楽園のシラベ | ナノ


「お前、送ってやるからもう帰りな」


拘束から解放されたリヴェルに、シラベが向けた言葉は変わらなかった。

それは、至極尤もな意見だとは思うし、リヴェルとて、反論出来たものではないことくらい、分かっている。
彼の忠告を振りほどき、まんまとエルドフに騙されて、危うく売られかけたのだ。

誰から見ても、彼女自身から見たって、リヴェルはシラベに従い、帰るべきである。そんなことは、分かっている。分かっているが、それでも、リヴェルはうんと言えなかった。


「あるかどうかも分からない場所の為に、またこんな目に遭うのも覚悟で旅を続ける気か? そうまでして、お前は何が欲しいってんだ」


ここまできても譲らない頑固さに呆れた様子のシラベの前で、リヴェルは沈黙する。


シラベの言葉に頷きたい気持ちは、ある。

わざわざシソツクネに後を付けさせて、攫われたと分かるや助けに来てくれた彼の、本当の善意に縋りたい。今すぐにでも、彼が伸ばしてくれる手を取ってしまいたい。

それでも、リヴェルにはそう出来ない理由があった。


「……帰る場所なんか、ない」


脳裏に焼き付いて離れない、燃え盛る炎と、叫ぶ人。
惨劇の記憶が、リヴェルの胸を締め付けて、消えてくれない痛みを呼び覚ます。

深く項垂れ、角を覆い隠すように頭を抱えるリヴェルに、シラベが言葉を失っていると、弱々しい少女の涙声が、ぽつりと落ちた。


「私の帰る場所は……賊に奪われた。私にはもう……戻る家も、待ってる家族もいないんだ。何もかも……私が、取り戻すしかないんだ…………」





リヴェルの故郷グラーノ村は、山奥にある平和な田舎村で、人々は農作物と家畜を育て、慎ましやかに暮らし、争いとは無縁の生活を送っていた。

だが、その平穏は突如、焼き払われた。


賊は、抵抗する村人や騒ぐ家畜を虐殺し、少ない財産を奪い尽くし、奴隷として買い手のつきそうな人々を捕まえていった。

その中には、旧人類である母親もいて。彼女に庇われ、森の中へ逃げ延びることに成功したリヴェルは、別れる間際に母が見せた笑顔を求めて、何度も何度も振り返った。

父親は、リヴェルが逃げる時間を稼ぐ為に必死で賊と戦って、命を落してしまった。その断末魔を聞きながら、それでも母は、リヴェルに強く言い聞かせた。

決して立ち止まってはいけない、諦めてはいけない、生きなければならない。そして、幸せにならなければいけない、と。

笑顔でそう言い聞かせると、母はリヴェルの背中を押して、迫り来る賊の前に自ら躍り出て、捕まった。


リヴェルは、今すぐにでも母のもとに駆け寄ってしまいたかった。
一人で暗い森の中を走り回り、いつ捕まるかも分からぬ恐怖に曝されるくらいなら、どんな地獄が待ち受けていても、愛した母と共にいたかった。

しかし、己を犠牲にしてまで自分を逃がしてくれた両親の想いを無下にしてはならないと、リヴェルは泣きながらも、時に転び泥まみれになりながらも、ひた走った。

決して立ち止まってはいけない、諦めてはいけない、生きなければならない。そして、幸せにならなければいけない。

母の願いの為に、自分は何処までも逃げるのだと、リヴェルは一人で山を降りた。
頼る宛てもなく、またいつかこの角持ちの身を狙われるかもしれぬ恐れを抱えながら、母が託した想いだけを持って。リヴェルは、故郷の山から離れるように歩いてきた。


それから、行商人の荷車や旅人の荷物から物品を拝借し、どうにか食い繋ぎながら、先の見えない日々を過ごしていた――そんな時だった。

彼女が≪アガルタ≫と≪銀の星≫の噂を耳にして、其処にある可能性に魅せられたのは。





「≪アガルタ≫なんて、噂に過ぎないものだ、夢幻だ。そんな、本当にあるかどうかも分からない場所を目指すなんて、どうかしてる。でも……一欠片でも希望があるかもしれないなら! 私はもう、そこに行くしかないんだよ!」


リヴェルは、生まれてこの方、農作業しかしたことのない少女だ。そんな彼女が、賊に攫われた母を奪還し、故郷と父親達の仇を討つことなど、到底叶わない。
毎日を怯えながら、角を隠し、おっかなびっくり生きていくのが精一杯だ。

何もかもを覆せるとしたら、星というとてつもなく大きなものさえ救ってしまう、≪銀の星≫が生み出す奇跡を得る他にはない。


だから、リヴェルは≪アガルタ≫を目指していた。

きっと生きている筈の母親を探し出し、あの惨劇を起こした賊を討つ為に必要な強さを与えてもらう為に。リヴェルは、何処にあるのかも、本当にあるのかさえ分からない場所に縋るしかなかった。

馬鹿にされたって、無駄だ無謀だと止められたって、最後の希望まで食い潰されかけたって。他に何も残されていないリヴェルには、≪アガルタ≫しかないのだ。


それを知ったシラベは、ついに泣きじゃくってしまったリヴェルの前で、深く息を吸い込んだ。

彼女が頑なに譲らなかったのも、真剣そのものだったのも、全てはリヴェルが、≪アガルタ≫に望みを賭ける以外、何もなかったからだったと。
ようやく理解出来たシラベは、暫し押し黙った後。俯いたリヴェルの頭をわしわしと撫でてやった。


体温のない手が、力強く宥めてくる。慰めや同情とは違う。リヴェルにしかと前を向かせる、不可思議な想いが、どうしてか伝わってくる。
未だ泣き止めないまま、リヴェルが顔を上げると、シラベの黒い眼が、真っ直ぐに此方を見つめてきた。

今になって気付いたが、彼の眼は星空に似て、小さな光がぽつぽつと、漆黒の中で輝いていた。
不思議と、落ち着いていたからか。リヴェルはしかとシラベの双眸を凝視したまま、彼の口から静かに告げられた言葉を聞き届けた。


「……≪アガルタ≫は、確かにある」


信じ難い一言に、リヴェルはゆっくりと瞠目した。

彼女自身、信じ込もうとしていながら、その存在を疑い続けてきたものを、肯定された。
その場凌ぎの嘘でもなく、下手な慰めでもなく。シラベは、ありのままの真実を伝えてるように、言った。


「お前らの言う楽園も、≪銀の星≫も、実在する」


夢物語、伝承の存在。あるかどうか、真実は誰も知らない。この世界各地で語り継がれているだけ。そんな存在である≪アガルタ≫も、≪銀の星≫も、確かにある。

まるで実際に目にしてきたような、シラベの言葉に、リヴェルは狼狽した。


「……なんでそんなことが言えるんだよ」

「……俺がかつて、そこにいたからだ」


誰より楽園の存在を信じていたかった。それでも、そんなものがある訳ないと疑念を抱き続けてきた。
だからこそ、リヴェルはシラベの言葉を鵜呑みに出来なかった。この場だけ希望をちらつかされて、最後に叩き落とされるのだけは回避したくて。
本当の本当に、彼の言っていることは正しいのかと、リヴェルはシラベの顔を凝視する。
無機質さを感じさせる白い面に、シラベは複雑な、としか形容しようのない表情を浮かべている。

リヴェルに、自分が知り得る限りの真実を、洗いざらい告げるべきか否か、今も迷っているのだろう。
思い悩んでいる様子の彼は、とても冗談や嘘偽りを口にしているようには見えず。リヴェルが、自然と眉間に込めていた力を抜いていくと、シラベもまた、張り詰めていたような肩をどっと落とした。


「噂話、夢幻と言われているあの場所に……俺はいた。まぁ、色々あって出てきたんだが……俺のこたぁいい。
ともかく、お前に≪アガルタ≫を目指す理由がちゃんとあるってんなら、止めやしねぇ。だがやっぱり、お前みてぇなか弱い子羊ちゃんが一人、世界を彷徨うってなぁ、頷けねぇ」


そう言って、シラベは踵を返して行ってしまった。

自分とは比べようもなく広いのに、今はどうしてか、消えてしまいそうに思える彼の背中を眼で追う。
その先で、ある程度歩いたところで立ち止まったシラベがまた振り返ったのと、後ろに停まっている彼のキャラバンを見て。
リヴェルは、やはり自分の行くべき道は、一つしかないのだと、そう確信した。


「乗れよ、リヴェル」


一人宛てもなく彷徨っていた彼女の旅は、此処で一度終わりを迎えた。

楽園の場所を知る道連れと、其処に至るまでの足を得たことで、トラックの荷台から飛び降りた瞬間から、リヴェルは新たな旅のスタートを踏み出した。


「連れてってやるよ。お前の求める楽園まで」





からっからに枯れた大地に通る、一本の長い長いハイウェイ。
進んでも進んでも変わり映えのない景色。右も左も、荒れ果てた野。時々、雨風で傷んだ古い看板。

それが、幻想の産物であった筈の場所へ繋がる道だと、そう意識してから落ち着けず。
助手席に腰掛けた少女は、果実を片手に車を進める男を、不安と期待が入り混じった顔で見詰め、尋ねた。


「なぁ、本当にあるんだよな、楽園は」


少女がそう問いかると、男は青い林檎を齧って、こう言った。


「それを決めるのは、お前だ。ストレイ・シープ」


気取ったように笑いながら、林檎を投げてきた男が、どうしてそう答えたのか、少女はよく分かっていなかった。

だが、フロントガラスの前に果てしなく広がる地平線や、晴れ渡る空と同じくらい、男の言葉が眩しくて。

彼となら、きっと楽園に辿り着けると。そう強く信じられていたのだった。

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