カナリヤ・カラス | ナノ
「どぉした、もう終わりか?威勢がいいのは最初だけたぁ、とんだ早漏だな」
そう言いながらも、阿比自身、鴇緒が未だ敗北に浸かっていないことを理解していた。
殴られ、腫れあがった顔は、死んだ表情をしていない。
立ち上がる脚にも力強さがあり、此方を睨む眼の光にも衰えが見られない。
だからこそ、阿比はまた鴇緒を煽り立てたのだ。
長らくゴミ町に腰を据えてきた阿比には、その経験から分かっていた。
鴇緒は、今まで彼が対峙してきた人間の中でも、群を抜いて強い。
ダンプホールという場所で勝利への餓えを培い、力を磨き続けてきた彼は、穴蔵が生んだ怪物と言ってもいいだろう。
そんな鴇緒に弱点があるとすれば、それは子供であるという点だ。
幾ら強くとも、彼は未だ青く未熟な子供であり、突けば容易く崩れてくれる。
暗闇の中で鍛え、完成させたその構えも、研いできた動作も、傾いた心が鈍らせてしまう。
現に、掴み掛かる勢いで踏み込んで、再び鶴嘴を振り翳して来た鴇緒の動きは、一撃めよりも劣っていた。
「まったく、みっともねぇなぁ!だが、その滑稽さがウケて、いい買い手が見付かるかもなぁ。
穴蔵育ちの負け犬は、首輪付けて床に這いつくばって、へこへこ腰振って笑いものにされてんのがお似合いだぜ!!」
力任せの攻撃は、粗が目立つ。
簡単に受け流して、崩れた体勢に強烈な一打を噛ませば、鴇緒とて次第に折れていく。
阿比にいたぶられ、これまでの努力が水泡と化してしまう絶望感と、恨みすら晴らせぬ己を呪う気持ちで、更に動きは錆びついていく。
これこそが、阿比の狙いであった。
「いっそ俺らが落とした瓦礫に潰されてりゃよかったのになぁ!!結局てめぇら全員、死ぬまで最底辺を這い回る運命だ!
ククク……ハーッハッハッハッハッハッハ!!」
罵倒や、不足の事態に対しても動揺せずにいられる、諦めの精神が、鴇緒には未だないのだ。
虚しくも強靭なその姿勢が作られるには、多くの経験が要ることを、他ならぬ阿比がよく分かっている。
故に、彼は鴇緒を怒らせ、惑わせ、隙を作る。
そして、また痛烈打を食らわせて、阿比は床に転がった鴇緒の前で、勝利を見せつけるように高らかに笑った。
後に同じような手を食らい、鴇緒はこの上ない敗北を喫することになるのだが――”阿比”がこの戦術を取ってしまったのは、間違いであった。
「………は?」
べぎゃん、と間抜けな音を立て、阿比の義手がひしゃげた。
あらぬ方向にへし折れたそれを見開いた眼で眺めていると、右方向から一撃。
脳を揺らす大きな打撃を食らったかと思えば、ぐらついた脚が薙ぎ払われ――吹き飛んだ。
「お、ぁ……ああああああああああああああああああ!!」
焼けるような痛みに、喉から悲痛な叫びが込み上げる。ちょうど、阿比の腿の辺りから溢れ出す血飛沫のように。
片脚を奪われ、床に倒れ込んだ阿比の叫びは、天井まで刺すように響き、
痛みでもがく阿比を見下ろす鴇緒の顔に、確かな高揚感を齎していた。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよクソ野郎…。
さっきから…てめぇは上から物言ってくれてけっどよぉ……俺ぁ、いつからてめぇの下にいたんだ?」
「て…め……ぐぇえっ!!」
上から、足が容赦ない蹴りを顔面に降らせる。
まるで弱った獲物を戯れに嬲る獣宛らに、鴇緒は阿比を蹴り続け、彼が反撃にと振った捻じ曲がった腕には、鶴嘴を打ち立てて。
一つ一つ、阿比の心身を砕いていきながら、鴇緒は口角を吊り上げていった。
「分かんねぇなら分からせてやるよ…てめぇの立ち位置………いや、お前はもう、立つこたぁねぇ」
「あ゛、あぁああああああああ!!!が……ぁああああ!!!」
残ったもう片方の脚をつつくように、鶴嘴を何度も何度も振り下ろして嗤う鴇緒は、完全に勝者であった。
自分よりも高い位置にいた者を引き摺り下ろし、淘汰した。
その実感を得たからこそ、鴇緒は酔っていたのだ。
「這いつくばって……せいぜい面白おかしく足掻いてみせろよ。負け犬」
勝利の恍惚に、敗者を踏み躙る高揚に、掴み取った上から見える光景に。
この時、完全に鴇緒は憑りつかれてしまったのだ。
「がぁ、あッ!!う゛ぉっ」
自分を見下していた者を転がして、手も足も出せない状態で嬲り、完全に支配する。
長らく最下層で息をしていた鴇緒にとって、この瞬間はとてつもない快楽を齎し、着実に思考を凌駕して彼を狂わせていた。
これ以上となく吊り上った口からは、止め処なく笑い声が出て、体は本能に従うかのように動きを止めず、阿比の体を痛め続ける。
「ハハハ……ハハハハハハハ!!!」
最早意味のない不毛な時間だった。
それを理解出来ていないのは鴇緒一人で。
「………鴇緒、」
啄達はもう、これ以上は無益で、有害であることを分かっていた。
「…なんだ、啄。終わったのか?」
「………あぁ、終わったよ」
息を荒げながら笑顔を向ける鴇緒に対し、ついに掃除屋全員を叩きのめした啄達は、揃って顔を青くしていた。
破られた壁から吹き込む風があっても尚、充満した濃い血の匂いは容易く流れてはくれない。
いや――全身にびっしりと血を浴びた鴇緒がいては、どれだけ風が空気を洗い流そうとしても、どうしようもないだろう。
「俺らも、お前も……もう、終わったんだ。だから……もう、やめろ」
嫌な予感ほど当たるものだと、啄は苦虫を噛んだような顔を俯かせ、すぐにそれを横に逸らした。
床と同化しつつある、今や原型が分からない阿比の姿を、見たくなかったのだ。
確かに、阿比は啄達にとっても許し難い存在である。
大切な仲間である夕鶴は両脚を失うことになり、地上を夢見てきた自分達の心にも傷をつけてくれた。
だが、それでも。ここまでされる必要はなかったのではないかと、啄達は思う。
思っただけで、誰も口にすることが出来なかったのは
「………そうだな」
もう飽きたというような眼をして、さっさとその場から立ち去った鴇緒が、恐ろしかったからだった。
「っつー訳で。後はお前が戻って、俺らの引っ越しは完了だ」
大きな流れの中では、時間もまた凄まじく過ぎ去っていくもので、鴇緒達が地上に出てから、あっという間に一週間が経過した。
目まぐるしく事が運ぶ中でも、夕鶴の見舞いだけは毎日欠かすことなく続けてきた鴇緒は、
その日、自分達の新しい住まいの準備が終えたことを、身振り手振り話していた。
ダンプホールから持ってきた荷物だけじゃ殺風景だったので、マーケットで家具を買ってきたとか、
各自の部屋を決める話し合いが取っ組み合いになって参っただとか。
そんな取り留めのない話を聞きながら、夕鶴は楽しそうに笑みを零していたが、
ふっとその表情に陰が差したと思えば、細い彼女の眉が八の字を描いた。
「ごめんね、鴇にぃ。大変な時に手伝ってあげられなくって…」
慌ただしく始まった地上での新生活。その準備に携われず、ずっと安樂屋にいたことが後ろめたいらしい。
夕鶴は申し訳ないと顔を暗くし、それを見た鴇緒も、困ったように眉を下げたが。
「気にすんなって。これからもっと大変になっから、そこで色々助けてくれよ」
自分まで暗くなっては仕方ないと、快濶な笑みを浮かべて、鴇緒は項垂れた夕鶴の頭を力強く撫でた。
彼の言う通り、巣を作ってそれで終わる地上生活ではない。
これからも此処で暮らし続けていく為に、仕事をし、日々の暮らしを謳歌していく過程で、夕鶴の手を借りたくなる面は多々あるだろう。
例え両脚を失い、当分は慣れない生活に苦しめられ、手伝いどころではないにしても。
鴇緒が自分を頼ってくれているということが、夕鶴の顔をぱぁあっと明るくした。
「う……うん!私、いっぱい頑張るね!」
「ハハッ。無茶してまた、此処の世話になんねぇようにな」
花が綻ぶように笑い、先程までの弱々しい姿は何処へやら。
すっかり気合い十分になった夕鶴を宥めながら、ふと鴇緒は思い出したように来客用の簡素なパイプ椅子から腰を上げた。
「っと、悪い夕鶴。これからあの女医と話があっから…ちょっと席外すな」
「……話?」
「…お前の治療費のこと。まぁ、払えねぇ額じゃなかったしよ、気にすんな!」
言及されなければ黙っておきたかったのだろう。
一瞬口にするのを躊躇って、気まずそうな面持ちをした鴇緒は、それを誤魔化すようにまた笑みを作って、
そそくさと退却するかのように、部屋のドアへと手を伸ばした。
「とにかく、すぐ戻ってくっから……啄、夕鶴のこと見といてくれ」
「……おう」
バタン、と急くようにして扉が閉まる。
間もなく、鴇緒が早足で廊下を渡る音が、静寂に包まれた病室に響いた。
仇討ちは終わった。
だが、鴇緒も夕鶴も、全てを無かったことに出来る終着点には辿り着ける訳がなかった。
それどころか、阿比を殺したことで、自分達はより最悪の方向へ進んできてしまったとさえ、啄は感じ。
あの場にいなかった夕鶴でさえも、それに気が付いてしまっていた。
「……啄にぃ、」
「………ごめんな、夕鶴」
無情な静けさに堪え切れず啄を呼んだ夕鶴の声も、今の彼にとっては糾弾の一声に近しかった。
それだけ、啄には罪の意識があった。
あの時近くにいながら、鴇緒お暴走を止めることが出来なかった自責の念があった。
「俺らには、あいつを止められなかった……あいつを、取り戻せなかった」
止めようと手を伸ばせば、自分が潰されるかもしれない恐怖に、啄は負けた。
長年連れ添ってきた友を疑り、保身の為に傍観を決め込み、鴇緒が壊れていくのを黙認した。
その罪が、啄を始め、仲間達を苛んでいた。
ただでさえ、朽ちた仲間の亡霊を背負ってどうかしつつあった鴇緒の、完全なる崩壊。
それをみすみす許したことを、どうか責めてくれと啄は頭を下げた。
「……いい、よ。…鴇にぃは、ちゃんと来てくれたから……」
だが、夕鶴は啄を責める気はまるでなかった。
それどころか、彼女もまた、鴇緒が壊れてしまったということから、眼を背けようとしているようだった。
「私……置いていかれてないもん。鴇にぃは、約束通り……私を迎えに来てくれたもん……」
「……夕鶴、」
異常な上昇思考に囚われた鴇緒。
その枷の一部となっている自覚のある彼女にも、彼を止めることは出来なかった。
「…鴇にぃは、私達の為にあぁなっちゃったんだって……私、分かってる。だから、大丈夫……」
鴇緒という寄る辺に縋ることで生きていられる彼女には、彼を失うことに手を伸ばせない。
何の疑いもなく、罪の意識もなく上を見詰め続ける彼に、周りに目をやってくれなどと。
啄にも夕鶴にも、仲間の誰にも、言える訳はなかったのだ。
(前を見よう。それで、一緒に歩こうよ……鴇にぃ)
(私達は、ずっと隣でついていくから………)
その三ヶ月後。金成屋・鴉によって鴇緒が打ち砕かれる日まで。