カナリヤ・カラス | ナノ
鋏がジャキリと音を立てた気がした。切られたものは、精神だろうか。どっと溢れ出した冷や汗と、派手に音を立てる心臓が、平静を奪われたことを知らせてきた。
雛鳴子は、眼を見開いて、夕鶴を見据えた。
依然柔らかく微笑んでいるその顔は、何かの翳りを湛えている。
「……それは、どういう」
「鴇にぃが上を向き続けた理由はね、”あの場所”だけじゃないの」
細まった緋色の瞳には、対面している筈の雛鳴子は映っていなかった。
何処か遠く、この場にないものを見ているようなその眼が、ますます雛鳴子を戦慄させた。
――鴉は、これすらも見抜いていたのだろうか。
純粋過ぎる程に濁り、真っ直ぐ過ぎる程に歪んだ、彼女から鴇緒に寄せられる想いを。
「私も、鴇にぃを上を向かなきゃいけなくした一因なんだよ」
「夕鶴!!夕鶴ーーーーーっ!!!」
事が起こったのは、半年前。
鴇緒がダンプホールを出る以前。彼が地の底へと落ちてから始めて得た仲間、その最後の一人が息を引き取った後に起こった。
「おい、何処に行く気だ鴇緒!」
「決まってんだろ!!あいつらを……上にいたあいつらを殺りに行くんだよ!!!」
「殺りに行くって……連中を追いかける前に、やることがあんだろうがよ!」
「このままみすみす逃がせっつーのかよ!!」
「今はそうしてる場合じゃねぇって言ってんだよ!!」
ダンプホールから脱出する計画を立てるべく、鴇緒達は地上へと繋がる場所へ足を運んでいた。
高く瓦礫が積み重なった道を乗り越えれば、かつて彼等が追いやられた地上だ。
其処に、全員でどのようにして向かうか。殆ど無いに等しいが、荷物はどの程度なら持っていけそうか。
その下見へと向った矢先に、悲劇は起きた。
「どこに属してる奴かも分からねぇ奴を追う前に、夕鶴だろうがよ!!」
突如、頭上から大量の瓦礫が降ってきた。
積み重なっていた足場が倒壊したのではなく、上から、機械で落とされたのだ。
「腹立つ気持ちは嫌ってくらい分かる……だが、冷静になれよ鴇緒!連中を追う前に、手遅れになる前に……俺達がやるべきことを見失うな!」
其処に人がいることを知っていながら、地上にいる誰かが、ゴミを捨てるように、コンクリートの瓦礫を投棄し、その瓦礫から鴇緒を庇った夕鶴は、両脚を潰された。
膝から下を喰われてしまったかのように瓦礫に潰され、激痛で気を失った夕鶴は、叫び声を上げることもなく、倒れていた。
やがて、喧噪に目を覚ました彼女は、ぼんやりと覚醒しきっていない頭で、自分の脚はもう駄目だということを理解した。
瓦礫に押し潰された瞬間、あれほど痛かった脚が、もう何も感じていなかった。
呑まれた部分から下には、自分の脚はもうないのだと、夕鶴は悟った。
――自分の両脚は鴇緒の命の代わりに還らぬものとなったのだ。
彼が助かったことの安堵感も束の間。夕鶴の体に、途方もない恐怖がせり上がってきた。
「待って…お願い、待って……」
脳裏に過るは、自分が、彼と共に置き去りにしてきたもの達。
助けることが叶わないと、止む無く見捨ててしまった彼等と、自分の姿が今、夕鶴の中で重なってしまった。
自分もまた、鴇緒に置いて行かれてしまうのだと。夕鶴は、霞む視界に向かって、必死に手を伸ばした。
「私を…私を、置いて行かないで……鴇にぃ……っ!」
そう言えば、いつも笑って自分を迎えてくれていた彼が。その時、叱られた子供のように今にも泣き出してしまいそうな顔をしたのを、彼女はよく覚えていた。
これまで見捨ててきたものの亡霊に責め立てられ、吐き気を催す程の自責の念に駆られ。
鴇緒は、壊れてしまいそうな顔で、夕鶴が伸ばした手を取った。
「置いてかねぇよ…。俺は、もう誰も置いてかねぇ……」
その手が、震えて冷たかったことも、夕鶴は覚えている。
何もかもが、あの時狂ってしまった。いや、最初から、全てがどうかしていたのだ。
この汚れた町に追いやられたことも、あの地の底で出会ったことも全て。
「だから、」
鴇緒は夕鶴の手をそっと離すと、近くに転がっていた鶴嘴を手に取った。
遥か頭上から差し込んでくる、薄い陽の光が、鈍色を照らす。
それを眩しいと思ったのも束の間。鴇緒に見放されることはないのだと、そう理解した夕鶴は、全てを受け入れるかのように、柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、鴇にぃ」
背中の向こうで、大きく両腕が振り上げられた。
周りは見ていられないと、眼を逸らしたり閉じたりしたが、当の夕鶴は何も怖くはなかった。
彼女が最も恐れていたことは、鴇緒に捨て置かれることで。それが起こりえないということは、これから証明される。
使い物にならない両脚を置いていくことで、これからも夕鶴は、彼の傍に在り続けることが出来る。
それならば、襲い来る痛みすらも喜んで享受しよう。
振り下ろされた鶴嘴が脚を断つその瞬間すらも、夕鶴は笑い続けていた。
(あぁ。これで私は、貴方と一緒にいれる)