モノツキ | ナノ
少しだけ会って話せないか、と茶々子から連絡を受けたのは一ヶ月前。
茶々子の為ならと強引に時間を作り、善は急げと二日後の昼に此処で昼食を共にした。
この店のランチならオムレツセットがオススメだと言えば「じゃあ私もそれにする」と茶々子は小さく微笑んでくれた――気がした。
未だ、彼女の頭部はティーポッドの呪いに覆われている。
昼行灯のそれのように、拗れたものでも無いのだ。LANに言えば即日剥がしてもらえるだろうに、彼女はそうしない。
モノツキである事が罰である時代が終わっても、茶々子自身はそれを戒めとしている。
他者の救済を妬み、自らが救いを得る為に人を裏切り、傷付けた。その罪の象徴として、自分はモノツキであり続けるべきだと、茶々子はそう考えているのだろう。
例え誰が、もう自分を許してやってもいいだろうと言っても、他ならぬ茶々子自身が己を許せない。
だからだろう。彼女が、サカナと離れて暮らすべきではないかと思い詰めているのは。
「茶々子は、お前が自分の事を想ってくれてるのは分かってるネ。お前が自分との暮らしを望んでいる事も。でも、自分なんかと一緒に居る事が幸せだなんて、それこそ不幸なんじゃないか〜って、毎日考えちゃうんだってヨ」
茶々子は、自分を許せない。故に、自分が幸福になる事に罪悪感を覚え、大切にされる事に息苦しさを感じる。そんな自分の傍に居たいと、サカナは本心で想ってくれている。茶々子が許容出来るだけの幸せを二人で一緒に噛み締めていこうと、此方に歩調を合わせ、寄り添ってくれている。
彼は、もっと大きな幸せを手にする事が出来るのに。自分の傍に居るが為に、彼の元にはほんのちっぽけな幸福しかない。
サカナの事を想うなら――彼を解放してやるべきなのではないか。
近頃、そんな事ばかり考えるのだと話した茶々子の事を回顧しながら、火縄ガンはすっかり沈みきったサカナを鼻で一笑した。
「そりゃそーネ。そんなシケた顔した男と居たら、不安にもなるヨ」
「…………」
「言い返すコトも無いカ?全く、とんだ腰抜け腑抜けネ」
「痛っ」
今度は脛を蹴り付けてやると、火縄ガンはわざとらしく大きな溜め息を吐いた。
サカナの気持ちは、分からなくもない。
自分達は、同じ穴の狢だ。弱者であった事を理由に他者を踏み躙り、誰かの不幸を嬉々として啜りながら因果応報の外側に転がって、真っ当に生きる者を差し置いて救われた。
その不条理としか言いようのない奇跡によって、人知れず彼女が傷付いている事にも気付かずにいた、救いようのないろくでなし。
同じ罪を抱える者同士、共に彼女を想う者同士、サカナの心は痛いほどに分かる。だからこそ、火縄ガンには臆病風に吹かれ続ける彼の事が許せなかった。
「縮み上がってんじゃねーヨ。お前には……あの日、茶々子に手を差し伸べた責任があるネ。このまま立ち往生してる心算なら、ぶっ殺すヨ」
世界が新しくなるその前から、火縄ガンは感じていた。自分はこの先、人殺しとして生きていく事は出来ないだろう、と。
生殺与奪の中に身を置き続けてきたが故に、火縄ガンには殺しを生業にして生きられる人間というのが分かる。その枠に自分が当てはまらないという事も、だ。
人を殺さなければ生きられないくせに、人を殺して生きられない。
そんな非力で、無力で、何も持たざる子どもになる自分では、茶々子を支えられない。
茶々子の隣をサカナに譲ったのは、それを自覚していたからだ。
彼女の傍に居続けたい気持ちに蓋をして、彼女の為にと泣き叫びたくなる程の寂しさを押し殺した。
人として生きる事だって出来る彼ならば、自分と同じ罪と想いを抱えた彼ならば、きっと茶々子を幸せに出来ると、そう信じていたから。
だのに、この体たらくはなんだと火縄ガンはサカナを睨め付ける。その眼差しは何処までも鋭いのに、まるで目の前で泣きじゃくられているような心地がして、サカナは小さく項垂れた。
「……それは、困るなぁ」
火縄ガンにサカナの気持ちが分かるように、サカナにもまた、火縄ガンの気持ちがよく分かる。
彼女がどれだけ茶々子の傍に居たいと思っていたか。彼女がどれだけ茶々子の幸せを願っていたか。彼女がどれだけ茶々子の力になれない事に打ちのめされたか。
嗚呼、本当に。殺されたって文句を言えはしない。
とうに冷めたコーヒーのように苦く笑いながら、サカナはぐしゃぐしゃと髪を掻いた。
「また君に人殺しをさせたら……茶々子さんに怒られちゃうよ」
幸福に怯えていたのは、自分の方だった。だから茶々子の手を引いて明るい場所へ連れて行ってやる事も出来ず、薄暗がりの中に居座り続けていた。
此処に居る内は、彼女は何処にも行かない筈だからと。そうやって、茶々子を小さな幸せの中に閉じ込めた。
(口にはし難いだろうが、そろそろ腹を割って話してみたらどうだ?)
(話すって……何を)
(それはお前が考えるべきだ)
薄紅に言われた言葉を反芻しながら、サカナはカップに残ったコーヒーを一気に呷り、勢い良く席を立った。
カフェインが行き届くには早過ぎるだろうに。目を覚ましたような顔で立ち上がったサカナに、火縄ガンはシシシと歯を見せて笑う。
「腹、括ったカ?」
「首まで括る覚悟も出来たよ」
殺されても構わないと思うなら、死ぬ気でやれる。
いざとなったら骨は拾ってくれと、サカナは小さく手を振って店を出た。
「ありがとう、火縄」
「どういたましてヨ」
「どういたしまして、ね」