モノツキ | ナノ


「私って、やっぱダメダメだなぁ…」


傾ぎ出してきた陽が差し込む喫茶店に、落胆の声が転がった。

シックで落ち着いた雰囲気の店内に耳を澄ませば、今時絶滅危惧種もいいところである蓄音機から流れるジャズ音楽と、あちこちの席で交わされるささやかな談笑がぽつぽつと聞こえてくる。
当然その中に、昼行灯達が欲しているような情報はない。

ヨリコは行儀が悪い、と思いながらもテーブルに額をこつんとつけて、肩を落とした。
傍らに感じるミルクティーがなみなみと注がれたカップの熱気と、木製テーブルのひんやりとした感覚が、どちらも妙に心地よい。

この中間に溶け込んでしまいたい、とヨリコが瞼を閉じる中。
向いでミルクレープを頬張っていたケイナが、咥内をカフェオレで清算してから口を開いた。


「んなことねぇっての。何かあるかないかの確認をしただけ役に立てんだろ。
お前は言われた通り、お前にしか出来ねぇ仕事こなしてきたんだから、そう落ち込むなって」

「うー…でもぉ…」


ヨリコはこうなることは分かっていた筈だった。あくまで虱潰しの一つとして。
何か得られる見込みは非常に薄くとも、確認はしておきたいということで、絵画展を見てきてほしいと頼まれ、何もなくともも気にしなくていいと昼行灯に念を押されていたのだが。
実際本当に何も得られないと、行きに気合いを入れていただけあってショックであった。
やれることはやった。しかし、やってもやったところでだった。

過程はどうあれ、何も得られなかったという結果だけが、ここに残されている。
ヨリコは任されたからにはと全力でやったのだが、全力で取り組んだだけ、こうして何も得られなかったことが虚しかった。

結局自分は空回りしていただけではないかと、近頃よく感じる寂寥に苛まれる。
ヨリコは図々しい程に落ち込む自分に掛ける言葉を模索しているケイナに、申し訳ないなと思いながらも、顔を上げることが出来なかった。


自分の能力の限界など、自分がよく知っている。
特別優れたものがある訳でもない自分には、進める道にも越えられる壁にも限りがある。
二十年にも満たない人生で、ヨリコはそれを嫌という程知っている。

もし人に誇れる程の力が自分にあったのであれば。あの日を境に周囲から作られた孤独を、その力で埋め合わせて、補うことが出来ていただろう。
運動能力でも勉強でも、芸術面でも。何か一つ秀でた一面があれば、人間はそれを主軸に揺れることがない。
自分に一つ絶対の自信があれば、周りに流されることなく、その道を行くことが出来る。
だが、それがないからこそ、ヨリコは足踏みしていた。
人の輪に入ることも、昼行灯達との間に感じる溝を飛び越えることも、躊躇わずにはいられないのだった。

介入した先から弾かれることを考えると、どうしても脚が動いてくれない。
そんな臆病な自分を少しでも変えたいと、思い切って昼行灯に手伝いを申し出てみたのだが。やはり、そう上手くはいかない。

ヨリコは歯痒さを感じながら、せめて見っとも無い姿でいるのはよそうと顔を上げた。
せっかくのミルクティーが冷めてしまうのも勿体ないしと、ヨリコは溜め息をティーカップに落とした。


「にしても、コウヤマ・フミノリ…だったか。すごかったなぁ、あの絵」


ヨリコが顔を上げると、気を変えさせようとケイナが話を切り出した。

どうにも解決しそうにない問題を話あっても不毛だと悟ったのだろう。
ケイナは当たり障りのない話題を振ってヨリコの様子を窺った。

今度は自分に気を遣わせてしまったと気落ちしていないかが気になったのだ。
ケイナとしては、仕事云々の話より、せっかく二人で出かけているのだから、それらしい会話をしたいという心境なのだが。
ともあれ、適当に会話していればいつしかヨリコもいつもの調子に戻るだろう、とケイナは続ける。


「あたしは芸術とかそんなん全然分かんねーけどよ。あーいうのホンモノっつーんだろうなぁ」

「…そう、だね」


ヨリコもヨリコで、ケイナにこれ以上気を遣わせるのは申し訳ないと踏んだのか。彼女がせっかく作ってくれた流れなのだからと、しっかり乗っておくことにした。

取り敢えずと相槌を打ったが、ケイナが振って来た通り。
コウヤマ・フミノリの作品は非常に良いものであったとヨリコも感じていた為、すぐに言葉の続きは口から出てきた。


「私も、絵を見るのとか好きだけど…技法がどうとか全然分からないから、上手く言えないんだけどね。
なんか…あそこにあった絵ってどれも、描きたいものを描いたって感じがして……すごいなぁって思ったの」


ヨリコは未だ網膜に鮮明に刻まれている、極彩色の数々を思い浮かべながら、言葉を紡いだ。

語彙の少ない自分の頭では、出来る表現などたかがしれていると思ったが。
それでも、あの場で味わった感動をどうにか現したく、ヨリコは小さく身振りを交えながら、感じたことを語る。

言葉に困った時、手が動いてしまうのは癖のようだった。手持無沙汰をどうにかしたい、と勝手に動き出してしまうのだろうか。
しかしそれを自制する余裕もないヨリコは、感心したように此方の話を聞いているケイナに、少しでも伝わるようにと続けた。


「どの絵も、こう…感じたまま描いた感じがするっていうか。
抽象画って言われてたけど、風景画みたいに見たままを描いたみたいだなぁって。…こんな感想、失礼なのかもしれないけど」


一通り言いたかったことを言い終えると、妙に喉が渇いた気がして。ヨリコはぬるくなりだしたミルクティーをこくりと呑んだ。
広がる紅茶の芳醇な香りと、ミルクと砂糖の甘みが口に優しい。

味覚から此方を癒してくれるミルクティーで気分が落ち着くと、ヨリコは本当に、あんまりなことを言ってしまってはいないかと少し後悔の念に駆られた。

抽象画家として世に名を残している人間の作品を、風景画呼ばわりして罰が当たるのではないか、と。
自分がつい口にしてしまったことは、和食のプロの料理を食べて、素晴らしい洋食ですねと言うようなものではないのかと、ヨリコはどう自分の発言を繕うべきかと思案した。

決して嫌味で言った訳ではなく、コウヤマ・フミノリの作品を心底素晴らしいと思って述べた感想なのだが、これでは遠回しに貶しているように思われるのではと。
ヨリコはどう言えばあそこで感じた感動を上手く表現出来るのかと考えだした。その時だった。


「ねぇ、貴方たち」



突如投げかけられた声に、ヨリコもケイナも揃って肩がびくっと跳ねさせた。

介入する者がいない筈の状況で、まさか横から声を掛けられるとは思ってもいなかったのだ。
それが例え、人の良さが滲み出ているような柔らかな声でも。


ヨリコとケイナはつぅ、と視線を互いの顔から真横へと滑らせた。

第一声、驚きながらも感じ取っていたのだが。想像通り、そこにはにこにこと微笑む白髪の老婆がいた。
近所にいれば毎朝挨拶を交わし、時に世間話をしたりするだろう。
そんな印象を受ける。六十余年の人生が刻まれている皺だらけの顔は、人懐っこくもどこか茶目っ気めいたものが感ぜられる。
人が良さそうでありながら、どこか食えない雰囲気だ。


「貴方たち…コウヤマ・フミノリの絵画展に行ったの?」

「は、はい…そう、です」


そんな老婆に声を掛けられ、ヨリコは思わず身を竦めた。
いつもならば、老婆に負けない笑みを浮かべてにこにこ対応しているのだろうが、
つい先程自分が口にしたことがフックのように引っかかって、どうにも言葉が出詰まってしまう。


「そうなの。ふふ、ごめんなさいねぇ、いきなり。私ね、彼のファンだからつい気になっちゃって」


老婆はにこにこと笑っているが、もしかしたら怒っているのではないだろうか。それがヨリコは気掛かりだった。

コウヤマ・フミノリのファンであるというのを聞いて、その不安はまた増した。
相変らず老婆は此方を安心させるような微笑みを作っているが、その笑顔の下では、抽象画家である彼の作品を風景画のようと言った自分への怒りを携えているのでは、と。

もしそれを咎められたら、どうやって弁明しよう。ヨリコは肝を冷やしながら、老婆の次の言葉を待った。


「お嬢さんたちまだ若いのにねぇ…美大にでも通ってらっしゃるの?」

「い、いえ…。私達、まだ高校生です」

「あら、そうなの」

「えっと、アルバイト先の上司の方が、自分は見に行けないから行ってきてほしいってチケットをくださって…それで」

「まぁ、そうなの。どおりでねぇ、ふふ」


老婆の言う「どうりで」というのは、芸術の分かっていない子供だと思った、という意味ではなさそうだった。
率先して絵画展に行くことなどそうそうないだろう昨今の高校生が、安くないチケット代を払ってまで足を運んだことに合点がいった、という感じである。

うんうん、と納得したようにゆっくり頷く彼女に、ヨリコの強張った体から、緩やかに力が抜けていった。

老婆がヨリコに何か嗾けてくるのではと警戒していたケイナも、すっかりその気を削がれている。


「どう?彼の作品、気に入った?」

「あ、はい!初めて見たんですけど…どの作品もすごくよかったです」

「そう。うふふ、ありがとうねぇ」


老婆はまるで、自分のことを褒められたかのように、心底嬉しそうに笑った。
堪え切れないと顔をくしゃくしゃにしている様は、満面の笑みを咲かせる子供のようにも見える。
身に纏っている衣服がオレンジを貴重としたエキゾチックなものでもあるせいか。
物語に出てくる善良な魔女のように不思議な人だとヨリコ達は眼を瞬かせた。

するとややあって、数秒ふくふくと笑っていた老婆が、細めていた眼をゆぅっくりと開けた。

色素の薄い茶褐色の瞳が、期待めいたものに揺れている。新しい遊び場を見つけた子供のように、きらきらと。
その輝きをぐぅと堪えるように口元に皺を寄せながら、老婆は少し遠慮がちに「ねぇ」と切り出した。


「せっかく二人でお茶してるところ悪いのだけれど…少しだけ、年寄りの戯言に付き合ってもらってもいいかしら」

「え、」

「お願い。ケーキ一つずつごちそうしてあげるから」


思わぬ流れに、ヨリコが短い吃驚の声を漏らした。ケイナに至っては眼を見開いて固まっている。

老婆はこんな反応がくることは予測していたのだろう。
少しも動じず、しかしこのまま離れないで欲しいと希うようにして、ぽんと両手を合わせてお願いのポーズをとった。

戯言と軽く揶揄したが、聞いてもらいたい話というのは身銭を叩いてケーキを出してでも聞いてもらいたいのだろう。
ヨリコとケイナは数秒、驚きが抜けるまできょとんとしていたが。
老婆の「駄目かしら?」と尋ねるような眼に、硬直は破られた。


「そ、そんな、いいですよ!ケーキなんかなくっても、お話聞きますよ!ね、ケイちゃん!」

「そうだぜ、ばあさん!妙な気遣わなくていいから、ほら!こっち座れよ!」


ヨリコはまたあたふたと手を動かしてフォローに入り。ケイナは話を聞くのなら向いあっていた方がいいだろうと急いで立ち上がって、ヨリコの方へと移動した。

あまりに二人が必死な顔をしてくるもので、今度は老婆の方が面食らっていたが。
二人がぴしっと背筋を伸ばして、自分座るのを待っているのを見ると、老婆はまだ一段と嬉しそうに微笑むのだった。


「ふふふ、優しいのね。ありがとう」

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