モノツキ | ナノ



四階の掃除をしていたヨリコは、目をこれでもかと丸くしながら、ぱちくりと瞬きをした。

その向いでは、夏の熱気にやられているのか、いつも以上に気怠そうなすすぎあらいが、Tシャツを捲ってぼりぼりと腹を掻いていた。


流石にこの真夏にジャージを着る気は起らないらしい。いつだかヨリコが選んだ紺色のTシャツに、伸縮性に富むストレッチジーンズを着ているが、
そんなことよりも気になるのが、突如彼が手渡してきたものであった。


「用があって花屋行ったら押し付けられたから、あげる。捨てると五月蝿く言われそうだからさ…もらうだけもらって、後は煮るなり焼くなり好きにして」

「そ、そんな!いくら私でもお花を食べたりしな……あ、でも菜の花とかおいしいですよね…」

「……そういう問題?ってか、あんた本当に食べ物のことばっかだね」

「う……すみません」

「…いや、いいんだけどさ」


すすぎあらいは、いつものように低い溜め息を吐いて、いつぞや腹の虫を盛大に鳴かせた時のことを思い出しているのか、縮こまる程恥ずかしがっているヨリコに手渡した花を見た。


花屋で押し付けられた、小さな百合の花。
手元に残って二日目だが、まだ瑞々しく咲き誇っているそれは、たまたま起きて、たまたま外の空気でも吸おうと部屋から出たところ、
たまたま掃除をしていて居合わせたヨリコに会っていなければ、そのまま枯れてゴミ箱行きになっていたところだが。どうにか花の寿命内に上手いことめぐり合わせが来たらしい。

すすぎあらいは一先ず一つ事が片付いた、と一息ついて、荷が下りたところで二度寝でもするかと思ったが、その踵が返る前にヨリコが「あの」と声を掛けて、彼の足はぴたりと止まった。


何かあるのか、と少し怪訝さを含んだ視線を投げれば、不用品を押し付けられたというのに、顔を綻ばせているヨリコが、洗濯機の戸に映った。

混じり気のないその笑みは、渡した花によく似ていて。すすぎあらいは何故これを彼女に渡そうと思ったのかを思い出して、何だかなと首の後ろを掻いた。


「えっと……ありがとうございます、すすぎあらいさん。お花、とっても嬉しいです」

「……そう」


喜ばれたところで、自分はどうということでもないのだが。取り敢えず次に用事があって花屋に赴いた時に、花の末路を聞かれても困らないことになったのだ。
すすぎあらいは一件落着ついでに喜ばれたなら、それはそれでいいと片を付けて、くぁと欠伸をした。

どうにも最近、彼らしくもない睡眠サイクルを送ってきたせいか、起きてもすぐに眠気がどっと押し寄せてくる。
元からそんな調子と言えばそうなのだが、特に強い睡魔に見舞われてしまったすすぎあらいは、部屋に戻ってもう一度寝ることを心に決めた。


「あ、あの!これ、ロッカールームに飾ってもいいですか?」

「……好きにしていいんだってば」

「そうでした…ありがとうございます!」


だからとっとと解放してくれ、とぺこぺこ頭を下げるヨリコを適当に払い、すすぎあらいは自室へと戻った。

下手をすれば、この行動がまたあらぬ誤解を生んで、ツキカゲに面倒な波紋を起こすことになるなどとまるで思わずに、
彼は愛する万年床へと真っ直ぐに戻り、タオルケットに包まって二度寝へと突入したのだが。

その後数時間、彼が何事もなく眠りに没頭出来るようになった訳が、まさかヨリコが今日だけで二つも花をもらうことになった為とは、すすぎあらいは思いもしないのであった。




「………これ、私に…ですか?」


一日で、全く同じ表情で、全く同じ台詞を言うことになることも、そうないだろう。

おまけにシチュエーションも限りなく同じであることなど、どれだけの偶然が重なって起こり得ることなのか。
ヨリコは両手で抱える程の大きな花束を手に、こんなこともあるのだと目を大きく見開いていた。

その向いでは、だるっだるの寝起き洗濯機頭ではなく、スーツにかっちりと身を固めた男が、気恥ずかしそうに頬を掻いていた。


流石にこの真夏にジャケットまでは着れないらしく、上は皺一つなくぱりっとしたシャツ姿だが。下はいかにも高そうなスラックスを着用しているが、
そんなことよりも気になるのが、男の人相であった。


「どうぞもらってやってくだせぇ。皆さんにお配りしてもまだ余るくれぇなもんで…」


そう言って頭を下げる男は、額に傷、眼にはサングラスと、絵に描いたような恐持てであった。
人当たりはいいのだが、オーラがまさに、そう。カタギのそれではないのだ。

身長は修治程あるだろう。腰を折っても尚大らかで、恰幅もよい。その体にスーツを着ている訳だが、派手な濃紺のシャツと黒いスラックスがどう見てもヤクザのそれだ。

そんな人間が三階オフィスにいるのは、まぁ納得出来るが。そんな人間が見事な花束を社員一同に配っているのは、さっぱり訳が分からなかった。


ヨリコが完全に混乱している中。説明せねば、と花束を茶々子に任せることにした昼行灯が咳払いをした。


「えー…ご紹介致します、ヨリコさん。この方は先程ツキカゲに依頼のお電話をくださった…」

「御控えなすって!」

「へっ!?」


映画の中…と言っても、ヨリコが見るような映画ではまず聞かないだろう。

仁侠ものでしか聞くことがないような絶滅危惧種の言葉に、ヨリコが素っ頓狂な声を上げるが、男は役者さながらに決め込んだ姿勢を崩さずに続ける。


「手前、訳あってこの度ツキカゲに馳せ参じやした。カイドウ組が若頭、サメジマ・ジョージと申しやす!以後お見知りおきを」

「あ、は…はい!えっと、ホシムラ・ヨリコです!お、お見知りおきを……」


役満もいいところだが、やはりこの男、サメジマはヤクザものであったらしい。
ツキカゲにこの手の人種が出入りしているのは数回見ている程度のヨリコだが、サメジマはまた変わった人物だということは十分理解出来た。

傾いているが、ヤクザものであるが、悪い人間ではない気がするのは、この仰々しい礼儀正しさのせいか、サメジマの快濶な笑みのせいだろうか。
オフィスに来た自分を見るやいなや大振りの花束を渡してきた意味はやはり分からないが、受け取って問題はなさそうだ。

ヨリコは自己紹介を終えたところでサメジマに礼を言い、取り敢えず花束をどうにかしようと一度ロッカールームへ戻って、
すすぎあらいからもらった百合を加えたそれを、以前すすぎあらいの机周りから発掘された花瓶に挿して、またオフィスへと蜻蛉返りした。


「お仕事の依頼人さんなんですか、あの人」

「あぁ、うん。さっき入ったばっかの仕事っていうか…サメジマさんが今すぐにってすごい勢いで頼み込んできてね……」


応接間を使って、何やら世間話をしているサメジマと、それを戸惑い気味に聞いている昼行灯を横目に、
ささやかな休憩時間に入ったヨリコと社員達は、紅茶やコーヒーを片手に事の経緯やサメジマという男について話していた。


「カイドウ組って言えば、仁義を重んじることで有名なとこでさ。カタギを巻き込まず主義の反面、すごい厳しいとこなんだよ。
そんなとこで若頭張ってるくらいの人が、とんでもない剣幕で来るもんだから、社長も断れなくってこうなったんだけど……」

「えー……では、サメジマ様。もう一度、依頼内容についてご確認致します」


そうこうしている内に、ようやく向こうは本題に切り出すことになったらしい。

急いで来たという割に悠長に、最近の極道はなどと話していたサメジマだが、どうやら依頼に関わる資料が来るのを待っていたらしい。
FAXから出て来た書類を取りに昼行灯が席を立つと、まさに豪放磊落と言った笑顔が一瞬で引き締まった。


その鋭い眼光は、彼が厳しい仁義の世界を生き抜いてきた証だろう。
思わず外野である此方までも固唾を飲んでしまう。そんな空気の中、LANに頼んでいたデータを受け取った昼行灯が、再びソファへと着席した。


一体、サメジマ程の男が押しかける程の依頼はどんな内容なのだろう。

ヨリコが手に汗握る中、昼行灯は一字一句確かめるように、書類に記された情報を読み上げた――。


「帝都第二地区在住、タチバナ・ホノカさん二十三歳。この方を…」

「おう……」

「……この方を、どうにか振り向かせる方法を考えてほしい。それが、依頼内容で間違いないですね………」


ガクッ!とコントでしか起こらないとだろうリアクションを取ってしまったヨリコに、社員達は仕方ないという視線を送った。

彼等も昼行灯が取った電話からの音漏れで、この依頼内容を聞いた時は、それはもう盛大にずっこけたのだから。


「あぁ、間違ぇねぇ!が、敢えて言わせていただきやす。
正確にゃ、彼女に……ホノカさんに、俺がヤクザだってことを知られずに、振り向いてもらう方法を、考えていただきたく存じやす!」


しかし、これは台本が用意されたコントではなく、正真正銘リアルの、現実の話であり、サメジマもまた真剣そのものである。
だからこそ、彼は此処に詰めかけてきた訳で。故に、昼行灯は頭が痛くなった。


ヤクザの若頭の緊急依頼が、恋愛相談だなんて。何か悪い夢でも見ているのではないか。

そんな気持ちを押し殺す昼行灯を前に、サメジマは書類にプリントされた女の写真を、それはもう真っ直ぐに見つめながら、口を開いた。


「…ありゃぁ、桜吹雪が吹き荒ぶ春のことでした……」


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