カナリヤ・カラス | ナノ
「いいのかなぁ、俺達」
紫煙と共に溜め息を吐き出しながら、ギンペーは僅かに覗く空を見上げた。
夕刻を過ぎ、すっかり日も暮れた頃合いだが、相も変わらず最下層のスラムは暗い。
積み上げられた建物の影に遮られ、陽は届かず、空の色さえ窺えないような場所が殆ど。
時計を持っていても時間感覚が狂ってしまいそうな所だと、暗がりの中に溶けていく煙草の煙を眺めつつ、ギンペーは建物の壁に凭れた。
「亰の運命を左右する決戦前だってのに、こんなとこでのんびりして……やっぱ俺達も、鴉さん達と一緒に」
「いいのいいの。私達があそこにいたって、素人丸出し発言しか出来ないヒヨコ共って馬鹿にされるんだから……今のうち、休んでおいた方が得策だよ、ギンペーさん」
三羽烏同盟が打倒自治国軍の作戦会議を始めてから、会議に参加しない者達は散開していった。
レジスタンス達は、それぞれの業務に戻ったり、食事の仕度を始め、流星軍メンバーは再びトランプに興じたり、買い物に向かったりしている。
そして雛鳴子とギンペーは、後のことは鷹彦に任せることにして、外で何となく時間を潰していた。
最初は、辺りを適当に歩こうかと話していたのだが、改めてスラムの様子を見ていると、とても散策する気分にはなれず、止めた。
ゴミ町も大概だが、亰の貧民窟も酷い有り様であった。
犇くテントは古いシーツを利用したもので、何れも土に汚れ、褪せている。
働き手が奪われている為、住居は多くとも人気は無く。透けたテントの内に人らしい影が見られても、生気が感じられない。恐らく、怪我人や病人が寝ているのだろう。
倒れている者はテント内のみならず、路地にも見受けられた。孤児や、居場所の無い者達だろう。働くことも出来ぬほど弱り、痛みや餓えに倒れても、介抱してくれる者も身を休める場所も無く、地面に横たわり、虫やネズミに足の指を齧られても、抗うことさえ出来ずにいる。まるで、死の国だ。
この惨状を見て、おのれ自治国軍めと憤れたら良かった。だが、雛鳴子もギンペーも、スラムの悲惨な有り様を見て、怒りより虚しさを覚えてしまった。
自分達が彼等にしてやれることなど何もないと、分かってしまっているからだ。
これから夜咫と共に革命運動に参加するとはいえど、自分達は彼等の為には何もしないし、何もしてやれない。
彼等の餓えを満たすことも、彼等の苦しみを取り除くことも、彼等の傷を癒すことも出来ない。
自分達に出来ることは、鴉の指示に従い行動する。ただ、それだけだ。
見知らぬ他人を救える程の力を、雛鳴子もギンペーも持っていない。そんなものがあれば、自分達は今、こんなところで鴉に従ってはいない。
彼等を救済する為に必要な金だとか、強さだとか。そういうものを持ち合わせていないが故に、雛鳴子もギンペーも、此処にいるのだ。
だから、同情の眼差しだけを向けるだけなら、歩き回るべきではないと、二人はアジトの外でぼんやりと佇んでいた。
夜風が肌に冷たいし、やることが無いのなら中に戻って、流星軍に混じってカードゲームでもしていてればいいと思うのだが、そんな気分にもなれず。雛鳴子とギンペーは持て余した時間を徒に浪費していた。
とはいえ、何かしなければという気持ちもあって、ギンペーはやはり中に戻って、作戦会議に混ざるべきではと提案してみたのだが、雛鳴子は首を横に振るばかりだ。
「けどなぁ……こう、落ち着かないっていうか、ソワソワするっていうか……。居ても立ってもいられないってやつ?」
「気持ちは分かるけどね。でも、どうせすぐ、吐くまで走り回ることになるって思えば、退屈してるくらいがちょうどいいんじゃないかな」
「う……やっぱり、そうなるかぁ……」
つい最近、吐くまで走り回ったばかりなので、ギンペーは顔を青くしながら項垂れた。
思い出すだけで胃袋がキュッと搾られる、あの修行の日々。と言っても、二日ばかしのことなのだが、ギンペーにとっては年単位レベルの苦痛を味合わされた地獄の二日間であった。
暫く悪夢に魘されたし、今もたまに夢で吐くくらい、白鳥の修行はハードだった。
今も目蓋を閉じれば蘇る、白鳥の最高に意地の悪い笑み、途轍もない疲労感、全身がちぎれそうな程の筋肉痛。
またあんなことになるのかと心を失いかけるギンペーであったが、遠退いた意識は雛鳴子の声によって引き戻された。
「そういえばギンペーさん。ずっと気になってたんだけど、それ……」
「あ、ああ!コレね!!」
雛鳴子の視線の先には、ギンペーが肩にかけている武器があった。
星硝子に連れられ、金成屋を出た時から持っていたので、ずっと気にしていたのだが、質問する機会を逃していたことを今になって思い出したらしい。
ギンペーもギンペーで、誰もノータッチなので半ば忘れかけていたのだが、ようやく自分の武器について触れられたと頬を赤らめた。
「こないだのお休みの時に、文次郎さんに作ってもらったんだ。俺の為の桜田ブランド!!名前は……えーっと……そう、フリッパー!!」
フリッパーと名付けられたそれは、クロスボウであった。
通常のそれよりかなり大きく、濃紺で彩色されたメカニカルなボディが特徴のスコープ付きクロスボウ。それがフリッパーだ。
ギンペーは、苦難の果てに手に入れた桜田印の武器を愛おしげに見つめながら、ついにこれを使う時が来たのだなと、感慨深い面持ちでフリッパーを撫でた。
「白鳥さんに特訓つけてもらったから、俺も結構戦えるようになってると思うよ!……そう…………そりゃもう……吐くまで走り回って鍛えられたからね……ハハ……」
「し、白鳥さんに……」
言いながら、みるみる生気を失っていくギンペーを見て、雛鳴子は顔を引き攣らせた。
白鳥は雛鳴子にとって良い人に分類されるが、それでも雛鳴子は、彼をおっかない人だと思っていた。
特に何かあった、ということはないのだが。あの汚濁と暴力が物を言う町で平然と暮らしていることや、たまに見せる意地の悪さとか。
そういう節々から垣間見える油断ならないところが恐ろしいと思っていたので、ギンペーが白鳥に師事していたと聞いて、雛鳴子は感嘆の声を漏らした。
「なんていうか……すごいね、ギンペーさん。文次郎さんに武器作ってもらえたってのもすごいけど……白鳥さんに特訓つけてもらうって……よく生きて来られたっていうか」
「ああ、うん。ぶっちゃけ数えきれないくらい殺されかけた」
「だよねー……。白鳥さん良い人だけど容赦ない人だから……私だったら逃げてたかも」
こんなこと、白鳥に聞かれたら何と言われるだろう。
きっといつもと変わらぬ涼やかな笑みを浮かべ、いつもの変わらぬ調子で「酷いなぁ」と一笑してくるだろうが、ただで帰してはくれないだろう。
多分、心臓が握り潰されそうな不穏な一言二言を食らわされ、さぁっと青褪めたところで「冗談だって」と笑われる。
なんて考えながら、雛鳴子もギンペーに倣い、空を見上げた。
狭すぎる空から月は窺えない。もしかしたら此処には、生まれてこの方、月も太陽も見た事がない者もいるかもしれないし、見る事なく息絶えた者もいたかもしれない。
この戦いに夜咫が勝利し、革命が成された時は、誰もが光を浴びることが出来る亰に生まれ変わるのだろうか。
ただ巻き込まれただけの身だが、自分達の働きが少しでも希望ある未来に貢献出来るなら、随分昔に捨てたものを少し、取り戻せるような気がする。
その時は、背筋を伸ばして此処を歩けるかもしれない。
雛鳴子は静かに目蓋を下ろし、夜風に靡く髪を耳に掛けた。すると。
「お前ら、そこで何してるど」