カナリヤ・カラス | ナノ
「鴇にぃは優しいから、自分が私の脚を奪ったんだってずっと抱えてる。あの時、瓦礫を
落としてきた掃除屋さんに復讐してからも、戻らない私の脚をずっと憂いてくれている」
どうしてこうも綺麗に崩れてしまったのか。
その答えは、彼女もまたゴミ町の狂気に中てられてしまったからだという言葉で、全て説明がついた。
「鴇にぃはね、都になら私の脚を治す技術がある筈だから、そこまで上り詰めてみせるって言ってくれたの。
その為に、この町でのし上がって、お金をたくさん集めて…私に、もう一度歩く為の脚をって。
私はそんなものなくっても、鴇にぃがいればいいのに……あれからも鴇にぃは、私の脚のことは絶対何とかするって聞かないの」
ゴミ町の中でもまた最底辺地区であるダンプホール。其処に、あらゆるものを置き去りにしてきてしまったのは、鴇緒だけではない。
彼と共に生き残り、這い上がってきた夕鶴もまた、彼と同じく、数多の仲間の犠牲を見てきている。
その記憶が、取り残されたくないという恐怖心を作った。その恐れが、頭に噛み付き、彼女の頭に深い歯型を残した。
そうして、共に残された者同士である鴇緒への、病的とも言える依存が出来上がり、恋するしとやかな乙女は、狂人へと変貌してしまった。
ただの有り触れた恋心すらも、この町は汚して、濁らせてしまった。
雛鳴子は、恐れが憐れみに変わっていくのを、茫然と感じていた。
「鴇にぃは今…責任感だけで私を見ているの。置いてきてしまった皆の為、無くなってしまった私の脚の為……。
でも…いつか、ちゃんと……妹分じゃなくって、一人の女の子として私を見てほしいの」
背筋を凍らせるような狂気も、この町でなければ育まれることはなかっただろう。
何処にでもいるような少女を変えてしまったのは、この町だ。
人が武器を手に取る瞬間を見抜き、当たり前のように刃物を仕込み、歪んでいるとしか思えない想いを抱くようになってしまったのは、彼女がそうならざるを得ない世界に落とされてしまったが為。
「過去を一つ断ち切れたこれからは、もっと鴇にぃに私を見てもらえる。そうしたら、今の……鴇にぃの優しさに付け込むような関係が、変えられるかもしれない。
だから、私は嬉しいの。鴇にぃを縛り付ける、最後の鎖になれたことが…」
ならば。それを恐れてやるのは余りに酷なのではないか。
雛鳴子は、どうかしていると夕鶴を糾弾する気にはまるでならなかった。彼女の言うことが正しいとはまるで思わないが、それを否定するのも憚られた。
「……夕鶴さんは、鴇緒さんのことが大事なんですね」
口から出たのは、自分でも当たり障りのない言葉だと思った。だが、これ以上となく率直な感想でもあった。
「うん!私、鴇にぃが世界で一番大切で、一番大好き!」
雛鳴子がゴミ町に来てから出会った人間達の中に、これ程、人に、想いに執着している人間は、いなかった。
金か、地位か、或いは自身の欲望を満たすことにのみご執心な人間ばかりが犇めくこの町で、恋慕う相手を何よりも想う人間は、雛鳴子にとってとても新鮮で。
恥ずかしげもなくそれを認めることが出来る夕鶴は、いっそ敬服に値するとさえ思った。
「……羨ましいですね。そこまで人を想えるのも、それほどまでに想われるのも…」
自分には、無理だ。
この町でおよそ嘲笑されるだろう、恋なんてものを認めることは出来ない。
愛だなんだを指差して笑い、ただ性を求める人間達で構成されたこの町で。元々、素直さなんて持ち合わせていない、捻くれた自分には、想いに溺れることなど出来る気がしない。
好いた惚れたなどくだらないと、冷め切った感情で、どうしても一線を引いてしまうだろう。
その線を越える程に慕うことが出来る人も、越えてきて手を伸ばしてくれる人も、こんな自分の前には現れてはくれないだろう。
だから、雛鳴子は夕鶴も、鴇緒すらも羨ましく思えた。
愛おしいという感情を、清も濁も率直に謳ってみせる彼女の素直さと。そんな深い愛情を受ける彼に、羨望を覚えた。
――自分に無いものをねだってしまうのは、人の性だ。
雛鳴子は、どうしようもないなと、自嘲の溜め息を吐いた。その時だった。
「…雛鳴子ちゃんにも、そういう人はいると思うけどなぁ」
「………え」
掴み上げかけた湯呑が、ずるっと落ちた。位置が高ければ、湯呑は割れ、中の茶が飛散していたかもしれない。
そんな惨劇を回避出来たことなど置いて、雛鳴子は眼を見開いた。
彼女は、夕鶴は何を言っているのか。
ばしばしと目蓋を瞬かせる雛鳴子を前に、夕鶴はくすくすと笑っていた。子供の企みを見透かしたような。そんな、何でも御見通しと言いたげな表情で。
しかし、雛鳴子には何が見透かされているのか、分からなかった。
正しくは、分かりたくなかった、かもしれない。
「私はね、人の考え方がそれぞれ違うように、想いの形も違うと思うの。
だから、雛鳴子ちゃんも気付いていないか…認められてないだけで、私と同じくらい強い想いを向けられてると思うよ」
「…あの、すみません。言ってることの意味が……」
「あっ、もうこんな時間!」
困惑で固まりかけた雛鳴子の頭は、夕鶴の声によって強引に覚まされた。
彼女の視線に沿って壁掛けの時計を見遣れば、時計の針がだいぶ進んでいた。
話し込んでいる内にそれ程時間が経っていたのかと思うのも束の間。夕鶴は車椅子に手を掛け、上手いことUターンをしていた。
「ごめんね、長々とお邪魔しちゃって。お外で鴇にぃが待ってるから、私、お暇させてもらうね」
「あ、あの、ちょっと!?」
雛鳴子はまだ納得がいかないと、夕鶴を引き留めようとした。
あの言葉はどういう意味で言ったのか、何を見てそう思ったのか。それを言及せずにはいられなかった。
だが、夕鶴は敢えてその答えを言ってくれることはなかった。
「雛鳴子ちゃん。この町の人達はね、皆どこかおかしいの」
全ては、自分で知るべきことだと言うような声だった。
中途半端に浮き出しにされたヒントを頼りにして、その答えに辿り着くべきだと、夕鶴は敢えて、暈した言葉を選んで口にしていた。
「普通のことを知らなくて、普通のことを伝えられなくて、普通のことで悩んじゃう。皆、そういう病気みたいなものに罹ってる。
だから、貴方のほしい普通は与えられないかもしれない。でもね、形が違うだけで、よく手に取ってみれば、それも普通と変わらなかったりするものなんだよ」
「夕鶴さん、貴方……何のことを…………」
そう言いながらも、雛鳴子の脳裏には、答えの影が見えていた。しかし、それが自分の欲する答えだとは、とても認められそうになかった。
そんなことが、ある訳がない。そうじゃないから、自分は――。
理想と現実を混合してはいけないと、雛鳴子はそれを必死に否定する。
「じゃあね、雛鳴子ちゃん。私のお話、聞いてくれてありがとう」
それが姿を自ら曝すことになろうとも。雛鳴子も彼と――鴇緒と同じように、首を横に振り続けるだろう。
想われる者も苦悩するが、想う者はもっと大変だ。夕鶴は困ったように笑って、車椅子を前へと漕ぎ出した。
「鴉さんに、よろしくね」