カナリヤ・カラス | ナノ
「……なんなんですか、あの人」
鴉の肩から離れても、空中に留まり続ける手を、小さくなってやがて消えていった鴉の背中を見て。信じられないと、雛鳴子は眉間に皺を寄せた。
礼儀も糞もない人間だとは知っていたが、ここまで人として腐っているとは思わなかったと、雛鳴子は呆れ、失望した。
例えば、相手がいかにも此方を不快にさせるような人間だったら、まだ納得はいく。
しかし、鴉が唾を吐きかけるように苛立ちを向けたのは、言葉遣いも作法も彼なんかより余程出来ている夕鶴である。
掃除屋から単身、車椅子を要する身で此処まできて、手土産まで持ってきた彼女に対し、あんな対応――。
雛鳴子はそこまで考えて、はっとした。
あの場で、夕鶴は一人だった。両脚がなく、車椅子で移動しなければならない彼女が、一人。武装しなければとても歩いていられない、この物騒な町で 一人。
雛鳴子がその異常に気が付いて振り返った瞬間。其処にぎらりと銀色が光ったのを、眼が捉えた。
「あ…貴方、何を持ってるんですか……」
尋ねるまでもなく、それは鋏だった。よく研がれ、よく切れそうな、大きな布切り鋏だった。
突き刺せば、人の腹を裂くことも容易いだろう――鋭利な、刃物だ。
「あっ、これはね、本気で刺すつもりで持ってきた訳じゃないんだよ。でもね、鴇にぃに怪我させた人だから、一応持ってきたの」
夕鶴はそう言って、鋏を布製をカバーの中へと納め、大きく広がっている服の袖の中へとそれを入れた。
何処から出してきたのかと思えば、裾の内に隠し持っていたらしい。
「ふふっ、本当にすごい人なんだねぇ、金成屋・鴉さん。これに気付いてたのか…それとも、私の考えてることに気が付いたのかなぁ」
にこにこと、濁り気のない笑顔で凶器めいたそれを夕鶴がしまうと、雛鳴子の全身からどっと汗が噴き出してきた。
やはり、感じていた気味の悪さは、気のせいではなかった。
頭と腹の中を同時に掻き回されるような違和感の正体は、これだったのだ。
純粋無垢で出来た笑顔の下に隠れていた、狂気の刃物。鞘を破れば無作為に、無差別に向けられるその律動が、夕鶴の笑みには潜んでいた。
「安心して。貴方にも、鴉さんにも、他の誰にも使わないから。私は本当の本当に、ただ御礼を言いにきただけで、誰も殺そうだなんて思ってないから」
雛鳴子は、またやってしまったと思った。
ゴミ町に来て、この町で暮らすようになって、何度反省したことか。
この町にいる人間は、全員狂っている。
どれだけ正常に見えようと、どれだけ好意的に接してこようとも その顔の裏には欲望が、死体に群れる蟲のようにびっしりと張り付いている。
それを、どうしてまた忘れてしまったのか。歯噛む雛鳴子を前に、夕鶴はただただ穏やかに笑っていた。
暫くそれを見詰めた後。雛鳴子は意を決したように、拳を握り固めて、鴉のいた応接間の段差へと腰を下ろした。
「……それも、あの人は見抜いてたんでしょうかね」
諦めに近い溜息が、口から出てきた。
全てを悟った今、鴉がどうしてああも苛立っていたのか、さっさと二階へ行ってしまったのかも、納得がいった。
人の良さそうな表面にまんまとしてやられた雛鳴子と違い、鴉は最初から気付いていたのだ。
この町の人間である以上、夕鶴もまた狂気を持っていることに。それが、自分に向けられていることに。
幾ら見た目麗しい少女でも、何かスイッチが入れば迷わず自分を刺殺してこようとしているのであれば、不快にもなるだろう。
だから鴉は、そのスイッチを踏む前に退却したのだ。
夕鶴の言う「誰も殺そうだなんて思ってない」は、”何もなければ”の話である。
万が一何か…例えば、意図せず彼女の内に隠れた狂気を覚ますようなことがあった時――彼女を叩き伏せてしまえば、また掃除屋と揉めてしまうだろう。
それを回避すべく、何もかも見抜いていた鴉は、早急に引くことを選んでいたのだ。
それにしても、もっと上手く対処出来なかったものかと雛鳴子は思ったが、夕鶴は何も気にしていない様子だった。
「そうだろうね。鴉さんは、とっても人の心を知ってる人みたいだし……だから、鴇にぃのことも助けてくれたんだろうなって、私思うの」
夕鶴の言うことは、言葉選びの問題か、違和感こそ感じるが当たっているのかもしれないと雛鳴子は思った。
鴉は人の心臓を、或いは脳を手に取って解剖しているかの如く、人心掌握に長けている。
人が最も隠していたいところを抉りだし、最も臆することを暴き立て、最も大切にしているものを盾にする。
そういう術を知り尽くし、数多の人間を心身共に地に伏せてきたのが鴉という男だ。
そんな彼が少し視点を変えれば、人が何に狂わされ、何に捕らわれているのか。それを見抜き、救済の手を出すことも、そう困難なことではないのだろう。
人の心を良くも悪くも知っている。それが、鴉だ。
「鴇にぃはね、ずっと苦しんでたの。あそこに置いてきちゃったものを背負い込みながら、上へ上へって、もがいて戦って……。
でも、それを私達は止められなかった。私達の為に戦っている鴇にぃを、誰も否定することが出来なかった。
それが、鴇にぃにも皆にも良くないことだって分かっていても……鴇にぃが傷付くかもしれないと思ったら、何も言えなかった」
全てを知った時、鴉は鴇緒だけでなく、夕鶴や掃除屋の面々のことも理解したのかもしれない。
だからこそ、自分と鷹彦に彼女を探し出して連れてくるようにと命じ、交渉という形で本心を明かさせたのだろう。
どうしてそんな真似をしたのかと言えば、あの日誤魔化されて未だに分からないのだが。
「貴方達が背中を押してくれなかったら、私達はきっと……鴇にぃを止めることが出来なかった。だから、私は御礼を言いにきたの。
本当は、鴇にぃも一緒にって思ったんだけど…あんなことがあった後だから、顔向け出来ないみたいで。
話が終わったら連絡してくれって、貴方達が来る前に行っちゃったの」
「……あぁ、成る程」
雛鳴子は、ようやく夕鶴が一人でいたこと、一人でいれた理由に納得がいった。
ゴミ町四天王が一角を担う鴇緒の同伴があったのなら、両脚のない彼女でも此処まで来るのも訳ないことだ。
外で待っている間も、恐らく見えないところから鴇緒が見ていたのだろう。
そうこうして、夕鶴は此処に礼を言いに来たという訳だ。
肝心の鴉はあんな態度で礼も聞かずに行ってしまったが、それでも構わないという感じで、夕鶴は笑っていた。
こうして雛鳴子に話せるだけで、それで十分だと言わんばかりに、その表情は華やいでいる。それは、鴉への感謝が大きい為なのだろうか。
「本当に、本当にありがとう、金成屋さん。ずっと”あの場所”に囚われていた鴇にぃは、貴方達のお蔭で――」
まだ、何か一つ見落としているような気がする。
そんな予感に雛鳴子が眉を顰める中 りんと涼やかな声が、首を刈る刃物のような響きを得た。
「私だけに、囚われてくれる」