いただきもの | ナノ




完全な日没までには幾らか余裕があるとはいえ、会社を出る頃には空は暗くなりかかっている。
今日の仕事を終えて帰宅した彼は、ドアの前に立つとインターホンを押した。
少し前から、彼は裏町にあるこのアパートに生活の場を移している。
ウライチにも程近く、仕事場からもそこまで離れてはいないと、彼からすれば絶好の立地。
徒歩で充分に通勤できる距離で、何度も乗り換えを強いられ、長々と通勤電車に揺られ続ける悩みとは無縁だ。
自転車を買っても良かったのだが、彼は、こうして歩いて通うのも悪くないと思っていた。
新生活が始まってからというもの、見慣れた風景の何もかもが新鮮に映る。時に、輝きすら伴って。
それらをのんびりと眺めながら歩くのは、悪くなかった。
社内でもそれとなくこの心境を語り、のろけですか、嫌味ですかと昼行灯に言われ、
薄紅には、わかる、俺もそうだったとしみじみ過去を振り返られるのが、この頃の彼の常であった。

聞こえてくる、ぱたぱたと軽い足音。もっと近い位置から、はぁい、と明るい返事。
今日は足りていないものを買い出しに行くと言っていたが、どうやらもう戻っていたようだ。
家に帰り、この声を聞くたびに、彼の胸は高鳴りと落ち着きに満たされる。
彼は取り出しかけていた鍵をしまい、中から開けてくれるのを待った。
家にいるからといって油断はせず、むしろ在宅中の時にこそ戸締まりはしっかりと、と伝えてある。
モノツキというだけで、常に一定の狙われる危険が付きまとっているのだ。
自分がいれば盾になってでも逃がす気でいるが、いない時に万一があってはどうにもならない。
昼行灯を始めとする実力者達が常駐しているツキカゲは、危険である反面安全でもあったのだ。
傘の下を離れたからには、自分の身は自分で守るしかない。
いや、自分達の身は自分達で守る、か。
手を取り合って。

「おかえりなさい、サカナちゃん」

開いた扉の向こうで、茶々子が彼を出迎えてくれた。
ウオザキ・ミナトの名を彼女は知っているし、伝えてある。
だというのに、慣れていないのか警戒しているのか緊張しているのか照れているのか、
ツキカゲを去る原因となったあの件がまだ尾を引いているのか、彼女は彼をサカナと呼ぶ。
なかなか本名で呼んでもらえない事を、彼は寂しいとは感じていなかった。
どちらでもいいとさえ思っていた。彼女が安らいだ声で、自分の名前を呼んでくれるのなら何でも。
名前とは、その人間を構成する最大要素のひとつであり、モノツキである限り永遠に奪われたままの人の資格。
故に、彼女がいまだ抱える妬みからそれを口にする事を拒んでいるのだとしても、
だったらいつか笑って呼んでくれる日を必ずもたらしてみせると思える強さを、彼は得ていた。
守りたいものができるとは、こういう事だ。

靴も脱がず玄関で佇んでいる彼に、どうしたの、と茶々子が首を傾げる。

「いいなぁ……と噛み締めてるところです。茶々子さんの『おかえりなさい』のある生活」
「大袈裟ね、毎日の事じゃないの」

やっと、茶々子が少し笑った。こうして以前の彼女に近い明るい声を聞くたびに彼は安堵し、
それがあくまで近い声でしかない事に、同時にもどかしさを覚える。
いつか心の底からと願っても、いつかという曖昧な目標を掴み取るのは決して簡単ではない。
毎日の事なのだからだと彼女は言う。その毎日こそが、彼にとってどれ程の喜びをもたらしているか。
この気持ちを抱いて寄り添い続ける事が、彼女の心を掬い上げる道に繋がっていると彼は信じている。
同時にそれは、自分の心が完全に救われる瞬間でもあるのだろう。
当たり前のように彼から鞄を受け取りながら、茶々子がどことなく申し訳なさそうに言った。

「私も、早めに新しいお勤め先を見付けられたらいいんだけど。
貯金だってそこまでたくさんある訳じゃないし、サカナちゃんのお世話になりっぱなしなのも気が引けるわ」
「うーん……ここで『僕に任せてください! 茶々子さんには何一つ不自由させず養ってみせます!』
と胸を張れたらカッコよかったんですけどね。あ、でも、食べていくだけなら今のままでもそこそこ」
「ふふ、いいのよ。
家事も好きだけど、外のお仕事も好きだもの。苦労するなんて思っていないわ」

茶々子らしい言葉だった。
彼は、職場での彼女の姿を思い出す。

「……ええと、実はねサカナちゃん。後出しの報告になっちゃうんだけど……」
「な、なんです改まって?」

急に歯切れの悪くなった茶々子に、まさか子供が、とそんな事もしていないというのに彼はうろたえる。
付き合いの長さで彼が何を口走ろうとしているか想像がついたらしく、ばかっ、と茶々子が珍しい罵り方をした。
一瞬、赤面した女性の顔が見えた気がしたが、これは確実に気のせいか具現化した妄想だろう。
だが僅かに彼女を覆っていた翳りも吹き飛んでくれたのは、怪我の功名であった。
あのね、と茶々子が指を折って数えながら、言う。

「お買い物の途中で、近場で働けそうなところを少し回ってみたの。
まさかそのまま面接する訳にもいかないから、どんな感じなのか聞くだけね」
「あ、なんだ。事故にでもあったのかと心配しちゃいましたよ」

話の内容に深刻さの欠片もなかったので、彼は胸を撫で下ろす。
後出しも何も、そもそも事前の報告が必要な事ではない。
茶々子が務められそうな場所、務めたい職場を探すのは自由だ。一緒に暮らし始めたからといって、
そこに口出しする理由は彼には無い。
勿論、その職場が裏で危険な仕事に絡んでいるようなら彼女の身の安全の為に止めるが、
そうでない限りは働きやすそうな会社なり店なりを見付けてもらうのが一番だ。

「いいなって思う所も幾つかあったけど、いざそこで働く自分を考えたら迷っちゃって、
結局、ひとつも具体的な話はできないまま帰ってきちゃった。
その事にね、少し戸惑うの、私。
ツキカゲに務め始めた時は、選べる状態じゃなかったから。とにかく生きる為に、そこで頑張るしかなかった。
でも今は違って、何も決まらなくてもこうしてちゃんと帰って、次を待てる家があって。サカナちゃんもいて。
合ってるかは分からないけど……これが自由に生きられるようになった、っていう事なのかな」
「……そこに僕も含めてくれてるんですね」
「決まってるでしょ。
あ、あと前はツキカゲにいましたって言うと身構えられちゃう事もあってね。
まあ、そんな所はこちらからお断りなんだけど!」

それはある意味で妥当といえば妥当な反応なのだが、これにはサカナも目を細めて苦笑した。
同時に、やり切れない別れであったとはいえ、ツキカゲは彼女にとっていまだ大切な場所なのだと嬉しくなる。
復職は難しくとも、いつかまた、彼女を連れてあのビルの階段を登れたら。
それは彼にとっても彼女にとっても、そしてツキカゲで待つ人達にとっても、素晴らしい瞬間となる筈だ。
日を追う毎に、抱える「いつか」がどんどん増えていく。そのどれもが、例外なく明日への希望を伴っている。
積荷は増す一方だというのに、一向に重いと感じない。これが未来を見詰めるという事なのだと、
将来を見据えるという事なのだと、茶々子と暮らし始めてから彼は初めて知った。
過去の自分に、お前にもこんな日が来るんだぞと教えてやれたら、一体どんな顔をするだろうか。

彼は、サカナは、ウオザキ・ミナトの名を持つ男は。
今、生きる事がとても楽しい。

「さ、立ち話が長くなっちゃったわね、入って。
晩ごはんできてるから、すぐに支度するね。先にお風呂に入ってくれててもいいよ」
「惜しい茶々子さん! そこはもうちょっと色っぽく!」

ごはんにするかお風呂にするか、それとも私で何とやら。
サカナの食いつきっぷりを、ばかね、ともう一度笑ってあしらうと、茶々子は促すようにその背を軽く叩く。
サカナは頭を掻きつつ、ようやく自分の家という自覚が持てるようになってきた部屋に入った。
上着を脱ぎ、ハンガーに掛ける。自分だけ風呂に浸かる気分でもなく、食器を並べるくらいは手伝おうと袖を捲る。
もしくは弁当箱を洗っておくのもいい。今日もおいしかった中身は、当然空っぽだ。

「えー、本日の献立は、サカナちゃんリクエストのでっかいハンバーグです!」
「いよっ、待ってました!」

しゃもじ片手に高らかに宣言する茶々子に、ぱちぱちぱちと拍手をするサカナ。
どこにでもあるような、しかし彼には無かった光景。
どこにでもあるような、かつての彼女が失った光景。
間もなくこの家からも、平凡な一家庭の幸福に満ちた、いただきますの合唱が聞こえてくるだろう。


―――

またまた田鰻さんから賜りました!今回はサカ茶でございます!!

このささやかな幸せを噛み締めてるサカ茶の尊さ……本編中で負った傷を抱えながら懸命に手と手を取って歩んでいく感じ……幸せにしてやらなければという使命感に駆りたてられます。作中でこの二人に苛酷な試練を与えておきながら、どの口がという感じですが。

前回いただいた昼ヨリのお話にもサカナが出ていたので、興奮も一入でございます。
そして先人としてコメントしてる薄紅のいい味……。

田鰻さん、素敵なお話をありがとうございました!!


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