モノツキ | ナノ


「ほんとにね、信じてもらえるとは思ってないから、冗談と思って聞いてくれていの」


老婆はそう切り出したが、ヨリコ達は冗談と受け止める気は毛頭ないと言いたげな眼差しを返した。

それがまた嬉しかったのか。老婆は二人の好意を噛み締めるようにまたゆっくり頷きながら、話の中核を汲み出した。


「私ね、コウヤマ・フミノリの姪なのよ。マネージャーをしていた彼の兄のね、娘なの」


しばし、喫茶店内から音が全て消えてしまったような錯覚にヨリコとケイナは見舞われた。

実際はまだ蓄音機からジャズ音楽は垂れ流されているし、周りの客も各々の談笑を続けているし、カウンターからは店主が磨いたカップを並べるカチャカチャという音もする。

だが、それらが耳に入らない程に、ヨリコ達は度胆を抜かれていた。
もう老婆絡みのことでこれ以上驚くことはないだろうと思っていた側からこんな話が来るとは思ってもいなかったのだろう。

老婆もそう思っていたらしく、見事に固まった二人を実に面白そうに見て笑っている。


「ふふ、ボケ老人の妄想だなって思うわよね。私も未だに夢みたいと思うもの」

「いえいえ!そんなこと!」

「ちょっと予想外の話で驚いただけで、信じてないってこたねぇから!」


さっきから固まっては慌てるのがパターン化しているようだ。
必死にこちらを気遣う二人に、老婆は少し悪いことをしたと思いながらも、つい口角を上げてしまった。

それから、この二人を相手にもう揶揄する必要はないだろうと、すぅと眼を細め。
老婆はその丸まった背の内に溜まっていた、懐古の情を吐き出すように、言葉を紡いだ。


「本当にね。生まれてからあの人が死ぬまでずっと一緒だったはずなのに。夢の中のことみたいにあっという間だったわ」





あの人は、世間が言う通り本当に変わり者だった。

いつも湿っている薄暗いアパートの部屋に閉じこもって、日がな一日絵を描いているか寝ているかの生活をしていて。
コウヤマ・フミノリという名前が持つ華やかさとは掛け離れた、破天荒なまでに質素な日々を過ごしていた。

放っておけば食事もとらず、煙草と水道水だけで一日を過ごそうとする叔父を放っておけず。私は彼の元に通って、炊事洗濯をしていた。


私は、物心ついた頃から叔父のことが好きだった。

いつも萎びた雑草のように無気力でありながら、如何にも不健康な猫背の体の中には絵に対する純情過ぎるくらいの情熱を持っていて。
そんな彼が描く、気味が悪くも力強い絵にも、強烈に惹かれていた。

彼が「見たままに描いた」と言った、世間で抽象画と呼ばれた 風景画たちに――。


「あの人ね、抽象画として絵を描いたことなんて一度もなかったの。
あの人は、ただ見たままに、感じ取ったままに風景を描いていたはずだったのに…
周りが抽象画として評価しちゃってたから、何も言えなかったのよ」


老婆はとても寂しそうに、白いカップを握りしめた。

追加注文で取ったコーヒーの黒い水面が、濃い香りを振りまきながら静かに揺れる。
彼女の厚ぼったい目蓋に納まっている瞳のように、ゆらゆらと、骨ばった両手の中で。


「世間の評価とか、あの人はどうでもよかったんだけどね。
でも、風景画って言うのも面倒だったし、それが知られたら問題だって…私の父も公表させなかった。
だから、あの人は風景画家でありながら、抽象画家なのよ。
あの人が三十四歳の時…突然病気でこの世を去ってから遺された絵を買いたいって言ってきた人達はたくさんいたけれど。
その中にも、彼が描いていたのは風景画だって思った人は…きっと一人もいなかったでしょうね」


セピア色の瞳の内側には、これまで眼に映ってきた情景が。
敬愛していた叔父の曲がった背中や、その頼りない猫背越しに見えたキャンバスの極彩色。
そして、その日を境に色褪せてしまった世界の姿が流れているのだろう。

それを一つ一つ、手に取って布で磨き上げるように懐かしむと、老婆は皺をさらに深くして、ヨリコを見た。

過去に想いを馳せていたその眼は、もう今を見据えて、夕陽を受ける湖面のように光っていた。


「だから、お嬢さんが『抽象画って言われてたけど、風景画みたいに見たままを描いたみたいだ』
って言ってるのが聞こえた時…とても嬉しかったわ。
死後五十年たって、ようやくあの人を理解してくれる人に会えたって…。
そう思ってるうちに、気付いたら声を掛けてしまっていたわ」


その煌めきを、ヨリコは知っていた。

長らく感じていた憂愁を溶かされた時、重い闇をこじ開けてきたその光を、かつて自分も湛えていたからだ。


(だから、貴方が何を抱えていても、どこの誰に拒絶されても…関係ありません。
私の目の前のヨリコさんを…私は、信じます)


望んでいた、欲していた言葉を受け取った時。
その言葉を掛けてくれた彼の、煌々と輝くランプの硝子に映っていた自分は この老婆のような眼をしていた。

窓から射し込む西日など気にも留めず。
ヨリコは、老婆の瞳の輝きを見つめる。淡くも鮮麗なその光の先に、自分が見据えるべき道がある気がして。


「…ねぇ、お嬢さん。もう一つだけ…もう一つだけ、私のお願いを聞いてもらって、いいかしら」


カチャリ、とカップが皿に落とされる音がしたと思えば。
老婆の空いた両手が、ティーカップの横で停止していたヨリコの手をそっと包んだ。

その瞬間。光に微睡かけていたヨリコの眼が、はっと見開かれた。


まるで、陽だまりの中で、冷水にでも触れたかのように。


「貴方に、もらってほしいものがあるの」


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