楽園のシラベ | ナノ
「はー……食った食った」
「お気に召したようで何よりです、レディ」
デザートに木苺のタルトまで頼み、十二分に腹を満たしたところで、一行は≪牛の宴亭≫を出た。
夜になっても、アンムルブッシュは灯りと行き交う人々が絶えなかったが。やはり、昼間に比べるといくらか落ち着いている。
行きよりも歩き易くなった道を、腹ごなしにとゆっくり歩きながら、リヴェル達は取り留めのない話を交わした。
「料理は満点だ。だが、レディのエスコート先に選ぶにゃどうなんだ?」
「ハッハハ。そうだな、次はお上品なリストランテにしておくか」
「冗談だ。お上品なリストランテなんてガラじゃないしよ。ああいうとこのが気楽でいいや」
夜風に吹かれ、ドレスがふわりと靡く。
昼間に掻いた汗と、≪牛の宴亭≫に満ちていた酒と煙草の匂いを吸って、いよいよドレスからもお人形らしさが抜けてきた。
せっかく買ってもらったものだが、よくよく考えれば、代金を請求されたのだから、別にいいかと、リヴェルは石畳の道をカツンと踏み鳴らす。
「美味かったよ、肉団子ボロネーゼ。今まで食ってきた料理で、第二位だ」
「ほう、そりゃ光栄だ。ちなみに第一位は?」
「母さんの作ったシチューと、くるみパン」
ぴた、と足が止まったシラベの先へ、リヴェルはトントンと、跳ねるように進む。
そして、躍るようにくるりと踵を返すと、リヴェルは心の慟哭を噛み殺した、悲痛な笑みで此方を見遣ってきた。
「……シラベ。私…………これでいいのかな」
その一言で、シラベは察し、同時に、悪い予感程当たるものだと、舌打ちしたい思いを嚥下した。
自分がそう思ったから、そうなった、という訳でもないのに。
目の前で、酷く心を痛めている少女を前にして、シラベは悔いたくもなったのだ。
「アンタのこと、急かすつもりじゃないんだ。約束したし……ちゃんと、仕方ないことだって理解もしてる。
けど……母さん、今、ちゃんと飯食ってるかも分からないってのにさ……私だけこんなんで、バチ当たるんじゃないかって気がして…………」
着飾っても、美味い物で腹を満たしても、胸の奥に深く刻まれた傷は癒えない。
燃え盛る故郷、奪われた日常、自分を庇って殺された父親と、身代わりになって攫われた母親。
それらに背を押され、這いつくばるようにして生きて、シラベと出会って――心許ないにも程があった希望が、ほんの少し膨らんで。
幾何かの余裕こそ生じてくれたが、リヴェルは今も、怖くて、不安で。この場で蹲って、わんわんと声を上げて泣いてしまいたいくらい、心が痛んでいる。
だから、シラベとこうして、存分に食事したりして、いいものだろうか。いや、いい訳がないと、リヴェルは目を潤ませていた。
その痛ましい姿を前に暫し沈黙していると、シソツクネがこめかみをコツンと突いてきた。
何か言ってやれ、ということなのだろう。
シラベは、そう急かされずとも、と言うように軽く頭突きで返して、歩を進めた。
「……いつか」
俯くリヴェルの、小さな肩を軽く叩く。
不相応なまでに重たい使命と悲しみを背負い込んだその体が、自責の念に捕らわれないよう。
シラベは、未だに一人ぼっちでいるリヴェルに、しっかりと声が届くようにと、息を吸って、ゆっくりと。かつ、力強い声で囁いた。
「いつかお前が、その手で母ちゃんを救い出した時は……俺が紹介してやった飯屋に連れてってやれ」
刹那。リヴェルは、シラベの声以外の何もかもが、消えてしまったような感覚に見舞われた。
近くの店から漏れ出る賑わいも、緩やかな風が吹く音も。
この身を押し潰すように降り注いでいた何かさえ、何処かへ行ってしまったようで。
項垂れていた頭を上げて、リヴェルは、真っ直ぐに此方を見つめてくるシラベに、弱々しい息を呑んだ。
「世界各地を渡ってきた男が勧める最高の店だって、二人で飯を食うんだ。その為に、今はたらふく食って、店の名前と場所を覚えとけ。バチなんか当たりゃしねぇ。存分に食っていけよ、育ち盛り」
滲んだ世界が、すぅと晴れていくような気がした。
一粒、涙が零れ落ちたせいか。其処に、シラベがいるせいか。
分からない。だが、確かに今、胸を刺すような痛みは、温かく溶けていて。
安堵感の中、シラベが歯を見せて、快濶に笑いながら告げた言葉に、リヴェルは眼を見開いた。
「また、母ちゃんが飯作ってくれた時にはこう言ってやれよ。『やっぱり母さんの料理が世界一』だって。
それと、『商人シラベにもいつか、シチューとくるみパンを食べさせてやるといい』とも、伝えといてくれ。
世界一の味、俺も堪能してみてぇからよ。リストランテ・リヴェルママ、予約頼んだぜ」
リヴェルの未来には、恐ろしいものばかりが待ち受けていた。
いつ誰に牙を剥かれるかも分からず、誰かを頼ることも出来ず。襲い来るものを打ちのめす力もなく。ただただ、身を小さくして、震えないよう、立ち止まらないようにするのが精一杯だった。
シラベと出会って、彼と旅をするようになっても、挫けたくなる想いにしがみ付かれて。考えないようにしていても、最悪の事態ばかりを描いてしまっていた。
そんなビジョンを作る罪の意識さえも、シラベの言葉は取っ払ってくれた。
リヴェルは、またボロボロと零れてしまいそうな涙をぐっと堪えて、また強がるように笑ってみせた。
「あぁ、そうだな……そうするよ」
今度のそれは、花が綻ぶような明るさを湛えていた。