モノツキ | ナノ


「ごめんなさい、おばあさん。私、その絵をもらうことは出来ません」


床下から出した絵を見るや、ヨリコの表情が凍り付いたことに、老婆は眼を見開いた。

自分の手元に唯一残された絵をもらってほしい、と頼んだ時。
少し迷いながらも快く了承してくれた彼女が、何故この絵を見て。

その疑問は、彼女自身の口から語られる言葉が、解き明かした。


「その絵を探している人が、私のすぐ近くにいるんです。私はきっと…、その人達に絵を渡してしまいます」


勘の良い老婆はそれで全てを悟った。
彼女の言うバイト先がどういう場所なのか、そこの人間達が彼女にとってどんな存在なのか。


「あの人達にこの絵のことを黙っていることは、私にはきっと出来ない。
けれど、おばあさんのご好意を蔑ろにしたくないんです」


運命とはこうも愉快に転がるものか。彼女が尊ぶ人は、自分がこの絵を渡すまいとしてきた人種に繋がり。
彼女は自分が、回避しようとしてきた道の橋になってしまうことに心痛めている。


「だから、私は――この絵をいただけません」


だが、その橋は老婆にとって絶望の断崖へは繋がっていなかった。


「…じゃあ、お嬢さん。本当に、本当に申し訳ないんだけどね」


この道は、全て必然の元に開けたのだろうか。

だとしたら、この道を敷いたのは神か。いや、恐らくこの道は彼が描いたのだろう。
五十年の歳月を掛けて、彼が絵筆で描き続けた道。それをようやく、老婆は見付けることが出来たのだと。そう感じ取った。


「お願いを、変えてもいいかしら」




老婆は自身の蓄えのほとんどを、ツキカゲに渡した。その額は、絵を見つけてきた際に支払われる報酬よりも上回っていた。
故に、昼行灯はヨリコと共にやってきた老婆の依頼を請け負った。

この絵を無かったものにしてほしいという依頼を――。


「コウヤマ・フミノリさんの絵は…風景に溢れた誰かの感情が汲み取られていて。
彼は、それを感じたままに描いていたんだと思いました」


パチパチ、音を立てて火が広がる。

月光ビル地下の焼却炉で、稀代の天才コウヤマ・フミノリの遺した唯一の肖像画が炎に蝕まれていた。

火は無遠慮に、その絵の価値も知らずに燃え盛る。その光景を、老婆とヨリコ達は眺めていた。


「けれど、あの絵だけは…彼自身の想いが込められている。
他の誰でもない、コウヤマ・フミノリさんの心が、あの絵にはある。そう、一目見て感じました」


火に呑まれていく絵を黙って見送る老婆を見て、ヨリコはまるで葬儀のようだと思った。

五十年前に肉体の朽ちたコウヤマ・フミノリの心が、此処で弔われていると。
煤の匂いが鼻の目頭を突いてくる中。ヨリコは懺悔するように、炎に顔を向けて呟く。


「この世界でただ一人、おばあさんの為に描かれた絵を…私は、誰かに渡したくないと思いました。
例え昼さん達にでも…黙っていたいと思ってしまいました。ごめんなさい」

「いえ、いいんですよ」


ヨリコは、これでよかったのだろうか。もっと良い答えがあったのではないかと、未だに悔やんでいるようだった。
しかし、彼女の導き出した答えは、老婆にとっても、昼行灯達にとっても、望ましいものであったと、彼は思う。

この結末は、とても酷なものに思えるが 愛した彼女に看取られるようにして、彼の心は安樂死出来たのだ。
それを気に病むことはないと言っても、ヨリコは認められないだろうが。


「…私、おばあさんに言われたんです。『この絵をどうするべきか決めてほしい』って。
そう言われて、私は…あの絵を持つべき人である、おばあさんがいなくなってしまうのなら……あの絵も一緒に無くなるべきだって…思って…そう、言っちゃって……」

「…その答えは、間違ってはいませんよ。ヨリコさん」


老婆は五十年、理解者を求め続けていた。それはコウヤマ・フミノリの理解者でもあり、自分自身の理解者でもある存在だ。


「これは、あの人自身が求め続けた答えに違いありません。
あの人は、最も欲しがっていた言葉を貴方なら授けてくれる。そう思って、貴方に決断を委ねたのでしょう」


この世に一つしかない。奇人変人と謳われた天才画家の肖像画。
それも、自分一人の為に描かれたその作品に、老婆は手を下すことが出来なかった。
自分は直に朽ちるというのに、この絵は、彼の心はこの世に残り続ける。

誰にも理解されることなく、見世物のように飾られるコウヤマ・フミノリの心を思えば、
こうして無かった物にしてしまうのが最善だと、老婆はそう思っていた。


その想いを、一体何人が理解してくれることだろうか。

世紀の大発見、後世に残るであろう伝説の作品を、たかが一人の死に道連れにすることを、誰が認めてくれるだろうか。老婆はその迷いに捕らわれていた。

彼の気持ちを考えてと言いながら、自分のエゴを火に変えようとしているだけではないのかと。
生前彼を半分も理解出来ていなかったと思う彼女は、確証を求めた。自分が正しいという証明を求めた。そして、ついに出会えた理解者が、他ならぬヨリコであった。

彼女は、老婆を苛む重く暗い、その孤独を見抜き、打ち破った。その結末が、現状だ。


「迫る死の中…あの人は、最高の理解者に…貴方に辿りつけたのだと、私は思います。
だから、貴方はもう……泣かなくていいんですよ。ヨリコさん」

「はい゛…あ゛りがとうございま゛す…」


昼行灯は、泣く必要はないと言われても尚、嗚咽を上げる彼女が、少しでも早く涙を納めてくれればと、力強くヨリコの頭を撫でた。


(いつだって、貴方はこうだ。核の中に閉じ込められた、心の餓えを暴き 手を伸ばしても届かなかった筈のものを齎してくれる。誰にも理解されないと、諦めていたのに割り切れずにいた想いに同調し、涙を流してくれる。
それがどれだけ私を救ってくれたことか。貴方はきっと、知らないのでしょう)


やがて、炎が消えると共に、老婆は此方を向いた。

彼女には頬に一筋、涙の轍が浮かんでいるが、その表情は胸に立ち込めていた暗い雲を払われ、心底晴れ渡っている。

昼行灯は、いつか自分も、あんな顔を彼女に見せられる時が来るだろうかと。
傍らで老婆から貰い受けた言葉に、また涙しているヨリコから静かに目を逸らした。


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