モノツキ | ナノ


――思ったよりも時間を食った。

薄紅が新たな追手に気を配りながら、目的地についた頃にはすっかり陽が沈んでいた。
閑静な住宅街。ターゲットの家の前に車を止めて、彼はまだ車内に残っていた缶コーヒーを啜った。


家の様子を探ってみたが、標的は留守にしているようで物音一つしなかった。
ならば、家主が帰ってくるまで待ち続けようと、駐車場で待機を決め込み、更に一時間半が経過した。

辺りはすっかり暗くなり、ジジジ、と外灯が白い光を出し始める。
家々から零れた明かりが暗がりに浮かぶが、未だ目当ての家屋には一切電気がついた様子はない。


一体いつまで外に出ているのだろうか。

老人であるにも関わらず元気なことだ、と薄紅は皮肉りながら、コーヒーを煽った。
そろそろこの安い味から解放され、家で妻の煎れる熱く濃いコーヒーを口にしたいところだ。

こんな時には、四年前に止めた煙草が吸いたくなる。
肺を侵す紫煙を深く深く吸い込んで、不平をも巻き込んで吐き出したい衝動に駆られる。
しかし、一度手をつけてしまえば戻れなくなるのは目に見えている。
妻だけでなく子供もいる今。有害な副流煙を撒き散らすことは避けたい。

結果として、大人しく安いコーヒーで淋しい口を満たしているのが、賢明だ。
薄紅は深く溜息を吐いて、ここ二日で飲んだコーヒの缶が溜まりに溜まったコンビニ袋に、今し方空になったばかりの缶を放り込んだ。

カシャン、と軽い音がしたのと、しばらく沈黙を決め込んでいた携帯電話が鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。


「もしもし。私です」

「…なんだ、昼行灯。何か、追加情報でも入ったのか?」


薄紅はもう聞き飽きた、と言いたげな声で応えた。
此方には何も進展はないぞと愚痴りたい気持ちを抑えながら、薄紅は空き缶の詰まった袋を横目に、座りっぱなしが堪えてきた脚を組み直す。

溜まってきた疲労のせいで、いつも研ぎ澄まされている感覚も麻痺しかけていた。
本調子であればすぐ見抜けていたであろう、昼行灯の声に含まれる動揺に、彼は気付いていなかった。


「いえ…もう、情報を仕入れる必要はなくなりました。貴方が、外に出ている必要も…」


薄紅は眠気で皺寄る眉間を指で抑えながら、ようやく違和感に気が付いた。


「……悪いな、俺はここ二日、ろくに眠っていないから頭が冴えないんだ。話は簡潔に頼む」


いつもの彼であれば、ここでわざわざ尋ねることはしなかっただろう。
だが、疲労と睡魔に苛まれている今。彼は自分の予感が、何かの誤信ではないかと感じずにはいられなかった。

例え普段通りであったとしても、そう鵜呑みには出来なかったであろう。


「…例の絵が、手に入りました」


現実は、いつも俄かには信じがたい。




上質なシルクの包みから解き放たれたそれに、外から戻ってきた薄紅を含むツキカゲ社員一同は揃って息を呑んだ。
頭を撃ち抜いた感傷を感懐を、言葉にするのが烏滸がましく思え 誰もがただただ、その絵見詰めていた。

惹き込まれるというのは、こんな状態を言うのだろう。
本日二度目、いや、三度目にこの感覚を味わったヨリコも、二日前にこの絵を写真で見ているはずの昼行灯も。
もうこの感動は知っていると頭では思っていても、目の前の絵に強烈に魅せられていた。

涼やかな青に囲まれた、白い肌と艶やかな黒髪の少女。柔らかく微笑むうら若き乙女の肖像画に、賛辞の言葉は不要だった。


「やぁね、そんなに見ないで頂戴。恥ずかしいわ」


しかし、そのモデルであった老婆には、流石に一言二言申し出たいところであった。
そんな視線を誰もが向ける中、感心しきったように絵を見ていたシグナルが、ぼろっと一言零す。


「…時の流れっつーのは悍ましいもんだな。いや、親族フィルター効果もあるか?」

「こらシグくん!!」

「ふふふ、いいのよ。まさにその通りだから」


幾ら的確と言えどあまりに失礼だ、と茶々子達が咎めるも、老婆はまるで気にせず、寧ろそう言ってもらえて嬉しそうな様子だった。
自分でもそう思っていたので、その感覚を共有出来て嬉しいと言いたげだ。
その微笑みには、どこか絵画に描かれた少女の面影がある。

昼行灯はちら、と幻の絵画を一瞥した後に、老婆の目線に合わせるように小さく腰を折った。
顔が近付くと、やはり本人なのだなと感ぜられた。目元や鼻筋が、絵画のそれと重なる。


「しかし…本当によろしいのですか?もう、貴方の手元には…」

「いいのよ。どうせ私は、もう永くないからねぇ」


老婆は冗談にならない冗談を言いながらも、非常に愉しそうだった。

死人へと着実に近づきつつある、その冷たい体で、何処か遠くへ駆け抜けていきそうな印象すら与えてくる。
ヨリコはあの時、自分の手を包み込んだ冷たい老婆の手を思い出して、そっと目を伏せた。

陽だまりのような笑みを浮かべているというのに、老婆の手は、冬の日陰の如く冷たかったのだ。


「この体が朽ちる前に、これの行先が決まって…私は満足なの。もう、何も悔やむことはないわ」


老婆は自身を繋ぐ病の鎖など、気に留めていなかった。

これから自由に羽ばたく空を見つけたような顔をして、彼女は笑う。


「それにしても、人生っていうのは本当に何が起こるか分からないわね。
偶然出会った女の子が五十年探し続けてきた人で、その子のバイト先が、これを探していた何でも屋さんだなんて。
もし絵画展の帰りに気まぐれで喫茶店に入っていなかったら、今頃は貴方達の誰かに絵は盗られていたかもね」

「……申し訳ありません」

「気にしないで。年寄りの戯言よ」


気にするなと言われても、と薄紅は顔を顰めた。

見た目穏やかで、お人よしを絵に描いたような笑顔をしている割に、この老婆は実に侮りがたい。
薄紅を始め、ツキカゲ社員達はそう思った。

老人でありながら闇オークションサイトの会員招待を受け、探知されないよう限界まで広げた行動範囲で行動していただけのことはある。
自分を狙っていた連中に囲まれてもこんなことが言える辺り、相当肝が据わっている。その点は、叔父の存在が大きいのだろうか。

一同がそんなことを思っている中、老婆はヨリコの方を見た。


「私のことより、お嬢さんは本当にいいの?これはもう、貴方にあげた物だから…貴方の好きにしてもいいのよ?」

「いえ。私も…こうしたいと思ったので、いいんです」

「そう」


老婆が最後の頼みとヨリコに渡したのは、他ならぬこの幻の絵画だった。

ご丁寧にも台所の床下、金庫の中に隠されていたその絵は、老婆からヨリコへと手渡された。
だが、それが昼行灯達が――言い方は悪い気がするが――金の為に探し求めている絵だと知るや、ヨリコは老婆の申し出を断った。

この絵の価値を、コウヤマ・フミノリという画家を理解してくれるだろうと、
絵を譲渡してくれた老婆の好意を、自分は蔑ろにしてしまうと。
これを昼行灯達が求め続ける限り、自分はこの絵を受け取ることが出来ないと、ヨリコは断った。

そんな彼女に、老婆はまた驚くべき提案を出し――そして、今に至る。


「貴方は、本当にあの人を…ううん。人を理解してくれるのね。とても温かく…心地のいい人だわ」


老婆はとても尊い物に触れるように、ヨリコの頬を撫でた。その手はやはり、血が通っているのか疑わしい程に冷たかった。
ヨリコは少しでも温められないかと思ったのか。無意識のうちに自分の手を老婆の手に重ねていた。

熱が吸い込まれていくに連なり、胸の内から何かが溢れ出してくる。
つぅと頬を伝った雫を拭ってくれた老婆の骨ばった指は、その時だけは妙に温かった。


「それじゃあ、お願いしますね何でも屋さん」

「はい。ご依頼とあれば、我々は確実に仕事を遂行致しますので」

「おばあさん、」


ヨリコが追い縋るように、老婆に呼びかけた。同意こそしたが、これでいいのかと最後に問い掛けずにはいられなかった。


彼女は、失われたものはもう戻らないことを、嫌という程よく知っている。

だから、本当にこれでいいのかと 老婆に迷いがないことを分かっていても問わずにはいられなかった。


「ありがとうね、お嬢さん。こんな年寄りの我儘に付き合ってくれて」


老婆はそう言うと、昼行灯の顔を見上げた。

それを大丈夫、さぁやってくれという合図と受け取り、昼行灯は深く息を呑んで 絵に火を放った。


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