モノツキ | ナノ


よく、夢を見る。朝起きた時、隣に彼が居ない夢を。

だからいつも、彼より早く起きるようにしていた。彼が其処に居る事を確かめる為に。彼が何処かへ行ってしまわないように。


彼が、自分の傍に居る事を望んでくれていると分かっている。

それでも夜ごと不安に駆られるのは、後ろめたい気持ちがあるからだ。
かつて彼を裏切り、傷付けながら、その優しさに縋り付いている事に、罪の意識を覚えているからだ。

例え彼がそうしたいのだと言ってくれているとしても、自分には、それを受け取る資格が無い。そんな気持ちに膝を突き、いつまでも蹲り続けている自分と居る事が、果てして彼の幸せなのか。自問自答しない日は無い。

その癖、彼が離れる事を恐れて夢にまで見ているのだから、ほとほと自分が嫌になる。


もう何度目かの自己嫌悪を抱えて眠りに就き、悪夢に魘され目を覚ます。

嗚呼、また同じ夢をと思ったその瞬間。茶々子は其処に彼が居ない事に気が付いた。


「――うそ、」


心臓が不穏に逸る。上手く呼吸が出来ない。ぐらぐらと酷い眩暈がして、視界が揺れる。
きっとまた、悪い夢に違いないと信じたいのに、体がそう思わせてくれなかった。


居ない。居ない。向かいのベッドに、彼が居ない。いつも目を覚ませば其処で、小さな寝息を立てている彼が、居ない。力なく上体を起こし、部屋の中を見回しても、居ない。


じくじくと痛む胸を抱えながら背中を丸め、茶々子は小さく呻いた。


――いつか、こんな日が来てしまうのではないかと思っていた。それでも、そんな事は決して在りはしないのだと、心の何処かで信じていた。

馬鹿な事をしたくせに。許されない事をしたくせに。
だから罰が当たったのだと、押し潰されてしまうそうな体を小さくしていた時だった。


「どぅわぁっ?!」

派手にボウルが落ちる音と、彼の叫び声が聴こえて来たのは。




「おっ、おはようございます、茶々子さん!すみません、起こしちゃって……」

「お、おはよう……」


恐る恐る部屋を出ると、台所に彼の姿があった。

安堵する気持ちより、何故こんな朝早くに、しかも台所にという気持ちが勝って、茶々子は首を傾げ、ちゃぷんと頭を鳴らした。


サカナが台所に立つ事など、今日まで無かった。全く立ち入らないという訳でもないが、精々が飲み物を用意する時か、食パンを焼いたりする時くらいだ。
だが、台所の様子からするに、目覚めのコーヒーを淹れていた訳でも無さそうだ。

シンクには使われた調理器具といつも棚に入れてある調味料が置かれているし、何より、サカナがエプロンを身に着けている。
彼が料理をしていたのは明白だ。しかし、分からない。

何故こんな朝早くから起きているのも、これまで台所に殆ど立つ事が無かった彼が料理をしているのも。一体何が起きているのかと、ぐるぐる回っていた茶々子の眼はやがて、ダイニングテーブルの上にちょこんと置かれた包みに止まった。


「……これ」

「……お、お弁当……です」


気恥ずかしそうな声と顔をしながら、サカナが後頭部を掻く。

彼のプランでは、茶々子が起きてくる前に朝食を作って、サプライズ一つ。
そして彼女が仕事に向かう所で弁当を出して、サプライズ二つという予定だった。

しかし、不慣れな作業に手間取り、想定以上に時間を使った挙句、慌てて手を滑らせボウルを落とし、茶々子を起こしてしまった――実際、茶々子が起きたのはそれより前だが――。

全く格好付かないものだと乾いた笑いを零しながら、サカナは戸惑う茶々子の前に、ついと弁当箱を差し出した。


「シグナルさんやシオネさんに教わったり、動画とか見て勉強したりして作ってみました。初めてにしては中々の出来栄えだと思うんですが……ちょっと不格好な所もあるかと。でも、これからもっと上手く作ってみせますので期待しててください!……という訳で、今日の所はこれでご容赦を」

「これから、って……」


すぅと、息を深く吸い込む。


シグナル達に料理を習いながら、考えて考えて、何度も繰り返した。

上手く伝わるだろうか。全て届くだろうか。

期待以上の怯えと戦いながら温めてきた想いを、サカナは努めて笑顔で口にした。


「…………僕は、茶々子さんが此処に居てくれるだけで幸せだと思っていました」


それ以上が無くても、良かった。
それ以上が無くても、良い。

彼女が本当に望むなら、何も変わらなくて良い。今が幸せなのは本当で、本心だ。


けれど、もし。彼女が今より幸せになっても良いと思ってくれるなら、願ってくれるなら。

胸の前で固く握り締められた茶々子の手を取って、サカナは祈るように額を寄せた。


「茶々子さんが僕と一緒に居てくれるだけで、これ以上何も要らないと心から思えるくらい、幸せでした。だから、茶々子さんが僕と居る事を望んでくれるだけで十分だって……そう、言い訳してたんです」

「…………」

「僕がこれ以上を望めば、貴方を傷つけてしまうかもしれない。僕がこれ以上を望めば、貴方は僕から離れてしまうかもしれない。それが怖くて……だから、今がこれ以上とない幸せだと思うようにしていたんです。僕は……自分も他人もたくさん騙してきた、嘘吐きだから」


言葉を紡ぐ唇が、重ねた手が、滑稽なまでに震える。

散々嘘を吐き続けて、今になって気が付いた。嘘を吐く事が如何に楽で、本音で喋る事が如何に恐ろしいか。


死ぬ気になってやってみたが、死ぬより怖くて堪らない。

それでも――。


(不安になるのも分かるが……そういうものは思っていたより相手に伝わるものだ。お前が、茶々子の後ろ暗い気持ちを感じ取っているようにな)

(茶々子は、お前が自分の事を想ってくれてるのは分かってるネ。お前が自分との暮らしを望んでいる事も。でも、自分なんかと一緒に居る事が幸せだなんて、それこそ不幸なんじゃないか〜って、毎日考えちゃうんだってヨ)


彼女の方がずっと不安な筈だ。怖くて仕方ない筈だ。

そうさせてしまったのは自分だ。

だから、ちゃんと話すのだ。本当の気持ちを、本当の言葉で。


「ほんと、僕って駄目な男ですよねぇ。貴方の事を救ってみせるって豪語しておきながら僕は……我が身可愛さに飛び込む事も出来ず、ずっと立ち尽くしていた」


口にすればする程、自分の愚かしさが突き刺さる。だがその痛みも、負うべき罰としては小さ過ぎるとサカナは顔を上げ、茶々子を真っ直ぐに見据えた。


「……貴方にはきっと、もっと相応しい人が居る。貴方にはきっと、ずっと相応しい居場所がある。貴方がそれを見付けて、僕の傍を離れる……その時が来るまで貴方の傍に寄り添う。それが、自分の成すべき事だと思っていました。けどそれは……僕が傷付かない為の言い訳だった。願わなければ、求めなければ、ずっとこの日々が続いてくれる筈だって……僕は、貴方の為を想ってを言い訳にしてきた」

「サカナ、ちゃん……」

「茶々子さん。僕は……貴方に幸せになってほしい。其処に僕が居ないなら、それで良い。でもあわよくば……貴方の幸せに、僕が居てほしい」


強く、手を握り締める。

振り解かれても構わない。今はただ、この想いだけを伝えたいのだと、サカナは両手と言葉に力を込めた。


「ご存知の通り僕は、それはもう……うんざりする程いやらしい男です。その上、嘘吐きで臆病で……本当にどうしようもない奴です。そんな僕でも、貴方にとっての幸せで在れるなら……どうか、もっと、貴方の傍に居させてください」


ピシリと、罅が入る音がした。あの日、彼女が壊れた時と同じように。


「もう……やだぁ………」


だが、その亀裂から濁った水が流れ落ちる事は無かった。


「サカナちゃんは、私なんかと一緒に居ちゃいけないから、諦めたいのに……なのに、どうして、こんな事言うのよぉ……」


瞬く間に剥がれ落ちていくティーポッドの破片が、床に落ちては粉々に砕けて、消える。
カシャンカシャンと、陶磁器が割れる小気味良い音を聴きながら、サカナはこれでもかと目を丸くして、ティーポッドの中から現れたミルクティー色の髪を見遣った。


「ちゃ、茶々子さん……?!」

「ダメなのに……私なんか、救われちゃダメだって、思ってたのにぃ……」


何時か何処かで目にしたような面影のあるその人が力なく頭を振る度に、小さな破片が落ちていく。

やがてそれが涙に変わる頃。その人はまるで、子どものように声を上げて泣き出した。


「うわぁあああああん!!ひっぐ……うぇえええええん!!」


自分以上に強く、力を込めて手を握ってくれたその人を、サカナは強く――これでもかと強く、抱き締めた。

脆く儚いその体は、存外力を込めてみても、腕の中にあり続けてくれると、知っているから。

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