルーツも分からない。有名な歌曲でもない。それなのに、何処の誰が聴いても、懐古感を覚えるのは、何故なのか。

その答えは、単純。これが子守り歌であり、全ての命の母たるこの星が作り賜うたものだからだ。


「アイツ、子守リ歌ヲ口遊ンデルッテ知ラレルノガ恥ズカシイカラッテ、アンナ風ニ言ッテタンダト」

「……ふっ。じゃあ、あの呼び方、ただの照れ隠しだったのか」

「ソーイウコトダナ」


母が、子の為に歌う、何よりも優しい歌。記憶よりも体に刻み込まれてきた、命の旋律。
知らずとも懐かしいのは、自分達がこの星に生まれ、育まれてきたものだからだろう。

そういう意味では、ずっと昔から、自分は彼と繋がっていたのだと。リヴェルは頬杖を突いた。


再び訪れた閑寂の中。手首越しに、自分の鼓動が聴こえる。

これは、遥か昔。この星の誕生からずっと、脈々と受け継がれてきた、命の一節。
今こうして、自分の心臓が正常に動き続けていること。それ自体が、途轍もない奇跡だった。

あまりに身近で気付かなかったが、今自分が生きていることを思えば――何もかもが、なんてことないじゃないかと、リヴェルは自嘲した。


「なぁ、シソツクネ」

「ン?」

「あいつに会ったら、聞いてみようぜ。子守り歌を歌ってる時、どんな気分だったのか……ってさ」


楽園を探すよりも、ずっと困難なことかもしれない。

この広い世界を一人と一羽で歩き回り、いるのか否かも分からぬ人物を探し出すのは。流れ星に祈りを届けるより難しいことかもしれない。

だが、あらゆる奇跡の果てに今があるのなら――もう一つくらい欲張ってみても、いいのではないだろうか。


「あいつ、きっと見たこともないような顔するだろうからさ。その時は、二人で思い切り、笑ってやろう。あいつに、してやられた分さ」

「……トコトン罪作リナ男ダナ、アイツモ」

「あぁ。だから、失楽園なんてしちまったんだ」


縋りついてみなければ、始まらない。

かつて、絶望に苛まれながらも、我武者羅に足を動かして、荒野を彷徨っていなければ、彼に出会うことさえ無かったように。
どれだけ無茶でも無謀でも、希望を捨てずに歩き続ければ、あの時のように、素晴らしい何かと廻り合える筈だ。


(なぁ、本当にあるんだよな、楽園は)


彼女がそう問いかけた時と、男は青い林檎を齧って、こう言った。


(それを決めるのは、お前だ。ストレイ・シープ)


気取ったように笑いながら、林檎を投げてきた男が、どうしてそう答えたのか、今の彼女にはよく分かる。


楽園なんてものは、何処にも在りはしない。だからこそ、この世界の何処だって楽園に成り得る。

何処が楽園か。それを決めるのは、自分自身なのだ。


では、今の自分にとっての楽園とは何処か。

そんなもの、決まっている。
この世界の何処かにいるかもしれない彼のいる場所。それこそが、リヴェルにとっての楽園であり、探し求めるべき、新たな希望だ。


「噂話、夢幻と言われているあの場所に、あいつはいた。なら……噂話、夢幻になったあいつがいたって、おかしくない」


今度こそ、掴みとってみせよう。
別れの日、届かなかった彼の手を。もう二度と離さないくらいの気持ちで。

大丈夫。この手で流れ星を取るよりも、ずっと簡単なことだ。

そう自らの心に囁きながら、リヴェルはこの空の先にいるかもしれない彼へ向け、手を伸ばした。


「だから私、探すよ、シラベ。アンタがいる……私の楽園を」


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