カナリヤ・カラス | ナノ


随分久し振りに聞いたような夜咫の声に、目白達が神を見付けたような顔をする。

その様に、ほんの少し口角を上げて、因幡は見慣れた色を取り戻した夜咫の眼を見据える。


「……お前が、鳩子を語るなと言ったな。その言葉、そのまま返そう、夜咫・クロフォード」


既に、兵士達は敗北している。アルキバの面々が奮闘した結果だ。未だ息のある者もいるが、因幡はそれを見捨てるように、ただ立ち尽くす。

最早勝ち目がないと諦めた訳ではない。彼の性格的に、勝てないと分かったのであれば、出来る限りの爪痕を残すくらいのことはしてやろうと、長元坊達を殺しにかかっていた筈だ。

では何故、彼は武器を下ろし、半ば自棄になったような笑みを浮かべているのか。それを問い質すことさえ出来ぬまま、夜咫達は因幡の声に耳を傾けていた。


「お前は、鳩子の何を理解している。鳩子が、何の為にその命を捧げたのか……鳩子が何の為にお前を生かしたのか……それさえ分からぬお前が、鳩子を語るな」

「…………お前」


言葉の厳しさに反し、因幡の顔は嫌に穏やかだった。

まるで、長い呪縛から解き放たれたような。そんな晴れやかさの奥底に、深い悲しみを湛えたような微笑みに夜咫達が困惑する傍ら、因幡は僅かに天を仰ぐ。

其処にいない誰かを探し求めるような佇まいに、夜咫が息を飲む。彼の眼が誰を追っているか、それが痛ましい程に理解出来たからだ。


「…………娘は、私に命乞いさえしなかった」


因幡直紀は、軍人の鑑のような男だった。

誰よりも強く、高潔で。組織の為、国の為にと、時に冷血に徹してきた、誇り高き大亰自治国軍人であった。

かつてドブの中に捨てられていた自分を拾い、一人前の兵士に育ててくれた軍に報いる為、その生涯を懸けて忠義を尽くす。それが自分の生まれた意味に違いないのだと、因幡直紀はそう信じて生きてきた。


非道にも手を染めよう。時に己の心に背くこともしよう。それでも、軍がそれを求めるのであれば。それが軍の為になるのであれば、自分は喜んで、この手を汚そう。


その生き方を嘆いたことも、悔いたことも無い。軍無くして、因幡直紀という人間は無い。軍に求められない自分など、存在する意味も価値もないのだからと。
冷徹にして気高き自治国軍人として生きることを貫いてきた因幡であったが、そんな彼に出来た唯一の綻びが、家族であった。


「娘は……鳩子は、最期まで言っていた。『夜咫をお願い』『私の息子を殺させないで』『どうか、夜咫を助けてあげて』……とな」


軍属娼婦として売られてきた、異国の娘に心惹かれ、彼女を妻として娶った時から、因幡は完全無欠の軍人として狂ってしまった。

軍人としてではなく、人間としての感情が芽生えてしまった。軍よりも尊いと思えるものが出来てしまった。軍を裏切ってでも、守りたいものを手にしてしまった。

軍人であることに徹していなければ、とても生きられない自分が、人間になろうなど。


徐々に大きくなっていく娘の手を握りながら、因幡は嘆き、悔やんだ。

己の全てを軍の為にと捧げて来たことではない。これまでの生き方を否定してしまうようなものを作ってしまったことを、だ。


(おとうさん、私ね。”英雄”になりたいの)

(戦争をなくして、この世界を平和にしたいの。だから、私も大きくなったら軍人さんになって、えらくなって、戦争をやめさせるの!)


そう願った娘の想いを、肯定出来なかった時。因幡は酷く後悔した。

愛しくて仕方ない娘が抱いた、尊い願い。それを、馬鹿げたことを言うなと叱責してしまった。父親としてではなく、軍人として、自分は、娘の夢を踏み躙ったのだ。


それから因幡は、家族から遠ざかるように、遠征任務に没頭し、やがて妻を病で亡くした。


妻の訃報を受けから数週間。任務を終え、亰に戻ってきた時には、娘は母の姓、クロフォードを名乗り、兵士の養成所に入っていた。

家族を捨てた父親のことなど切り捨て、自分の生きたいように生きようと、そう決めたのだろう。

男に混じって、懸命に訓練に励む娘の姿を見た時、因幡は安堵してしまった。妻を亡くし、娘も自ら家を離れたことで、自分は再び、軍人に戻ることが出来たのだ、と。
因幡は娘を赤の他人として扱い、娘もまた、因幡に父親であることを求めることはなかった。

彼女が死の間際、残された息子の為に祈った、その時までは。


「本当に、愚かな娘だった。身を切り刻まれながら、血の繋がりもない子供の為に祈るなど…………愚かしいにも程がある」


軍を裏切り、暗躍し、レジスタンスを率いていた鳩子が処罰されると耳にした時でさえ、因幡の心は揺るがなかった。

幼い頃に叱り付けられたことも忘れ、世界を救おう等という身の丈に合わない夢を抱いて、自治国軍に叛いたのだ。殺されて当然と、捕えられた鳩子を目の当たりにしても、因幡は動じなかった。

だが、彼女が血の繋がらない息子の為に、自ら捕えられたと耳にした時。因幡の心には再び、綻びが生まれた。


(今更、虫が良過ぎるとは分かってる。それでも……夜咫をお願い)

(私の息子を、殺させないで)

(どうか、夜咫を助けてあげて…………お願い)


かつて自分は、血の繋がった娘を捨てた。だがその娘は、赤の他人である子供を救う為に、全てを捨てた。
凄惨な死を迎えることを承知の上で、ありとあらゆる辱めを受けることを覚悟の上で。

それでも、大切な息子の未来を守りたいのだと、どんな拷問を受けても泣き言一つ吐かず、堪えてきた娘が涙を流す様を見て、人間としての心が息を吹き返してしまった。


軍人として生きることに徹してきたのは、軍から見放されることが怖かったからだ。自治国軍を離れた時、自分が再び、ドブの中に沈んでいくようで、恐ろしかったからだ。

だから、軍に従うことでしか安寧を得られなかった。そんな自分が、自治国軍最強の兵士など、笑わせる。

数えきれない傷を負い、数えきれない凌辱を受け、それでも尚、子供の為に祈ることが出来る彼女に比べ、自分は、なんと弱い人間なのだと、因幡は初めて、軍人であり続けようとしてきた自分を嘆き、悔いた。


故に、因幡は娘の願いを聞き入れた。

夜咫を仕留めろという軍の命に叛き、幾度となく彼を見逃し、時に外部から送られてくるレジスタンスの支援物資に自分の資産を混ぜ込んだり、軍の情報を流したりして。
かつての鳩子がしてきたように、彼もまた、陰ながらレジスタンスを支えてきた。

誰よりも強く、高潔であった娘とよく似た眼をした少年が、いつか娘の願いを遂げてくれる日が来ることを信じながら。


「…………行け、夜咫・クロフォード」


彼は紛れもなく”怪物”だ。しかし、彼は確かに鳩子の息子だ。
分不相応な夢を掲げ、無謀な戦いに挑み、その身を挺して誰かを守ることが出来る。夜咫がその強さを持ち合わせているのなら、自分は引き下がる他にない。

へし折られた指と交わした誓いがある限り、自分は軍人ではなく、ただの人間に成り下がるしかないのだからと、因幡は悲痛な笑みを浮かべる。


「私にお前は殺せない。…………娘と交わした誓いを、反故には出来んのだ」


もっと早くに、気付けていれば、何も失うことは無かった。

妻に出会い、彼女に絆された時点で自分は――いや、それよりもずっと前から自分は、ただの人間だったのだと。
それを受け入れて、弱い自分を認めることが出来ていたら、誰も、失わなかった。


妻を殺したのは病ではない。娘を殺したのは軍でもないし、ましてや夜咫でもない。彼女達を殺したのは、他ならぬ自分自身なのだと、ようやく己の罪を享受することが出来た因幡に、夜咫は声を詰まらせた。その時。


「親子共々裏切り者たぁ、血の繋がりを感じるなァ」



嘲るような声と共に振り下ろされた一撃は、因幡を一瞬にして押し潰した。


其処に在るのは、かつて因幡直紀という人間を形作っていた肉と骨。
降り注ぐ血の雨を浴びながら、飛散した因幡の肉片を呆然と眺めていた夜咫は、その残骸さえ踏み拉く男の姿に、眼を見開いた。


「お前、は――」

「よう。こうして面と向い合うのは久し振りだなァ」


髪が逆立つようなざわめきに、夜咫が声を低くする中、男は両の拳に付着した因幡の血肉を振り払い、にたりと嗤う。

そのけだものめいた顔付き、全てを呑み込むような巨躯。そして――夜咫と同じ色をした黒い髪と、赤い瞳。それは、自治国軍が誇る古代兵器。かつて夜咫が圧倒された、宿敵。


「バンガイ!!」

「でかくなったじゃねぇか。なぁ、”ヤタガラス”。……いや、bWと言うべきか」


叫び立てる長元坊達のことなどまるで意に介すことなく、バンガイは夜咫を見据え、下品な笑い声を上げる。
ほんの数年前まで、自分に手も足も出せず、母親に守られ、生き永らえた子供が、随分立派になったと、小馬鹿にしたように。


もし、此処で因幡と一戦交えていなければ、夜咫は同じように――いや、それ以上に膨大な激情に身を任せ、暴走していただろう。

今、夜咫がバンガイに飛び掛からずにいられるのは、因幡のことが胸に痞えているからだ。


鳩子との誓いの為、自分を陰で見守り続けていた因幡。そんな彼が、目の前で殺された。その事実が、夜咫の思考を繋ぎ止める。

因幡が裏切り者であることは、既に雁金に筒抜けていたのか。その上で、泳がされていたのか。鳩子と同じように。何の為に。意趣返しか。

未だ熱が冷め遣らない頭で、様々なことを考える夜咫の思考を、バンガイの言葉が妨げる。


――bW。


初めて耳にするその言葉に、夜咫が力無く眼球を動かすと、バンガイは呵々と嗤いながら、血に塗れた手で夜咫を指差した。


「おいおい、覚醒までしてんだ。お前も、全部丸ごとまでは理解出来ずとも、何となくは分かってんだろ?」


まるで、この場にいる全ての人間に言い聞かせるような声量だった。

既に誰もが勘付いていることを知りながら、それでも、そんな筈はないと否定したがるアルキバの面々の希望を轢き砕くように。
バンガイは耳を塞いでも胸の奥にまで突き刺さるような声で、高らかに告げる。夜咫自身でさえ確かな形と名前を知らない、彼の正体を。


「てめぇが、俺と同じだってことをよ」


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