モノツキ | ナノ



私の世界は、一度壊れた。


正しくは最初から壊れていたのかもしれないし、壊れていると思い込んでいただけかもしれない。

何より、私自身が壊れていたと言われても、きっとそうだったろうと、頷ける。


「…労働環境は決していいと言えません」

「はい」

「すすぎあらいの机は汚いし、LANの部屋も、またいつか大惨事が起こるかもしれません」

「はい」

「サカナやシグナルは無神経なことを言って貴方を困らせてくるでしょうし、火縄ガンもワガママを言ってきます」

「はい」

「ツキゴロシや商売仇が、貴方を傷付けてくることもありえます」

「はい」


けれど、そんな歪んだ私すらも貴方は受け入れてくれた。

崩れ落ちるのを待つばかりのこの世界を、完膚無きまでに狂う寸前だった私を、貴方は救ってくれた。


「何より………あんな、酷いことを言った私がいる場所で、いいんですか?」

「はい」


あの時、あの瞬間から。いや、そのずっと前から、初めて出会ったあの時から。

貴方は私の救世主で、新しい世界でした。




世界が眩しい、と思ったのは、比喩表現ではなくその通りのことで。本日も帝都は、強烈な日光に潰されてしまいそうな位の晴天であった。

つくも神によって創られたこの世界の、紛い物の空に、存在しない太陽。
そんな物の下で生きている人間達は、神の余計な計らいによって再現された夏という季節に、各々立ち向かっている訳だが。


「ふぅ…今日も暑いですね」

「そうですね……」


薄ら汗が浮かんだ額を手の甲で拭って、パタパタとTシャツの首回りを扇ぐ少女を前に、男は眼を細める代わりに蝋燭の火を穏やかに緩めた。
この世で最も尊いものを見るかのような、それでいて幼い子供や犬猫を愛でるような。そんな想いを燃やして灯るランプ頭に、きらりと少女の笑顔が映った。

この夏空の下、例えるならやはり相応しいものは向日葵か。大きく咲き誇る花に似た、明るい笑みは、帝都に降り掛かる猛暑を嘆きながらも、暑さに負けてはいなかった。


「ふふ、でもこの暑さがないと夏休みもありませんからね。毎日ここに早く来れるから、感謝しないといけませんよねっ」

「……そうですね」


男こと昼行灯は、先程から同じような返事しかしていないことも気に掛ける余裕もない程に、少女…ヨリコの笑みに魅入っていた。

周囲からランプだと受け取られるその顔は、この暑さで溶けてしまったかのように実に緩んでおり。
その表情が見える訳もない周囲の人間――もとい、モノツキ達からも、きっとそんな顔をしているのだろうと思われているのは、彼から放たれるオーラのせいだろう。


ここ一ヶ月、昼行灯はずっとこんな調子であった。

というのも、高校生であるヨリコが夏休みに入ってから、普段学校で過ごしていた時間をツキカゲで過ごすようになった為である。


学校生活のように月曜日から金曜日まで、朝は八時から夕方三時まで…という程みっちりとシフトを入れてはいないのだが。
午前中から昼過ぎまで、ヨリコが週に四日程ツキカゲで過ごしてくれるのが、昼行灯にとってこの上ない幸せだったのだ。

つい二ヶ月程前。自ら彼女を手放そうとした反動も相俟っているのかもしれないが、とにかく彼は幸福感に満たされていた。
それこそ、社員達が呆れる程に。彼はこのぬるま湯のような現状に、完全に溺れかけていたのである。


「社長、最近たるんでますね」

「……はい?」


何せ起こった問題が問題、事態が事態だったので、暫く何も言わずにいた社員達が痺れを切らしたのは、もうこれ以上甘んじさせるのは危険だという判断が下された為だ。

よって、ヨリコが上の階の掃除で三階オフィスを留守にしている間に、ようやく釘は刺されることになった。


「これまでからしたら、とてもいい傾向だとは思います。えぇ、思ったからこそ、僕らもこの二ヶ月。社長をなまぬるーく見守り続けて参りました。
しかしです!もう流石にこのだるっだるな空気を脱却しなければならないと!この炎天下の中で僕らは思うのですよ!」

「サ、サカナ…貴方は何を」

「いいですか社長!はっきりきっぱり言わせていただきますよ!」


突然の切り出しに理解が追いつかないままに捲し立てられ、昼行灯が固まる中。サカナはオーバーヒートを起こしたかのように熱意を込め、ズビシッ!と気持ちよく昼行灯を指差した。

相手は上司だというのに、まるで犯人を明かす名探偵のようなノリで、サカナは声高らかに言い放った。


「ずばり、社長はいい加減にアクションを起こすべきです!!」

「ア、アクション…?」

「イエス!」


戸惑う昼行灯が視線を逸らして助けを求めるが、茶々子も修治もフォローに来てはくれず。寧ろ「いいから聞け」と言うように、うんと頷かれただけで終わった。

サカナは「僕らも」「僕らは」と言っていたが、これは社員達の総意見なのか。それがようやく分かったところで、サカナは更に昼行灯に畳みかける。


「ヨリちゃんと和解してから、社長はそりゃーもう幸せそうに日々を過ごしていらっしゃいました。僕らもそれを見て、あぁよかったよかったと胸を撫で下ろしました。
ですが、それがもう二ヶ月続いているんです。そう、二ヶ月もの間、社長はヨリちゃんに受け入れてもらえた喜びにただただ浸っていただけなのです!
電話一本掛ければ即ベッドインが可能なこのご時世にですよ!!」

「サカナ、それはなんか違いますよね」

「ともかくです!」


反論を許してくれる気はないらしい。真っ向から昼行灯の言葉を叩き切り、サカナは社員達の主張を雄弁に語る。


「ヨリちゃんが此処にいてくれるってことに甘えるのはここまでにすべきです!男女が開放的になる夏に便乗して、ヨリちゃんと一発熱い夜を交わす位の勢いで」

「後半はともかくとして、俺もそろそろ動き出すべきだと思うぞ昼行灯」

「薄紅、貴方まで」


が、その方向性が怪しくなってきたところで、交替だと言わんばかりに薄紅が口を開いた。

あまり言わせておくと、昼行灯が引き退くとの判断か。はたまた、サカナに余計な焚き付けをするなとの規制か。
何にせよ、強制的にクールダウンさせられることになったサカナの代わりにと、薄紅は昼行灯に箴言することにした。


ヒナミ来訪の際、彼女がヨリコに全てを暴露することを止められなかった後ろめたさから、昼行灯が弛みきっていると思っても何も言わずにいた薄紅だが
流石の彼も、もう見て見ぬふりは出来ない心境らしい。

それは一切進まない二人の間柄が歯痒い、というのが一切ない訳でもないのだが。それ以上に見過ごせない問題が、彼等にはあるのだ。


「今の関係が悪いとは言わんが、今のままでいてもどうにもならんだろう。それに、ヨリコさんが此処を離れないと言ってくれていても…それにも期限と限界があるんだぞ」


昼行灯に灯り続けていた、希望に浸り続けていた炎が、ジュッと音を立てて消えた。


そう。ヨリコが離れることを危惧し続けてきた昼行灯達は、ヨリコが他の場所よりも此処を尊重する旨を聞いて、一つの危機は回避出来たと安堵した。
しかしだ。あくまでヨリコが此処を去る可能性の一つ二つが消えただけで、まだ彼等には警戒すべきものが多くある。

例えヨリコがツキカゲにいることを望もうとも、彼女は高校卒業前には就職活動に入り、仕事が決まればツキカゲにも顏を出せなくなるだろう。

闇に生きる男・昼行灯と、ごく普通の女子高生であるヨリコを繋ぎ止めている糸が、タイムオーバーによって切れてしまえば。それを紡ぎ直すのは容易なことではない。


それに、ヨリコが此処を捨てることはなくとも、誰かに奪われてしまうということは、まだ大いにありえるのだ。

その命を、その心を、いつ誰が摘み取ったとしても、何等おかしくはない。
前者は昼行灯が持てる資産や人脈を用いてどうにか繋ぎ止めているにしても、後者は金や権力ではどうにもならない。

ヨリコの心を誰かが射抜いてしまうその前に、先手を打っておかなければ。色恋事に鈍いとはいえ年頃の娘には違いないヨリコが、いつ誰とそんな関係になるかは分からないのだ。


彼女が傍にいるからと甘え続けていては、望まぬ結末を迎えることになる。

それに対する恐れを忘れていたからこそ、昼行灯は忠告を食らうことになったのだ。


「……そう、ですね。確かに私は、ヨリコさんが此処にいてくださるという事実に安心しきって、浮かれて……甘えていました。
もう何も不安に思わなくていいのだと……すっかり忘れていました」


希望の光は濃くなったが、それでもまだ、昼行灯は彼にとっての完全なる救いを手には出来ていない。

ヨリコが嘘偽りなく、愛を以てして此方を受け入れても、それだけでは満たされない心が彼にある以上。昼行灯は未来永劫、人に戻ることを赦されないのだ。


呪われた罪人が神から授けられた唯一の温情。残されたたった一つの救いの道は、当人が望む真実の愛を掴むことにある。

薄紅が恋い慕うシオネと想いと繋いだように、認められたいと願っていた火縄ガンが社員達から存在を享受されていたことを自覚したように。
呪いを受けた者が最も望む愛の形を成し得て、初めてモノツキは救われる。


故に、昼行灯は現状という甘い沼に沈んでいてはならなかった。

彼がヨリコに恋をしてしまい、ヨリコからもまた同じ気持ちで愛されることを望んでしまった以上。昼行灯はヨリコと男女として愛し合う為に、立ち向かわなければならないのだ。
雇い主とアルバイトという関係を、恋人というものにしたい。その願望と、立ちはだかる障害と、昼行灯は戦う必要があるのだ。

それを再認識した昼行灯は、ぐっと手に力を入れた。


薄紅の言う通り、昼行灯とヨリコが近くにいることが出来る時間には限界がある。
その時間内に、彼女に男として見てもらえるよう努め、恋い慕う気持ちをも受け入れてもらえるようにならなければならない。

どんな仕事よりも大きな課題を前に、昼行灯は震え上がってしまいそうだったが。力を込めて握った手からは、不思議と勇気が湧いてきて。
ふっと憑き物が取れたかのように肩から力を抜いて、昼行灯は呟くように覚悟を口にした。


「…そうです。もう、恐れることはないんですから……思い切って、更にヨリコさんに歩み寄っても、いいんですよね」

「昼さん!」

「社長!」

「で、ですが…………」


が、長年培われてきたものというのはそう簡単に変えられるものでもなく。
ついに!と声を弾ませたサカナと茶々子を制するように、昼行灯はおずおずと俯きながら、弱々しく蝋燭の火を燃やした。


「そんなに、急かなくていいです、よね……というか、急いては事を仕損じると言いますし、がっつくと嫌われそうですし、というかいきなりアプローチをかけても不自然ですし、
こう、自然にそれらしい流れを作って…その為にまず少しずつ距離感を縮めていく必要が」

「……そうだな。うん、それでいいと思うぞ」


元々待ち一辺倒気質であった昼行灯は、正しい歩み寄り方を手探りすることから始めねばならず。
そこを急かしても仕方ないなと判断した社員達は、齢三十を真間近にして女性との接し方に悩む情けない男を前に、やれやれと無言で肩を竦めた。そんな時だった。


「昼行灯、電話」

「あ、はい」


けたたましく鳴り響くコール音に、ハッとして、昼行灯が電話を手に取った。

取引先か、それとも新しい仕事か。何にせよ、緩んだ昼行灯の気持ちを締め直すような仕事が来てはくれないかと、社員達が各々の仕事に戻りながら思っていたその頃。


「へ……これ、私に…ですか?」

「…そうだって」


next

back









×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -