いただきもの | ナノ





「雛鳴子ぉ、デートしようぜ、デート」
「お断りします」

交渉は2秒かからず決裂した。





また別の、とある日。

「雛鳴子、デー…」
「タを紛失したんですか、鴉さんらしくもない。
買い直すのはご自由に。でも費用は自分の懐から出してくださいね」
「その繋ぎには無理がありすぎんぞ」

途中で口を挟む余地もないくらいに、早口で捲し立てたのには訳がある。
そうでなければ容赦なく付け込まれるか、面白半分に苛められるのを、雛鳴子は経験から知っていたからだ。
逆境に晒され続ければ、子供といえど自然と強くなる。実用一点張りで習得した対処法には、
さしもの鴉も、喋り終えるまで待った後に溜息を漏らす他なかった。
毒気を抜かれたと言おうか。普段の彼の口振り及び振る舞いに忠実な表現をするならば、萎えた、という事になる。
厭らしいニヤつき笑いも消えるまでに気勢を削がれた顔に、どうやら凌ぎ切ったらしいと判断する。
もっとも、鴉が本気になれば、雛鳴子にもどうなるかは判らない。
そういう鴉の姿を、雛鳴子はまだ見ていない。

「あのなァ、雛鳴子」
「はい」
「自慢だが、俺は仕事に関しちゃ真面目で熱心だ」
「知ってます。良くも悪くもそこだけは掛け値なしに真摯ですよね、鴉さんって。
その真摯さの何億分の一でもいいからプライベート面に分配してくれれば、尊敬しない事もないんですけど」
「そう、そのプライベートだ。
日々頑張ってお仕事に明け暮れてる俺にはな、こうやって個人的な時間を捻出するのは意外に大変なんだよ」
「知ってます。そう聞くと本当、現実置き去りにして模範的な人格者に思えてくるから不思議ですよね」

それもまた鴉の言う通りなのだ。丁寧な口調で罵倒しながら、雛鳴子はそっと考えた。
腐敗と汚濁と暴力まみれのゴミ町を、いかにも自由気ままに闊歩しているようでいて、その実この人は自分で自分を縛っている所がある。
規程に基いて引き受け、スケジュールを守って達成してみせる仕事などはその最たる例であり、働いていない鴉というのを、
奴隷という名目で共に暮らし始めてから、雛鳴子はあまり見ていなかった。
また、鴉が受ける仕事の性質もある。たまに已む無く休んでいるかと思えば、それは何がしかの負傷をしてきた時であったりと、
アリとキリギリスに准えるなら紛れもなくアリ側に属する人間なのである。それが到底、健全な子供には読み聞かせられない勤労内容だったとしても。
他に楽しみを持たない仕事の虫というのとは違う。だが仕事と遊び、どちらに割く時間が多いかと問えば、間違いなく仕事。

「そんな貴重な時間の、有り難くもお裾分けに与ってみる気はねぇか?」
「それ私にとっては貴重でも何でもありませんし私個人の時間は更にもっと法外で桁外れに貴重ですのでー。
ではさようなら」
「つれねえなあ」

鴉は無理強いはしてこなかった。意外といえば意外な事に、それは彼の標準だった。
当てが外れた鴉が、ようやく確保できたプライベートな時間をどう使うのか、雛鳴子は少しだけ気になったといえば気になった。
とはいえ、気になりはしても気に掛けるには至らない。せいぜい気晴らしに興じて発散してくれて、こちらに及ぶ被害が減るのなら言う事はない。
自分の代わりに女でも買いに行くというなら、それはそれで構わないと思う。鴉が一人の時間をどこでどう過ごそうと、それこそ雛鳴子の知った事ではないのだ。
そこに踏み込める関係に、少なくとも所有者と商品というのは該当しないと考えている。
踏み込む日が来るとしたらそれは、最低限、名実共に人と人の関係に戻った時であろう。





そしてまた日は過ぎた。
借金は、減ったり増えたりの上下運動を繰り返している。

「雛鳴子、今日の午後空けておいたぜ」

装備点検の手を止めて、今度は雛鳴子が溜息をつく番だった。
雛鳴子自身はそんな事とっくに忘れていたが、いつかの鴉が漏らしたのとそっくりな溜息だ。
皆まで告げられずとも、何の事なのか察しがつくようになってしまったのが虚しい。

「そういう時は普通、空いてるか?って最初に言うんですよ、聞くんですよ。
一方的に自分の予定だけ告げてどうするんです」
「バァカ、奴隷の予定を把握してないご主人様がどこにいるってんだよ。
ものの見事にスッカスカだろ、お前の午後。やれるとしたら営業ぐらいか。でもゴミ町もこの頃不況だからなァ」
「…まあ、あなたがそういう人だってのは身に沁みて判ってますけど、
その言い方だと、まるで私が待ち望んでたみたいに聞こえて不愉快だからやめてください」

雛鳴子の声が、幾分、硬さと厳しさを帯びる。
また、奴隷か。
そう思うのなら、わざわざ意思を確かめるような真似をせず、端から命令すればいいのだ。
約束も契約も反故にして、一切の抗議を笑って切り捨てて、お前を買ったのは俺だと断じて、
それでも逆らう生意気な所有物如き、力尽くで封じてしまえば済む。
この場合、雛鳴子には打つ手が無い。無論、最後まで抵抗はするだろうが、鴉に勝てる要素は何ひとつ存在しない。
だというのに鴉は、こうして半端に人間扱いする余地を残す。そこに引っ掛かる。何に苛立つのかも不明なまま、性奴隷呼ばわりされる屈辱とは別に苛々する。
鴉にとっての”今”は、足掻く姿を観賞しつつ熟するのを愉しんでいる期間に過ぎない。それを優しさだと誤解してしまったらおしまいだと思う。
今度は、溜息と呼ぶ程ではない短い息を吐き出して、雛鳴子は言った。

「いいですよ、デート。しても」
「お。
そーか、そーかそーか。口じゃ嫌だ嫌だ言いながら、やっと自分の気持ちに素直になったか」
「一回300万だったら」
「うおい」

これには思わず鴉が声をあげるも、雛鳴子の表情は変わらない。

「…とうとう自分で自分に値段付けるまでに堕ちたか、鴉さんは悲しいですよ。
しかもお前、300万って。相場っつーもん知ってんのか。都の高級娼婦でもそれはねーぞ」
「堕ちるかどうかの最終決定は、買う人間がいてこそ成り立つものですけどね」

益体もない文句を垂れ流す鴉に、にこりともせず雛鳴子は答える。
揺るがない態度。揺るがされる事でもない。それはつまり、至って真面目に話しているという事だった。

「値段は一回300万。これは基本料金で、時間毎に20万ずつ上乗せされます」
「おい」
「契約成立条件その一。デート中に、私からの申し出があった品物は全て買い与える事。
なお、後日それらの商品を売却し、私、雛鳴子の私費とするのは自由とする」
「おいおい」
「条件その二。お触りは絶対禁止です。
僅かでも違反があった場合は、重大ペナルティとして一秒毎に20万頂戴します」
「えげつなすぎんだろ条件も罰則も!
だいたいお触り禁止ってどこの10代迎えたばかりの少年少女のご近所初デートだよ。
大人のデートっつったらやる事はひとつだろ。町に出る、ホテルに入るもしくはそこらの好ポイント発見、やる、帰る、以上だ」
「今更ですが心底最低最悪ですね。少しは下心を隠そうって気はないんですか」
「女を誘う時に嘘は吐かないのが、俺の誠意の示し方だからな」
「いらねーよそんな誠意」

得意気な鴉につい崩れ始める態度を、雛鳴子は改めて引き締める。油断したが最後、この鳥には死肉の一片までも啄まれる。
だが確かに、目的が前面に押し出されているとなれば、それは既に下心とは呼べまい。
直球に対するは直球。こちらも最初に目的を洗いざらい陳列して見せてやっているのだから、その点ではフェアだと言える。
目的は利益。愛の付く感情など欠片も見当たらない、実用一点張りの、共に赴く理由。
これは楽しいデートの打ち合わせではない。純然たる商売の駆け引きだった。
目下の雛鳴子にとって最も重要なのは金であり、それは多ければ多い程いい。命より大切とは呼べなくとも、人生とは文字通りに等価である。
デート代であれ、提示した条件下でもたらされるならば正当な報酬だ。提示内容に妥協はしていない。そして仮に結んだならば、鴉は条件を守るだろう。
全てを見込んで臨む交渉なのだ。故に、何も、問題は、ない。
ポーカーフェイスを保とうと務めていた雛鳴子の顔は、いつしか挑むように鴉を睨んでいた。

「んな殺伐としたデートがあるかよ」
「そうですか? 風変わりでいいと思いますけど。流行るかも」
「流行ってたまるかそんなん。
デートってのはなぁ、こう女が怒り出す一歩手前を見極めて突き進む時に漂う色香が――」
「一秒20万…」
「おっと」

鴉は捉え処のないへらりとした笑みを浮かべると、雛鳴子に向けて伸ばしていた手を引っ込めた。
睨まれていた側には、極めて不服そうながらまだ余裕がある。
そのまま肩を竦めて、鴉は立ち去る。話は流れたようだ。
雛鳴子は、第二弾が来るかと身構えていたのを解いた。体も、心もだ。どっと疲労が襲ってくる。
こんな話に、鴉が応じてくる筈がないと思っていた。あらゆる条件に先立って、最初から無茶なのを第一に見込んでの交渉だった。
鴉はこれに乗ってこない。鴉は自分を、更に金を積んで買おうとは決してしない。
それは最底辺の部分では自分が鴉を信用しているという事、ひいてはそれだけ鴉への理解が深まっている事の裏返しに他ならず、
そんな自分を、雛鳴子は腹立たしく感じないでもなかった。
敵に打ち勝つには、まず敵の全容を知らねばならない。基礎中の基礎と呼べる戦術が、どうしてこう言い訳がましく聞こえるのか。
中断させられていた点検作業を再開するべく、雛鳴子は布と油を取り上げた。
が、どうにも気が乗らない。マニュアル通りに進めるだけの機械的な作業といえども、最低限の気分の乗りは必要とされるのだと痛感した。



ゴミ町。
この町に生きているという事自体が、壁向こうの綺羅びやかな住人からすれば蔑視の対象であるに違いない。
だがそんな町でも、思いの外、何もかもが気持ち良く運んでくれる日というのはある。
それを挙げて、神は決して何人をも見捨てぬと説く者もいるだろう。けれども大多数のゴミ町住人は、それを慈悲よりも気紛れと受け取る。
それもたまに良い目を見せてやれば、次に待ち受ける悲劇がより鋭さを増すという目論見付きの気紛れとしてだ。
前者の、神の愛を信じ、人は一人ではないのだと明日への希望に瞳を輝かせられるような者は、翌日全身に開いた穴から乾いた血を垂れ流して死んでいる。
そういう、町だ。
ともあれ雛鳴子にとって、今日はそういった日であった。いつになく快適な目覚めに始まり、普段通りの朝食も妙に美味しい。
午前中の案件はどちらも無事に回収が済んだ。特に片方は手こずりそうだと身構えて向かっただけあって、あっさりと手渡された額面にきょとんとしてしまった。
早く仕事が終われば、その分浮いた時間ができる。ならばお茶の時間用にお菓子でも作るかと腕捲りをしかけたタイミングで、鴉が話しかけてきたのだ。

「なあ雛鳴子、デート」

何の前置きもなく。
しかし慣れるというのは、突発的事態にも即時対処可能だという事である。

「だから、それは…」
「無闇に触ったりしねえよ。お前と適当にどっか行って、なんかボーッと見たりうまいもん食ったりしたいだけ。約束するぜ」
「…約束って…その単語が鴉さんから出てくると、物凄く終末感を覚えるんですが」
「破った事はないんじゃねーかと思ってるんだけどなぁ」

それはそうだ。
それは、雛鳴子自身が良く知っている。
が、これはどうした事だろう。鴉から誘われるのは何度目か…いや卑猥な言葉を交えての誘いなら三桁など軽く突破しているのだが、
先手を打って自らに有利な条件を封じてくるなどとは。確か前に誘われた時に自分で言っていたように、
そうした行為こそを主たる目的として絡んでくるような男だというのに。
そこまでしてデートとやらがしたいのか。デートをしてそういう事に持ち込みたいのか。
いやだがしかし、それは自ら先んじて禁じてしまっているのだ。
言動の矛盾。目的と設定のずれ。雛鳴子は軽い混乱に陥り、さては新手の嫌がらせかと思考はあらぬ方向へ飛ぶ。
まじまじと鴉を見る。機嫌は悪くなさそうに見える。
そもそも、悪態は始終ついているにしろ極度に不機嫌でいる時はそう無い男だが、
それでも今日の雛鳴子の仕事が全てうまくいったというのは、鴉にとっては、最終目的を考えれば笑顔で歓迎できる結果ではない筈だ。
自分の利益は彼の不利益だと、雛鳴子は考えている。なのに、どうしてそう普通に楽しそうにしている。

「なんか気に入りそうなもんがありゃ、買ったっていいしよ」
「はあ…」
「ただな、そうなると売るのはちっと勘弁して欲しいんだが」
「う、売ったりしませんよ失礼な。
だいたいあれは予防線というか防衛壁というかそういうので、実際にそうするとか、そうなるとかは想定してなくて…」

当たり前だ。
鴉があの条件に頷く事は無いと確信していたからこそ、一片の情も交えず提示が出来たのであり、
仮に本当にプレゼントという名目で渡されたのであれば、幾ら喉から手が出る程金が欲しい身といえど、売り払ったりする訳がない。
それは彼に対する好意や悪感情とは別の、この掃き溜めで雛鳴子が人として生きる上で守りたい矜持である。
とはいえそれは仮定に過ぎず、そのような事が起こる筈もまた無いのだけれど。

「で、返事は?」
「…………」

決まっている、ノーだ。
そう答えるべき筈なのに、いつもと違い躊躇われる。
どうしてだろう。雛鳴子は戸惑う。すんなり切って捨てる、それに何かが待ったをかけている。
いつもと何が違うのか。
そうだ。
鴉の口にする、誘いの内容に誤った所が無い。

「そんなに時間は取らせねえよ。外出て、飯食って…どんなに長くても2時間ってとこか。
お前も俺も午後の案件始める前には、余裕もって帰ってこれるだろ」
「時間を考えるだけなら……そう、ですね、問題ないです。でも…」
「変な要求もしてねぇし、後からやっぱ追加ってのもナシだ。ちらっと外出て、飯食って…ま、飯だな、メシメシ。
外で一緒に飯食うぐらいに、かるーく考えてくれりゃいいぜ」
「お、重く考える気なんてありませんよ。何言ってるんですか。
ごはん、ですよね。外で一緒にごはん」
「ああ」
「別に、驚くような事じゃないですもん」
「ああ」

鴉にというよりはむしろ自分に言い聞かせるように、雛鳴子はしつこいくらい念を押した。
デートと言うから変に聞こえるのだ。食事と言い換えれば何という事はない。そう、外メシ。
お触りなし。鬱陶しいセクハラ発言なし。後付けのいかがわしい条件なし。
仕事でそうするのと全く同じに一緒に外へ出て、これと決めた店でいつもより少し贅沢なものを食べて、
ひょっとしたらぶらっとその辺を眺めたりして、普段なら買わないようなものを気が向いて買ったりする事もあったりするかもしれない。
そのように考えてみれば、なんという事はない行為。
世話になっている恩師、とは所業が所業だけに到底認め難いものの、衣食住の保証人として程度なら認めても良い相手となら、
別段、そこまで強固に拒絶するような事でもないような気がしてきた。
なんという事のない割には、やけにもたついた仕草で、とうとう雛鳴子は頷く。

「いい…ですけど」
「おっし、決まりな」

鴉がパチンと軽く指を鳴らす。
語尾に「けど」付きだったというのに、素直に喜んでいるのが雛鳴子にも伝わってきた。
完全な肯定ではない。最も悪い見方をすれば、不承不承の受諾と受け取れるだろう。
なのに、どうしてそう普通の人間がするように嬉しがってみせるのだ。軽薄な半笑いでいてくれた方が余程落ち着く。これは単なる食事に過ぎないのに。
ああ、デートでもあったか、そういえば。
認める事に、不思議と今まであったような不快感は抱かなかったが、こうも相手の思惑通り順調に進むと、天邪鬼な事に少し面白くなくなってくる。

「鴉さん、デー…おいしいお店なんて知ってるんですか?」
「それなりに。食ったことある場所とか、聞いたのとか調べたのとかな」
「…そう」

調べたのか、わざわざ。
一番最後に、おまけのように付け足された言葉が、どうしてか一番心に引っ掛かる。
数秒の無言を挟んで、雛鳴子は言った。いつまでこうして立っているのも、馬鹿みたいに思えてきたからだ。

「じゃあ…行きますか」
「おう」
「そんなに時間はかからないんですよね?」
「ああ、四人前も五人前も食う訳じゃないだろ、お前」
「そんなに食べませんよ…。
午後には帰ってこれるんですよね?」
「途中で邪魔が入らなけりゃな。そんな無粋な奴もいねぇと思うけどよ」

無粋というよりは、命知らずといった方が正しそうだった。
相変わらず、分かり切った条件をしつこいくらいに確認している自分がいる。
なぜだろうと雛鳴子は思い、困った事にすぐさま判った。
これは、けど付きで返事をしたのと同じ。繰り返し確かめる事で、自分は決して乗り気ではないのだと、あなたに対して疑わしい気持ちでいるのだと、
でもまあ義理もあるし忌み嫌っている程ではないからしょうがなく付き合っているのだと、鴉に対して意思表示をしているのだ。
では、何の為に。
それは、良く分からない。

落ち着かない心地のまま外へ出て、ガレージへ向かった。
さっさと一人で先に行ってしまう鴉に、ややホッとした。いつもそうだ。どんな時であれ彼は自分のやりたいようにやると雛鳴子は知っている。
だからこそ鴉が当たり前のように助手席ではなく運転席側のドアを開けた時、自分でも意外な程に驚いたのだ。
思わず飛び出した声は、まさしく鳩が豆鉄砲を食ったよう。

「え、あの、鴉さんが運転するんですか!?」
「そりゃそうよ。ってか、そこまで大層に驚く事なんかね」
「…これもサービスの一環?」
「サービスっつーかカッコだよ、カッコ。
この流れでお前に運転してけって、さすがにカッコつかねぇだろうが」

言われてみれば納得はできる。理由は見栄だと断言されてしまえば、極めて率直に頷ける展開ではあるのだけれど。
これこそが主人たる自分のポジションだとふんぞり返って、口やかましく安全運転を命じながらこちらを顎で使う光景が日常だっただけに、
いざ持て成す側と持て成される側とが入れ替わると、半端ではない違和感に身悶えしそうになる。
鴉が運転する車に乗るのは初めてではない。それどころか、もはや珍しくも何ともない回数を同乗してきた筈だった。
しかし、それらはあくまで仕事や買い出しに限定されている。雛鳴子の拒絶により、プライベートでは皆無と言っていい。
考えていると、まさにそのデートという単語が鴉の口から飛び出した為、雛鳴子はぎくりと身を強ばらせた。

「道中の景色が良けりゃ、ドライブデートと呼べたんだがなあ。
ここで目に入ンのは、デートにお誂え向きの気の利いた光景とは言えねえよな」
「景色は…その通りですけど、それだけでもないんじゃないですか」
「ってーと?」
「…だから…景色を見るだけがドライブって決められてないですし、決める権利もありませんし、多分。
ほら、途中の会話とか。そういうのも含めてドライブって呼ぶんじゃないかなって。いや知りませんけどね、私」

喋りながら、おかしい、と雛鳴子は思っていた。
どうして自分はいちいち、鴉をフォローするような発言を挟んでいるのだ、と。
また鴉は鴉で、そう?と短く問い返したきり、会話を打ち切ってしまっている。
普段の鴉なら、明らかに様子が違っている雛鳴子を目敏く見て取り、すかさず神経を逆撫でする一言を放ってくる筈なのに。
デートなのだから、そんな事をしないのは当然といえば当然なのだが、自分達がデートをしていて言動を遠慮しているという状況がまずおかしい。
調子が狂う。狂った住民により満たされた町では、当たり前である事に調子が狂う。

「まっ、雛鳴子ちゃんはのんびり座ってれば」
「は、はい…」

おっかなびっくりシートに凭れる雛鳴子を余所に、車は滑るように走り出す。
実際には、そこまで乗り心地の良かった訳ではあるまい。高い物には違いないにしろ、目の玉が飛び出るような超高級車ではないのだから。
だけれどもその時は、本当にそう感じたのだ。




都で暮らしていた――むしろ生かされていたと呼ぶべきか、あの頃から、雛鳴子はお洒落なスポットとも美しい空とも無縁だった。
この町とさして変わらない、ある面では更なるどん底に手が届くとさえいえる環境で、そんなものを掴む資格は無かった。
だから、というのだろうか。仮にもデートという名目で連れ出されると、どうにも全身がむず痒くてならない。
これが仕事であるとか、買い物であるだとか、あるいは金成屋全員でといった、とにかく集団や所属として行動するのなら、ほとんど気にならないのだが。
そわそわする理由はもうひとつあった。鴉である。
何をしたというのではない、やたらと人目を引くのだ。
ゴミ町では言うに及ばず、城壁の向こう側たるこの都においても。
容姿に際立って目立った箇所のある男ではない。むしろ黒基調の姿は地味な部類に入る。
だがその地味さが、暴力と死の匂い漂う不吉さが、否応なしに、そんなものとは無縁に、平和に暮らす人々の鼻を突く。
目立つという意味では雛鳴子もそうだが、鴉のそれとは性質が決定的に異なる。
汚れているのは雛鳴子も同じだ。しかし、人目を引くのは身に纏う死と火薬の匂いよりも法外の美貌という点において、雛鳴子はまだ染まり切っていないのである。
ただでさえ別々の意味で注目されやすい人間が、ふたり仲良く並んで散策中。
これで周囲の視線を逃れろというのは、忍者の頭領でも不可能だろう。
都という場所が場所だけに、不躾な眼差しで露骨に見てくる人間は少ない。が、雛鳴子も素人ではないから、鈍感でいる事はできない。
勢い、疲れる。男女ふたり静かな落ち着いた環境で、などというのは、それこそ鴉曰くの個室に引き篭もりでもしない限り、
完璧に叶える手段はゼロと呼んでもよかった。

だったら引き篭もってしまおう。
いい加減、監視されているような心境に嫌気が差してきた頃、雛鳴子は立ち止まって宣言した。

「結局なんだ、適当にそこら周ってうまいもん食うだけになっちまったな」

向かいの席に座った鴉が言う。
いかがわしい場所であるものか。ある訳がない。
鴨肉と郷土料理がお勧めという店に、鴉の案内で雛鳴子はいた。郷土。今となっては死語のような概念だ。
さすがに第二地区とまではいかないが、それなりに中央には近い。それでいて店の外観も内装も小ぢんまりとしているので、雛鳴子にも心地良く過ごせた。
料理の味も、評判通りに良い。ランチコースかアラカルトか。迷った末に、両方頼んで分け合ってみる事にした。そういう行為も許される雰囲気の店だ。
ソースが美味い。噛むと鴨の脂の味がじわりと染み出てきて、そこに幾らかねっとりした赤身が絡む。
あとはここに夜景とお酒でもあれば更にそれらしいんだろうな、と、雛鳴子は柄にもない想像をする。鴉は、今は飲んでいない。
その前に置かれた無味の炭酸水を少し可笑しく思いながら、雛鳴子はミネラルウォーターで喉を潤した。

「別に、失敗したみたいに言わなくてもいいんじゃないですか。初めからそれ目的だったんですし」
「うるせえ奴らが珍獣扱いしてこなきゃ、もっとノンビリできたんだがなぁ」
「なんだ、気付いてたんですか」
「気付かねーわけねーだろ、気にしてなかっただけだ。
時間があんま取れなかったのも痛いよな。俺も午後に予定入っちまってるから、こればっかりはフケられねぇ忌々しい」
「それはしょうがないですよ。鴉さんだって暇って訳じゃないんだから…」

雛鳴子は唐突に口を噤むと、付け合せのクレソンをむしゃむしゃと咀嚼した。
おかしいおかしい、またも鴉をフォローしてしまっている。それも全面的に。
ごくんと飲み込む。やや癖のある香りと味に、焦りが収まった。
鴉とて一から百まで間違った事を言っている男ではないのだ、フォローに回って悪いという事はない。ただこのシチュエーションでとなると、どうも妙な心境にさせられる。
これではまるで、せっかく気を利かせてくれたのにあまり思ったようにいかな――いや、やめよう。ただの上司とのお食事会なのだ、これは。

雛鳴子は彼女にとっての余計な事を考えるのを打ち切って、食事をする鴉に意識を集中した。
それなりに、満足そうに食べているように見える。
雑な男だが、決してものの味が判らない男ではないのだろう。
金成屋で暮らす日々で、鴉が食に拘っている様子は見せない。出せば大抵何でも平らげ、安酒に埋もれている事も多々ある。
だがそれでも、単純な蓄財量でいえば雛鳴子など比較にならない。日常的な放蕩こそ皆無にせよ、病的な節約論者でもないのだ。本物の美味に触れる機会とてある筈だった。
そんな鴉は、おいしい料理だという簡単な感想しか浮かばない雛鳴子より、ひょっとしたら余程この味を正確に理解しているのかもしれなかった。

料理。
うまい料理。
そうだ。
思い出した。
鴉は、雛鳴子が出すものは基本何でも食べる。そして、まずいと言った事がないのだ。
昔からそうだった。金成屋に連れて来られた直後の自分が作った、今思えば手抜きそのもののような料理も、
一言二言失礼な発言はあったとしても、まずいから食わないという扱いは一切なかった。
何でも食べてくれたのだ。端を少々焦げに侵食された目玉焼きだろうと、ドレッシングを混ぜすぎて水っぽくなりすぎたサラダだろうと。
またも雛鳴子を焦りが襲う。ぶわっと汗まで浮かんでくるかのようだ。
どうして、何故今になって、よりによって今この時間に自分はそんな事を思い出している。タイミングとしては最悪もいいところではないか。
邪魔があったとはいえ町並みを冷やかして、ひとつのテーブルで良質な食事を共にして、ふと目の前にいる男の性質を、なんの気なしに再確認してみたりして――。
雛鳴子はフォークを握り締めたままの拳を、ダン、とテーブルに打ち付けた。
雑念よ去れといった意味だったのだが、傍目からはいきなり怒ってテーブルを殴ったとしか見えない。
鴉も呆れたように言った。

「何やってんだ、行儀悪ィぞ。肉が足りねえのか?」
「鴉さんに言われたくはありません。そうじゃなくて、おかしいんですこんなの!」
「ハァ?」
「おかしいんですよ」

雛鳴子は力を込めて繰り返した。
そうだ。おかしい。こんなのはおかしい。ずっと考えていたが、やっと違和感の正体が分かった。
ギリッと刺々しい目付きで鴉を睨むと、雛鳴子は非難するような声をあげた。

「これじゃ――これじゃ、まるで普通にデートしてるみたいじゃないですか!」

意味を把握するまでの数秒間きょとんとしてから、声を出して鴉は笑った。
周囲の客の何人かが振り返ったが、我に返った雛鳴子が止めるまで、鴉は笑うのをやめなかった。

「ちょっと鴉さん、迷惑ですよ」
「や、いや、悪い悪い――お前があんまおっかしい事言いやがるもんでな。
……ああ、そうだな…うん、まぁ、それでいいや」

そう言うと、鴉は勝手に自己解決してしまった。
雛鳴子が問い詰めても笑って首を振るだけで教えてくれず、濃いピンク色にローストされた肉を大雑把に食い始めた。
結局、自分の抱くもやもやも、続く鴉の不可解な反応も有耶無耶になってしまったが、いつまで拘っているのも無意味に思えてきて、雛鳴子は料理に戻った。
柔らかく焼けた小振りのパンをもうひとつ貰うか迷っていると、鴉が雛鳴子の顔を見ながら呟いた。

「なんつうか、普通に誘えば普通に付いてくるんだな、お前は」
「…は? なに大発見みたいに言ってるんですか。
そんなの当たり前じゃないですか」
「そうかァ?」

鴉は面白そうに首を傾げたが、やはり深く追求はせず、雛鳴子は雛鳴子で、運ばれてきたブランマンジェに一発で気を奪われてしまった。
普通に誘えば、普通に付いてくる。
それが一概に当たり前とは言えないという事に雛鳴子が気付くのは、
金成屋に帰り着き、ふたりだけでずるいと嘆くギンペーをあしらい、小休止を挟んでいざ午後の仕事となる直前の事だった。
目を見開き、鴉に掴みかからんばかりの絶叫は、絶妙のタイミングで来客が扉を叩く音により中断され、結果として全身全霊の弁明をする機会はそのまま失われた。
これ以上ない程に真っ赤になってパクパクと口を開けたり閉じたりしている雛鳴子に、客の相手をする合間にちらと向けられた鴉の顔は、
普段の彼と寸分違わない、タチの悪い下劣な男のそれに戻っていた。



―――

話部屋の田鰻さんから賜った鴉雛小説二本めです!!

あまりにも萌え滾りすぎて本当は随分前にいただいたにも関わらず、独占していたい気持ちでしばらく一人でニヤニヤしながら読み返してしまっていました。本当に気持ち悪い奴ですねハリは。誰かちょっとグーで殴って、グーで。
でも秘蔵にしていたくなるのも分かるでしょう、この血沸き肉踊る小説!おデートですよおデート!

今回も完璧な鴉の言い回しに雛鳴子の反抗心に、そして完成された距離感…。この絶対認めないけど自覚してる感が本当にもう…ご馳走様です。
特にテーブルバァン!のとことか、最初に読んだ時は萌え過ぎて開いた口が塞がらなくなり、今読み返してもニヤニヤで壊れそうです。1000パーセントLOVE。

田鰻さんの文章になるとギンペーの名前が出てきただけでも嬉しいし、本当に心躍ります…。生きててよかったと涙を流し、空を仰ぎ見て風穴だらけになってもなお生きたい。

田鰻さん、本当に本当にありがとうございました!


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